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本居宣長は空想地図作家の元祖だった...? 江戸時代の空想地図をめぐる大冒険

文:編集長・惟宗ユキ
この記事は『彰往テレスコープmuseum vol.02』「企画展示・本居宣長の空想地図」の紹介記事です。

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君は端原という都市を知っているか

「えっ、本居宣長ってそんなタモリ倶楽部みたいなことしてたの!?」、というのは長年付き合いのある人に「企画展示・本居宣長の空想地図」の話をした時のリアクションだ。

空想地図という遊びは、近年ひろくしられるようになった。空想のたてものや街角を描くのは子供の遊びのようなものだが、最近は実にオトナゲなく超精密な空想地図を描く人々が現れるようになってきた。試しにTwitterなどで「空想地図」と検索してみると、そのあまりの精緻さやコンセプトの豊かさに驚かされる。

そんな空想地図だが、江戸時代すでに超精密は空想地図を描いていた人物がいることをキミは知っているか。それが本居宣長(19歳)である。この偉大な国学者の隠れたエピソードは今や知る人ぞ知るものとなっており、数年前にはTwitterでも話題になっている。

この地図の名は『端原氏城下絵図』というが、これは後世つけられた名前であり本当の名前はわからない。一見しただけでは伝わらないと思うが、この地図も単なる遊びの空想地図でない。地理、文学、歴史など、19歳の宣長が持っていたありとあらゆる知識がこの地図に注ぎ込まれているのだ。

10代のころの本居宣長が何をしていたかを知る人はそう多くないだろう。かれは当時、単なる商家の次男坊でしかなかったが、古典や宮廷文化への傾倒を強め、数々の文献の筆写を行い、著作(のようなもの)の制作を開始していた。10代の宣長の著作のほとんどを占めるのが「筆写」と「抜き書き」で、これは知識のアーカイブ化というべき作業といえる。10代本居宣長は商家の息子としては無意味すぎる作業にのめり込み、もはや後戻りできないラインに突っ込んでいたわけである。

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空想都市侵入作戦

『彰往テレスコープMuseum vol.02:机上のユートピア』の企画展示では、この本居宣長19歳の空想地図を取り上げた。だがそれは、単に古文書の研究・解説という形にはなっていない。40ページほどの記事の半分ほどを「1985年版の端原の観光ガイド」にあてている。どうしてこんなメチャクチャな作り方になったのか。順を追って説明しなければならない。

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実はこの『端原氏城下絵図』は比較的最近発見されたものだ。というのも『絵図』は単独の作品ではなく、地図内に記述された架空の王朝の人物を描く『端原氏系図』を読まなければ理解できないものなのである。ところが『系図』は宣長が後に裏紙として使ってしまったため、長らく存在がわからなくなっていた。これによって『端原氏城下絵図』は宣長の没後数百年間、謎の地図として扱われ続けたのである。『端原氏系図』が発見されて、ようやく『絵図』が空想の場所を描いたものだと判明したのは、なんと昭和53年(1978)のことであった。

発見当時から『端原氏城下絵図』は宣長の知られざる一面を物語る資料として、多くの論文などで取り上げられてきた。しかしながら、なんとどの論文を読んでもこの街がどんな街なのかさっぱり分からないのである。確かに、どこに武家屋敷が置かれ、どこに街場があるのか、街道がどこに通っているのか、そういったことを書いている論文はあった。が、例えば端原の街に立った時、いったいどんな景色が見えるのか。論文に掲載された縮小版の『絵図』では黒いシミのようにしか見えない文字は、いったい何と書いてあるのか。それが全くわからないのである。

私はこの『端原氏城下絵図』の記事をつくるにあたってまず、『松阪市史』に付録として収録された原寸大の『絵図』を入手してみることにした。空爆作戦の指揮官さながらに大判の『絵図』を読んでいくと、この都市は論文で読んだよりもはるかに生き生きとしていた。

例えば、街の南東側の「桐ガ畑」という場所には「飯野権現御旅所」と書き込まれた一角がある。「御旅所」がこの位置にあるということは、「飯野権現の祭礼」では神社からこの地点まで行列が練り歩くということになる。

春も夏も、朝も夜も、この街には確かにあったのだ。そんな彩り豊かな街が、宣長に「地図」として描かれてしまったばかりに「地図」としてしか価値を与えられてこなかったのだとしたら、それはこの街にとってとても不幸なことであると言わねばならない。『絵図』は今や色あせてしまっている。色数は少なく、川も山も湖も、灰色でしか塗られることはなかった。だが宣長にはもっと極彩色に、この街が見えていたはずだろう。街の東側に描かれた四郡湖が、ふと波立ったような気がした。

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「長春御門」跡の石碑を立てたかった

しかしこの絵図をすべて活字に起こしただけで、空想都市・端原の景色がどれだけ伝わるのか疑問だった。たとえ実在の場所であっても、江戸時代の地図から現実の景色を想像するのは難しい。たとえば「これがあなた街の250年前の地図です」と言われてみたところで、それは単に地図としてしか映らない。なぜなら私たちは本物の「江戸の街」を誰一人として見た事がないからである。

はたしてどうしたものか…そう思いつつ、さっと思いついたイメージを纏めて『端原氏城下絵図』の掲載許可を得るため、所蔵する本居宣長記念館に電話をかけた。

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「『端原氏城下絵図』の全編解説をやろうと思うのですが、掲載許可をいただけますでしょうか?」
「はい。」
「それでですね、宣長が書いた絵図をそのまま紹介するのでは面白く無いと思うんです。だいたい200年後の人間にしたり顔で自分の遊びを解説されるというのは、宣長にとって不本意なのではないでしょうか? そういうことをするよりも、もっと19歳の宣長と一緒に遊んだほうが良いと思うんです。そこで、内容の一部は現代端原の観光ガイドということにしたいんです。」
「はい?」
「端原は宣長に描かれた後もひそかに成長して今や観光地になっていると思うんです。宣長が書いた街の歴史はすべて歴史館で学ぶことができて、四郡湖には遊覧船が浮かんでいる。武家屋敷には全部史跡のカンバンが立っている、そういう景色になっていると思いませんか?」
「おっしゃっていることがよくわかりません。」
「すみません、実は僕もよくわからないんです。」

とまぁ、こんなやりとりがあったか無かったか。ともかく記念館の方は大いなる疑問を抱いたまま許可のハンコを押した。

端原の夜は明けて

実は『絵図』と『系図』の制作は、未完成のまま中断を迎えている。彼が本居宣長と名乗り、国学者としての道を歩みだすのはこの数年後のことだが、この後の学問の萌芽はすでに空想世界に描かれている。

たとえば、このころ既に和歌への関心を強めていた彼は、街の南側に和歌の神を祀り、歌枕のパロディのような場所を描いている。また、端原の市街は京都をモデルとしているが、彼の強い京都へのあこがれは古典文学への傾倒と結びつき、源氏物語の研究につながってゆく。王国の物語を描こうとする努力は『古事記伝』へと繋がるともいえるだろう。19歳の彼は、まさか自分が国学の大家として歴史に名を残すとは思ってもみなかっただろうが。

この端原の世界は、宣長が19歳の時に幻視した状態で、真空パックされている。端原の絵図をひらくとき、私たちはまだ何者でもなかった男「小津栄貞」と出会うことができるのだ。 

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