ミシェル・フーコー+渡辺守章著『増補改訂版 哲学の舞台』を読んで

 ミシェル・フーコー+渡辺守章の『増補改訂版 哲学の舞台』を読みました。対談ということもあり読みやすく、フーコー自身が自分の考えや実践について解説してくれています。この本では、キリスト教の〈告解〉の形態が現代の主体という問題に引き継がれていることを言及していて、ここだけでも読む価値のある本だと個人的には思いました。今回の記事はこの本を紹介していきます。まず、フーコーは自身の関心について、以下の引用のように語っています。

そうではなくて、私が知りたいのは次のようなことです。すなわち、病気というものを、狂気を、犯罪を、人はどのように舞台にのせたかということであり、言い換えれば、人が病気や狂気や犯罪を、どのように見、どのように受け取り、それらにどのような価値を与え、どのような役割を演じさせたのか、ということなのです。つまり、私が書こうと思うのは、後になって人が、その舞台の上で真偽の分割を樹立するような、そういう〈舞台〉そのものの歴史なのであり、私の関心は真偽の分割になく、〈舞台〉と〈劇場〉の成立そのものにあると言えます。西洋世界が、どのようにして〈真理の劇場〉を、〈真理の舞台〉を、自らのために構築したのか、つまり西洋的合理性のための舞台の構築そのものを問おうと思うのです。


ミシェル・フーコー+渡辺守章(2007)『増補改訂版 哲学の舞台』
朝日出版社 pp. 17-18より引用

 と、本の題名にも入っている〈舞台〉という言葉を使って自らが何を問いているかを述べています。そして、自らの専門領域について分析することが重要だと語っています。

ところで、現代社会において〈知識人〉が果たし得る役割があるとすれば、それは未来に関わる真理を予言するというようなことではもはやない。むしろ、その役割は、現在時の診断者のそれであり、現在何が起こっているかを、しかも自分の専門領域について、分析することなのです。

ミシェル・フーコー+渡辺守章(2007)『増補改訂版 哲学の舞台』朝日出版社 p. 55より引用

 以下は、ミシェル・フーコーの考えるキリスト教の〈告解〉についての渡辺守章の言及の引用です。

しかし、こようなすべては、すでに触れたように、性の深層にこそ人間存在の最も決定的な真実=真理が隠されているし、その真理は言説として語られることによって真理として人間に所有される、という基本的な認識がなければ意味をもたないだろう。中世十三世紀初頭、正確に言えば一ニ一五年十一月の第四ラテラーノ公会議におけるカトリック教の〈告解〉の義務づけ以来、まさに西洋世界は、性という暗く捉え難い深層に問いかけ、そこにうごめく〈欲望〉を〈知〉の光のなかへとあばき出すことによって、人間の真実を求め続けたと言える。しかもここで重要なのは、この〈性についての真実の言説〉を産出する最も重要な社会的手続きが、〈告白〉という形態であったことであり、それはやがて、フロイトの精神分析がその科学的手続きの根底に据えるものであった、という点にある。しかも、この〈告白〉という言説行為には、二つの重要な関係構造が内在していた。一つは、〈告白〉においては〈知〉の所有者、すなわち〈告白する者〉が権力を握っているのではなく、宗教、裁判、医学のどの次元においても、権力は〈知〉をもたない側、言説化をそそのかし、それを聞き、収集し、読解する側にあるという点であり、その第二は、〈告白〉においては、語る〈主体〉と〈言説の主語〉とが同一であることから、そこに産出される〈性の真理〉は、〈主体の学〉の根拠そのものともなる、という点である。

ミシェル・フーコー+渡辺守章(2007)『増補改訂版 哲学の舞台』朝日出版社 pp. 78-79より引用

 こちらの本で、フーコー自身の言葉で〈主体〉、〈知〉、〈権力〉について知れたので、檜垣立哉先生の『フーコー講義』を再読して
理解を整理してみました。以下は、気になった箇所の引用です。

人間とは折り目なのである。有限性でしかない自己が、到達しえない自己の分身を、つまりは有限性が支配しえない無限を求める折り目なのである。そこでは、終末論的な観念、無意識という領域、間主観性というコギトの他者、起源への希求という影が、いつもつきまとっていく。

檜垣立哉(2010)『フーコー講義』河出書房新社 p. 87

 

それは西洋的な「主体」が、十八世紀に独立した「人間性」としてみいだされるときに、それ自身が能動的に世界をみると同時に、自己を何かに受動的に従属させることによってしか自律ができないという二重性を秘めていたことを、構成の力学として明示する。 

檜垣立哉『フーコー講義』河出書房新社 p. 104

 この二つの引用で出てきた「折り目」と「従属」は、スピノザの従属に関する指摘やドゥルーズの『襞―ライプニッツの哲学』につながっている概念だと考えられます。

フーコーは十七世紀以降、この権力の形態がおもに二つの仕方で発展してきたと述べ、その区分を論じていく。その前者が、身体に焦点を定めた規律権力であり、後者が、人口の調整管理をおこなう生政治であるというのである。

檜垣立哉『フーコー講義』河出書房新社 p. 125

統治しえない自然の身体をどう統治するのか。そうした問いこそが、生政治から統治性にひきつがれる大テーマである。そこでは、精神化される自己としての規律身体ではなく、自然や環境性のなかでの生命の自己性が問われるのである。

檜垣立哉『フーコー講義』河出書房新社 p. 134

 そして、この二つの引用は、規律権力と生政治に関する檜垣先生の要約です。非常に分かりやすくてフーコーの考えについて随分と整理できました。こうした考えが晩年のパレーシアにつながっていくようです。

引用文献
ミシェル・フーコー+渡辺守章(2007)『増補改訂版 哲学の舞台』朝日出版社
檜垣立哉(2010)『フーコー講義』河出書房新社

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