人間くさい自分をちゃんと書いていきたい
人のエッセイを読んだ。
読む前の自分と、読んだ後の自分が明らかに変わってしまうような、人間くさい、けれどその経験から生まれる言葉がとても生々しく、心を揺さぶるものだった。
美しい文章や、上手い文章に胸を打たれたりすることはままあるけれど、まるで両肩をガシッと掴まれユッサユッサと大きく揺さぶられながら
「しっかりしろよ」「目を覚ませ」
と真摯に伝えてくるような、そういう言葉で。
あぁ、エッセイというのは、「人の人生」そのものなのだ、とハッとした。
「内省」とはこういうことなのだ、と。
私は、暮らしの中の、小さな気づきや、季節の移り変わり、それから思い出なんかを綴ってきていたけれど、そうこうしているうちに、自身と真摯に向き合うことから離れ、気がつけば体裁のいい言葉を並べているに過ぎなかったのではないか。当たり障りのない良い人になり過ぎてはいないか。本当はもっと人間くさく、生々しいものなのではないか。書くことで、自身と向き合い、弱さや狡さや欲望を、もっと深く、もっと鮮明に確認したかったのではなかったか。
それは時にとても苦しい作業だ。だれも自分の弱さや狡さや醜さなど見たくはない。見て見ぬふりをして、目を背けて生きていたい。
しかし、それをしないことには、私は空っぽのままなのだ。自身の中身をよくよく観察すること、それは、たい焼きのあんこを確認すると同じく、ちゃんと身の詰まった人間であると「張りぼて」なんかではなく、相応の質量を持つと実感する作業であるからなのだ。
私は「張りぼて」だったのだから。
自分が「張りぼて」だと気がついたのは、高二の夏だ。成績優秀で、運動もできて、キャプテンや生徒会長という名前を持ち、地域で一番偏差値の高い高校へ進学し、比較的何でも卒なくこなしていた私は、周りからの評価も高かった。友達もそれなりにいて、笑いも取れて、人気もあった。鼻持ちならないヤツと、やっかみを受けることもあったけれど、我ながら、the優等生だったなと思う。
それなのに私は、内心、いつもどこか緊張しながら生きていた。本来の自分らしい姿とかという次元ではなく、その頃の私は、親や姉たちや世間に対する反抗心や復讐心がストイックに作り上げた「褒められるこども」に他ならず、その姿を作りあげた根本は、寂しさの裏返しを存分に拗らせて、呪いのような思いだった。
「オマエたちに頼らなくても立派になってやる」
「散々放ったらかしにしておいたくせに、
今に見てろ」
といった、家族に対する憎悪の念だった。
確かに一人、ストイックに勉強をし、走り込み、筋トレをして努力をしてきたのは自分だ。
けれど、それで得た評価を親へ話せば、
「さすが俺の子や!俺も…」
「お母さんも足が速くてなぁ、その血やろな」
と、いつの間にか自分たちの過去への賞賛へ、話がすり替わるのである。まるで、
「オマエが優秀なのは俺らの遺伝子のおかげだ」
と言われているような気がした。
愛されていないのだ。私の日々のプロセスなど、見てはいない。だいたい私など、父が独立し、自営業を起こすタイミングで、予定外に産まれてきてしまった失敗作なのだから。
口を開けば「お金がない」と言われ、新品は買い与えられずおさがりばかりで育ってきた。裁縫道具のまち針一本一本ですら、姉の名前の頭文字が入っていたし、靴はいつもキツいままで、姉妹で一番身長のある私だけれど、靴のサイズは一番小さく、足の指の形もおかしい。
「働かざる者食うべからず」と逐一唱える父への反抗から、私はだんだんと食べなくなった。
親への「憎悪」や「孤独」から出来上がった虚像「the優等生」に「幸せ」などありはしない。
ましてや、自己肯定感など育つわけがない。
結局私は、高二になったくらいから、身体を壊し、精神を病んだ。
家族に対して信頼などなかった私は、同性の先輩に恋をして、依存し、関係が解消されるとともに、心の拠り所を失くしてしまったことがきっかけとなった。友達とも、思えば上部でうまくやっていただけで、本当にしんどい時に頼れるような関係を築くこともできず、窮地に相談することができなかった。
ましてや、お金の心配ばかりしている親になど、とうてい話す気にもなれず、自分の力だけで生きていくにはどうしたらいいのか、朝も夜も眠れず考えていた。
不眠になり、過眠になり、過食になり、嘔吐を繰り返し、病院で検査をうけるもものの、これといった診断がつくことはとうとうなかった。
一カ月、二ヶ月と閉まりっぱなしのカーテンの部屋、ベッドから出られず、いっそもうこのまま「死にたい」と思うようになった。
楽になりたかった。
たかが、十何年の人生に未練などなかった。
夢を叶えられることもなく、嫌いな人たち(商売の方が大事で、金がないとしか言わず、賞賛を得れば自分の手柄として、あとは放任主義だった両親をすでに嫌いになっていた)からの賞賛を得ることの、その無意味さに気付いた今、この先なにを目的に生きていくのかわからなくなっていた。
ある夜、父と母が晩酌をする台所で、私はふらり起きていって、包丁を手にした。
「なにもかも、もういやだ!」
と自分に刃を向けたのだ。
あれだけ無関心で金の心配ばかりしていた母が、
「刺すなら、私を刺せっ!!!」
と、いっぱいの涙を溜めて、手首を掴んで、怒鳴った。私はその目が怖くなり、怯んだ隙に包丁は取り上げられ、そして、
泣きながら必死に言われたのだ。
「どんなことをしてもいいから
生きてさえいればいい」
私はどうせ死ぬなら、好きなことをしてからにしようと、別の人生に目を向けることにした。
「何をしてもいい」「生きてさえいればいい」
その言葉と、母のあの目に、私はようやく、身体じゅうの緊張が解けた気がした。
それだから、あんなに頑張って勉強して入った高校を中退して、「優秀で人気者な柊ちゃん」という「張りぼて」を棄てることは全く惜しくなかった。
「あの高校へ行ったんだから、せめて卒業すればその後の進路も楽なのに」
「あと一年通っていたら、卒業できたのに」
周りからどんなに惜しまれても、好きにしようと思った。どうせ気が済むまでしたら死ぬんだ、と決めたら、とにかく何も怖くなくなったのだ。
運転免許を取りに行き、フリーターとして朝から晩まで、三つのアルバイトをかけもちして、酔っ払いに絡まれたり、店長のセクハラに鳥肌を立てながら、一人で海外へ行くという無謀な計画を実現した。
それまでの自分を一切知らない人たちとの交流。
身一つで渡り合い、築いた人間関係。
それらは、本来の私が通用した証拠だと思えた。
私のままでいられる、ということに気がついた。
その「私」は、ずいぶんと子どもっぽく、ずいぶんと無邪気で、ずいぶんとわがままな私だった。
そうなのだ。
「私」というのは本来、優等生でも、良い人でも、できた人間でも美しくも正しくもないのだ。
親を困らせ、気分屋で、好奇心旺盛で、負けず嫌いで、欲深く、狡い人間なのだ。
そういう弱く、狡く、醜い自分を、
ちゃんと書いていかなければ、
ついつい私はまた
「張りぼて」になってしまう。