〈赦すこと〉についての覚書

はじめに
 この世界で起こる支配、差別、災害、戦争、生老病死、あらゆる理不尽な暴力を〈赦すこと〉は難しい。また暴力は、個人、集団、国家、というあらゆる水準でおこる。よって〈赦すこと〉を規定することも難しい。しかし、〈赦すこと〉を措定しない限り、他者と〈赦すこと〉について対話することができない。本文では、素朴な立場から〈赦すこと〉の格率を措定し、ジャック・デリダ(2001, 2015)を参照に〈赦すこと〉について検討するための覚書きを目的とする。

赦しの格率を措定してみる
1. 赦し。一方からすれば、どうか赦して欲しいと求めるもの、他方からすれば赦したくても赦せない不可能なもの。

2. 赦しと贈与。与えることによって奪うこと。赦すことは主権の行使であり、赦しを乞うことは主権の放棄である。

3. 赦しと忘却。赦すことは忘れることではない。赦せないことは忘れられない。傷が身体の記憶につけられたものならば、想起には苦しみを伴う。身体の赦しは、癒やしと関係する。

4. 赦しと立法。赦しは法律や権利とは異なる。謝罪、処罰、補償、を前提に赦すことは、赦しではない。

5. 赦しと真実。赦しの過程は、暴力と傷を超えた時間の流れがあり、共同体や世代に共有される証言がある。真実によって、癒やしと和解が進む。

6. 赦しと個人。誰かに変わって赦しを与えることはできない。たとえ、主権であっても赦すことを強制できない。

7. 赦しと権能。赦すことは人間の権能を超えている。赦すことの権能は誰も所有できない。赦すことは、赦されることでもあり、互いに解放されるものである。

8. 赦しと超越。赦しは主権の権能を超えたところにある。主権によって赦されるのではなく、赦るすこと於いて赦される。確実でも、必然でもない、不確実の可能性、無条件的なものとして現れる。

9. 赦しと生存。生き残ることは罪悪感を伴い、赦し赦るされた後にも生は続く。傷が絆となって生存は続く、赦しは自ら境界を引き直す権能に関係する。

ヘーゲル・アーレント・デリダの赦し
 ジャック・デリダ(2015)『赦すこと 赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの』未來社、に収録されている、守中高明の訳者解説「不ー来たるべし赦しの倫理学のために」から重要だと考えられる部分を以下に引用する。

①ヘーゲルの赦し

「悪」と「正義」の、「罪」と「裁き」の、「特殊」と「普遍」の対立が、赦しによって「止揚」され、最終的に「和解」へともたらされること、そしてその「和解」の名が「神」であることーここにこそ、ヘーゲル哲学の最大の特徴がある。そしてもう一つ見逃してはならない特徴は、ヘーゲルが赦しを「傷」を「癒す」ことのメタファーによっても語っていることである。『キリスト教の精神とその運命』における記述は先に見たとおりだが、『精神現象学』にもつぎのような一行があるー「精神の傷は癒えて跡形を残さない」。「罪」の赦しが「精神」における「傷」の治療に等しいということ。

ジャック・デリダ(2015)『赦すこと 赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの』未來社 (守中高明「不−可能なることの切迫ー来たるべし赦しの倫理学のために」)pp. 104‐105より引用

②アーレントの赦し

第一に、アーレントは人間の条件としての「不可逆性」、すなわち「自分がいったい何を行っているのかを知らず、知り得なかったにもかかわらず、自分が行ったことを取り消せない」という「不可逆性の苦境」からの「可能な救済=贖い〔redemption〕」として、端的に「治療〔remedy〕」として「赦しの能力〔faculty〕」を位置づけるー
(中略)
第二に注目すべきなのは、アーレントが赦しの概念を能うかぎり世俗化=非宗教化している点である。
(中略)
赦しとは、アーレントによれば、なんら超越者の権能ではなく、人々のあいだの「耐えざる相互的解放」のための行為であり、人びとに「自由な行為者」として、そのつど「何か新しいことを始める」ことを可能にする非宗教的働きかけなのである。
(中略)
アーレントはまず、赦しから神的起源と特性を取り除く。ついでその赦しのうちに「人間の条件」である「不可逆性」に対する「治療薬」の効果を見出す。そしてさらに「人間的事象の領域」におけるその役割を、悪事による躓きから人びとを「相互的」に「解放」することへと、人びとを「自由な行為者」にすることを方法づける。だかしかし、アーレント的赦しは最終的に、神的超越性とは異なる意味で「人間的事象」と力を凌駕するような「根源悪」に直面し、判断することになるーこれは「許し得ぬものである」、と。

ジャック・デリダ(2015)『赦すこと 赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの』未來社 (守中高明「不− 可能なることの切迫ー来たるべし赦しの倫理学のために」)pp. 105‐109より引用

③デリダの赦し

デリダはみずからの赦しが「その固有な意味を持つため」には、「どんな「意味」も、どんな「合目的性」も、どんな理解可能性さえ、持ってはなら」ず、それは「不可能なものの狂気」であるとすら言う。だがそんなことは、デリダ的な赦しが現実の世界内では起こり得ないもの、現実的には「不可能」な夢想であることなどを意味するものではまったくない。また、それが実行可能性と映りかねないのは、デリダ的な赦しの概念がカント的な意味での「統整的理念」であるからでもない。そうではなく、ここに明瞭に読まれるように、一般的信憑からするならそのラディカルな純粋性ー非―現前的ーゆえに「不可能」とも「狂気」とも見えよう赦しが、しかし、その純粋性だけを起源(なき起源)として、今―ここに到来すること、そして現実の諸条件(政治的、法的、社会的、心理的等々)に介入し、それらのうちにみずからを投じ相互干渉することによって現実を変革することの可能性と必要性を、デリダは告げているのである。デリダはつぎのようにも言っているー「それはおそらく、到来する唯一のものでさえあるのです」。そしてこの点において、デリダ的な赦しは、ヴァルター・ベンヤミンの言う「神的暴力」に似る。
(中略)
デリダ的な赦しが、その純粋性において、すなわち非―エコノミー的で非―和解的な性質によって、「革命のように」「歴史の、政治の、そして法の通常の流れを不意打ちする」一つの力であるのと同様に、ベンヤミン的な「神的暴力」もまた、その「純粋な直接」性において、「法を措定する」「神話的暴力」に「あらゆる点で対立」しそれに「停止を命」ずることで、「国家暴力を廃止」して、「新しい歴史時代」を「創出」する、そんな革命的な力をそなえている。しかもこの両者は、純粋な贈与と同じく、それとして現前することはない。(「だが、ひとびとにとって、純粋な暴力がいつ、ひとつの特定のケースとして、現実に存在したかを決定することは、すぐにできることではないし、すぐにしなければならないことでもない」)。それはただ、「法律、政治、道徳すら近づきえないままに、すなわち絶対的なままにとどまらな」らない「秘密」として、「あるいは法理論が注目しているのとは別種の暴力の問い」として、保持され、約束されることができるだけなのである。

ジャック・デリダ(2015)『赦すこと 赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの』未來社 (守中高明「不−可能なることの切迫ー来たるべし赦しの倫理学のために」)pp. 121‐124より引用

デリダのインタビュー『言葉にのって』からの引用

赦しがあるためには、取り返しのつかないことが思い出され、それが現前し、その傷が開いたままでいることを要します。もし傷が和らぎ、癒合したら、赦しの余地はもはやなくなります。もし記憶が喪や変形を意味するならば、そのときは記憶はそれ自体、忘却になります。このような状況の恐ろしい逆説とは、そのような赦しを与えるためには、たんに加害や犯罪を被害者が思い起こす必要があるだけでなく、そのような喚起が、傷が加えられたときと同じくらいになまなましく傷と痛みを呼び起こすのでなければならないということです。

ジャック・デリダ(2001)『言葉にのって』ちくま学芸文庫 pp. 202-203より引用

 この引用部分は、小松原織香『当事者は嘘をつく』筑摩書房、でも引用されていた。このインタビューの背景として、当時の南アフリカの問題があり、ジャンケレヴィッチの許しがぼうきを産みかねないという懸念についてのしつもんへの応答で、個人が受けた暴力の傷の特徴について述べたものではないことは留意したい。

赦し(パルドン)は法律家=権利(ドロワ)とは異質なものです。その点については大いに強調したいところです。ジャンケレヴィッチ自身、赦しについての本の中でそのことを手短に語っています。もし私が赦しの名のもとに犯罪者をその罪から切り離すとすれば、私は罪のない人を赦すのであって、罪ある人を赦すのではないことになります。つまり、みずからの非を認めて謝罪する人は、もはや同じ人ではありません。ところで、赦しは、罪のない人や悔悛した人を赦すのではありません。それは罪あるかぎりでの罪ある人を赦さなければならないのです。すると極限においては、そこから、赦しの錯覚常態と言えるにちがいないような錯覚的な経験が生じるもするわけです。つまり、現に自分の犯罪を再現し反復しつつあるにちがいないような犯罪者赦さなければならない、ということになるのです。そこにこそ、赦しのアポリアがあります。私がこう言うのは、赦しが不可能だと言うためではありません。私が言っているのは、もしそれが可能であるとしたら、そのような不可能なもの、つまり人が都合つけたり予測したり計算したりすることのできないもの、それに対して一般的に規範となる法制的な規準のない、また道徳的な規範の意味でもそのような基準のないもの、このようなものを引き受け、耐え忍ぶということと引き替えにするということです。もし赦しが倫理的であるならば、ジャンケレヴィッチの言うように、それは《誇張法としての倫理的》なのです。つまりもろもろの規範、基準そして規則を超えているのです。

ジャック・デリダ(2001)『言葉にのって』ちくま学芸文庫 pp. 205-206より引用

さらに

私は《逃げ去る》という言葉よりも《壊れ安》という言葉の方が好きです。壊れやすさ、私はそれをみずから要求しましょう。赦しの壊れやすさは、赦しの経験の大事な要素ですから。私は、もし赦しがあるならば、それは人知れず、留保された、ありそうもないはずのものであって、したがって壊れやすいものにちがいない、というところまで考えを押し進めようとしました。被害が出てたちの脆弱さ、その零さに結びつけられる傷つきやすさは言うまでもありません。私はこのような壊れやすさを考えようとしているのです。

ジャック・デリダ(2001)『言葉にのって』ちくま学芸文庫 p. 211より引用

おわりに
 ひとまず、本文では〈赦すこと〉についての素朴な格率を措定するこもさと、重要だと考えられる部分の引用となった。今後の課題としては、ヴァルター・ベンヤミンの「暴力批判論」とジャック・デリダの『法の力』を参照にして、「心的暴力」に似ているとされる点を検討していきたい。

引用文献
ジャック・デリダ 著 林好雄 森本和夫 本間邦雄 訳(2001)『言葉にのって』ちくま学芸文庫
ジャック・デリダ 著 守中高明 訳(2015)『赦すこと 赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの』未來社

参考文献
小松原織香(2022)『当事者は嘘をつく』筑摩書房
林好雄 廣瀬浩司(2003)『デリダ』講談社選書メチエ

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