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20210106_一日一問/「解釈のジレンマ」について。


こんばんは。


菅野秀平です。


また緊急事態宣言が出るみたいですね。。。

もう制限ばっかで嫌になるわ。

僕も完全に巣篭もり仕様になろうかな。


ゲームやりたいんですよね。

久しぶりに。

子供の頃はよくやっていたんですけど、一切触らなくなってしまって。


桃鉄とか流行っているじゃないですか。

あれやりたいなーって思ってます。


あんまりガッツリハマるのも怖いんですけどね。




今日もニーチェの言葉に触れていきます。



解釈のジレンマ


物事はいかようにも解釈できる。

良い物事、悪い物事が初めからあるわけではない。良いとするのも悪いとするのも、役立つとか役立たないとか、素晴らしいとか醜悪だとか、いかようであろうとも、解釈するのは結局自分だけなのだ。

しかし、どう解釈しようとも、その時からその解釈の中に自分を差し込むことになるのを知っておこう。つまり、解釈にとらわれ、その解釈ができるような視点からのみ物事をみてしまうようになるのだ。

つまり、解釈や、そこから生まれる価値判断が自分をきつく縛るというわけだ。しかし、解釈せずには物事の始末が付けられない。ここに人生を読み解いていくことのジレンマがある。


たわむれ、たばかり、意趣ばらし



事象は一つ解釈は無限


今回の言葉は正直自分の中で理解できない部分が多い。いい物事や悪い物事ということが本質的に存在しないことは理解できる。でも、「解釈に縛られる」という言葉が分からない。分からないというか、腹の底から納得していない。と言ったほうが正しい。

自分は意固地になることはあまりない。去るもの追わず来るもの拒まず。切り替えの早さはピカイチだと自負しているし。まずそもそも執着していない。こだわりがないわけではないけど、人を巻き込んでまで執着しない。嫌ならひらりと離れるだけ。

どんどん手放していくと、本当に大切なものや好きなものしか残らない。何事も捨てたり、終わったりしてから始まる。

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