死にたい人々

死にたい。
つい口を付いてその言葉を発した人は多いと思う。
冗談かもしれないし、思い詰めた言葉かもしれない。
生きたいと死にたいはイコールのように、光が眩しければ眩しいほどその影は濃くなっていく。
生きようと努力すればするほど、ふとした瞬間に死を想う。
『死にたい』
太宰治の『恥の多い生涯を送って来ました。 自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。』
私にはまっとうな生き方がわからない。
ずっとそれに憧れて模倣して生きてきたけれど、もはやそれに縋ることが正解かもわからない。
『お前の求めることをすればいい』
そんな事が分かるならそうしてる。
それにどれだけ努力しても無意味だ。知りたくない事ばかり人は言う。

「死にたい」
もう自分にはこの世に未練はないのじゃないか?
そう思いながらヤクルト1000を飲む。
明日死ぬにしても睡眠の質は上げたいからね。

誰とでも繋がれるから、私は寂しいと思う。
誰かがいても求めているのは貴女じゃない。
君が求めているのも私じゃない。
私が求めているのも貴女じゃない。

過去に縋らないと誓ったら、生きる意味がなくなった。
正しい生き方を模倣したらアル中になった。
自分だけの何かを探す、なんて労力はとうの昔に消えていた。

死にたいあなたの心を心を読むことも寄り添うことも出来ません。
『貴女と私は違うから』
でもこの世のどこかで自分のような誰かが苦虫を噛み潰しながら生きているんだ。
「いつか出会うかもしれない貴女の苦虫を、ツツジの蜜に変えられたらいいね、なんて」





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