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【本居宣長の空想地図】 その2 総説編(後)

※この記事は前回記事「【本居宣長の空想地図】 その2 総説編(前)」の続きです。


 端原の世界は昭和57年(1977)に発見されて以降、青年期本居宣長の思想を読み解く一助になることを期待されて、いくつかの研究が出されました。ざっと並べると次のような論考が出ています。アカデミックなのを読みたい人はこのへんを読んでみてください。

日野達夫「本居宣長と地図」『新潮』946号 (1983年)
岡本勝「青年期宣長の物語の構想とは」『国文学 解釈と教材の研究』27(8) (1992年)
上杉和央「「端原氏城下絵図」について」『鈴屋学会報』 (19), 1-15, (2002年)
上杉 和央「青年期本居宣長における地理的知識の形成過程」『人文地理』 55(6), 532-553, (2003年)
上杉 和央「青年期宣長と地図」『近世知識人と地図』

 今回は代表的な研究として岡本勝さんの「端原氏物語系図」(以下「系図」)の研究と、上杉和央さんの「端原氏城下絵図」(以下「絵図」)の研究を紹介します。

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「端原氏物語系図」の研究

 端原世界の発見者のひとり、岡本勝さんは系図の分析を行っています。前回書いたとおり、岡本さんはこの「系図」と「絵図」は小津栄貞(このころの宣長の名前。ヨシサダと読む)による『端原氏物語』構想の断片であると解釈しました。

確かにこの系図は、この国の君主となった男・端原宣政の誕生した親安(架空の元号)4年から宣政が王権を掌握する道房3年までの約50年の情報が中心となっているため、一族の血統を表すものというよりも国中の侍たちのキャラクターシート的な側面が強いのです。

一例として端原氏の家臣・和崎氏(通称・松井殿)の系図の一部をあげますと、


▲松井殿
代々三善の松井。親国三より五水嶋方 正元年より三善郡松井 五千六百二十石 御舘中筋長春御門の東。下屋敷東大路 中主十一代の孫常陸介惟方嫡男 内主より十四代目の主
○御家臣
  平井土佐掾
  久保沢市正
  徳山下野掾
  土井 宮内
○和崎惟秀卿
  親雅八生民部少輔太夫 
 正元二の十一日逝去三十八歳
  御簾中秋山則量卿女



 というふうになっています。「和崎氏」の領地の変遷、血統、屋敷の位置、家臣の名前、人物の生没年などがわかります。

 「系図」には50年間分のこのような情報の断片が散らばっています。そこで岡本さんはこの断片的な情報を時系列順に並べ、「端原氏物語(仮題)」の内容を次のように推測されました。
 

——むかしある国に大侍の家格をもつ二千石の氏族・端原氏があった。

嫡男宣政は22歳で家督を継ぎ、27歳には家格を准邦客にまで押し上げて四千石の大身に出世する。

親広元年、宣政45歳の時に国に内乱が起こった。君主代替わりに際し、年若い新君主・親広に反抗する勢力が決起したのである。宣政はこの内乱に親広方として参陣して勝利を収めた。この年、宣政は侍従に昇進し、二年後には少将となる。

しかし、四年後に再び大侍・和崎惟廉が反乱を起こす。「関山」を中心とした三ヶ月以上の大規模な合戦となり、宣政の五男・政広、藤倉忠光などが戦死したが、和崎惟廉を討ち取ったことにより内乱は収まった。この年、宣政は中将に昇進し、やがて宰相となった。

が、国内の情勢不安は翌年まで尾を引き、宣政は君主親広の嫡子で、宣政とも縁戚関係のあった親徳を擁立して国内を平定する。わずか七歳の親徳は宣政に君位をゆずり、自らは家臣に列したのであった。時に道房三年、50歳の宣政は大聖君と讃えられ、新たな国の主となったのである。

 岡本さんは、「端原氏物語」は宣政の栄達物語であるのみならず、前半では青年期宣政と七人の側室を描き王朝風の恋物語、後半では合戦を中心とした軍記物語の趣向が組み込まれていたのではないか、と推測しています。岡本さんの推測には根本的に疑問ももたれているのですが、それはおいおい述べるとして、「系図」からこのような物語が読み取れることに間違いはありません。

 さて、ここで「これっていつの話なの?」という疑問が当然湧いてくるのですが、岡本さんは系図の代数(端原宣政は42代目当主)から考えて12世紀・平安末〜鎌倉初期の設定ではないかとしています。

それにしては「何千石」「五百石」というような家臣の給料制度や、端原の街の形など、あまりにも江戸時代チックなところがあるのですが、江戸時代には「時代考証」などという概念はほとんどなく、歌舞伎や浮世絵は平安時代の中にちょんまげや天守閣を平気で登場させちゃったりしています。なので栄貞のつくる12世紀端原も、江戸ポップカルチャーの文脈を踏襲して、ちょっと江戸時代っぽくなっちゃってるわけですね。




端原氏城下の研究

 一方、「端原氏城下絵図」を詳しく分析されているのは上杉和央さんです。上杉さんは端原氏城下絵図を「宣長の都市についての認識が色濃く表れている」ものとし、「一八世紀における知識人の地理知識の形成を探る好事例」として研究されています。そのため上杉さんの研究は「端原城下」のモデルはどこか、という問題が中心になっています。


上杉さんが端原城下のモデルとして第一に推定しているのは京都です。

 この絵図は二百数十年間「洛中洛外図」という誤ったタイトルを背負わされていたように、一見しただけで京都っぽく見えます。上杉さんによれば江戸時代の京都を90度回転、つまり横倒しにするとさらに共通性がわかりやすくなるといいます。ちょっと比較してみましょう。

宝暦の京都

京都と比較する図

地図上の左上で「高野川:安野川」と「鴨川:島田川」が合流し、南側に「桂川:紅葉川」。2つの川が「巨椋池:四郡湖」に注ぐ....。というふうに、たしかに対照する場所、似た地名をみつけることができます。

 実は栄貞はこれ以前に京都の地図を模写したり、京都のあらゆる場所の情報を集めた『都考抜書』という随筆を編集したりと、京都に対する並々ならぬ関心を持っていました。また、栄貞は16歳と19歳の時にじっさいに京都見物をしており、例えば端原城下には芝居小屋があったりしますが、これは京見物の時に芝居小屋で観劇した体験が元になったのでしょう。

 しかし、端原の街にはどうしても京都らしくない部分があります。例えば御所のまわりに家臣団の屋敷がしていることや、町割りのプランなどは江戸時代の城下町ならではのものであり、京都には存在しません。

 そこで、上杉さんが第二にモデルとして想定しているのが松坂です。

待つ赤

 松坂は典型的な城下町であり、城を中心とする武家屋敷町をもち、街道の周囲に町割りが計画されています。そして何と言っても松坂は小津栄貞、本居宣長が生涯を過ごした場所でした。


 上杉さんの説に従えば、栄貞は憧れの都・京都と自分のホームタウン松坂をミックスして端原という架空の都市を作った、ということになるのだと思います。

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※次週からはいよいよ彰往テレスコープの端原研究です。


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