源氏物語はアニメ声で

「本当はねえ、高校一年生に古文なんて教えたくないのよ」


 初めての高校の古典の授業で、月野先生は生まれつきであろうアニメ声でそう言った。


「なーんでこんな基礎的なことから教えなきゃいけないのよ。『ゐ』は『い』って読むのよ、とかさ」


 鮮やかな口紅が引かれた唇から次々と愚痴が溢れてくる。美人だけど、キツそう……。それがわたしの月野先生の第一印象であり、ほとんどのクラスメイトがそうだったであろう。教室全体にイヤな緊張感が走ったのを今でも覚えている。


「この先生はヤバい」

 おそらく、クラス全員がそう感じていた。


 予想通り、授業を重ねるたびに彼女の辛辣さは増していった。この間中学校を卒業したばかりの少女たちに浴びせるには酷な言葉ばかりだった。

「勉強不足ね、そんなことも知らないの?」


「予習が足らないわよ。前後の文脈と物語が理解できてないわ」


「そんな現代語訳になるわけないでしょう。どんな辞書を使ってるの?」


 第一志望の高校に受かって浮かれていたわたしだがさすがに顔が青くなった。「これはヤバい」と悟り、とにかく予習、復習、予習、復習、さらに予習。

 授業中にばんばん当ててくる月野先生は、前述の通り勉強不足の生徒には容赦ない。しかもそれはまごうことやに正論で反論のしようもない。他の授業は居眠り常習犯のわたしも、古典の授業だけはあくび一つしなかった。

「じゃあ次の短歌を訳してみて」

 そう言われて月野先生に初めて指名された時は、心臓が止まると思った。

 しどろもどろでよく分からない現代語訳を、わたしは心臓バクバクで発表した。どんなに貶されたって仕方ない。もうやるしかないのである。

 わたしの解答を聞いて、月野先生は何も言わなかった。

 叱責もしなければ、訂正箇所もない。ただ月野先生の新しい解釈が加えられ、授業は進んでいった。

「こ、これはギリギリセーフか……?」

 こわごわと月野先生を見上げると、彼女は短くこう言った。

「下手な訳ね」

 わたしはなんとも言えない気持ちで、手元にあった古語辞典を引き寄せた。


 月野先生は大学院で古典文学の研究をしていたのだという。道理で怠学者に厳しい筈だ、と納得したのを覚えている。10代相手に大人気ないなぁとも正直思ったが……。


 さらに彼女は、生徒だけでなく、作品にも手厳しかった。


 奥さんがお化粧して旦那さんの帰りを待っています的な和歌が出てくると、
「いかにも男が読みそうな句よね」
 と、ばっさり切り捨てたり、

 か弱すぎる平安貴族が出てくる話を紹介して
「平安貴族ってすぐ死んじゃうのよね」
と言い捨てたり、的確なのだがとにかく手厳しかった。

 しかし、そんな月野先生のおかげでうちのクラスの古典の模試の結果はすこぶる良く、他クラスの子たちから羨ましがられるという奇妙な現象が起きた。


 正直言って、わたしは月野先生があまり好きではなかった。

 怖いし、なんとなく馬鹿にしてくるし、古典そのものも別に面白いと思わない。ただ、彼女が古典を愛していて、後輩たち(月野先生はOGである)正しい解釈で読ませたいという熱意は伝わった。月野先生のおかげで古典はなんとか大学受験に合わせられるレベルになったし、文学作品を観る目も養われた。

 何もかもに手厳しい月野先生だが、ふと繊細な一面を覗かせたことがあった。

 源氏物語が大好きだった月野先生は、折に触れて源氏物語の話を引っ張り出してきた。

「紫式部はね、『もうこれ以上は書けない』というところで筆を置いたのよ」

 それは、紫式部が女として生まれたことへの諦觀を意味していたという。『女としてして生まれてもうこれ以上の物語は書けません』というのが源氏物語の締めくくりであったという。

 その時の月野先生の声はどこか寂しそうだった。普段はあんなに生徒たちをけちょんけちょんに言っているのに、紫式部が筆を置いた話をした時だけは、まるで自分のことのようになんとも悲しそうな顔をしていた。

「本音を吐露できる友人が2.3人いればね、それで充分なのよ」

 そう呟いた月野先生の声は小さく、だが明確な意思が感じられた。

 それから2年が経ち、あっという間に卒業式となった。

 わたしは第一志望には落ちたものの、クラスで唯一心理学科への合格を手にしていた。嬉しくてたまらなかった。担任ですら、わたしの合格を信じていなかったのだから。

 卒業式後の謝恩会、わたしは月野先生にお礼を言いに行くと決めた。卒業したらしばらく会えないだろう。

「わたしは怠け者だけど、先生のおかげで古典の成績が伸びました。ありがとうございました」

 すると、月野先生はいつものようにきっぱりとこう言った。

「わたしは何もしてないわ。貴方が頑張ったのよ」

 その一言が、信じられないくらいわたしの胸を打った。

 ああ、きっと先生は信じて待っていてくれたんだな。出来が悪くても決して見放さず、愛の鞭を振るい続けてくれた……。

 そのあと、先生と写真を撮った。先生らしく、笑っている写真は一枚もなかった。

 そして、わたしが高校を卒業した数年後、月野先生は結婚したらしい。そしてさらにその数年後、自殺してしまったらしい。

 らしい、らしいばかりで月野先生に「下手な訳ね」と怒られそうだ。

 だが、それはあまりにも衝撃的な事実すぎた。月野先生が自殺なんて信じられない。結婚して少し丸くなったと人伝いに聞いていたのに。何があったのだろうか。

 おそらく、先生は何もかもに潔癖すぎたのであろう。いつも完璧を求めて、妥協や手抜きを一切許さない先生。

 勉学においても、人生においても、ただ素敵なキラキラしたものを探して……探しすぎて、疲れてしまったのではないだろうか。

 わたしはあまりにも月野先生のことを知らなさすぎた。

 でもきっと、忘れることはできない。


 今でも源氏物語を見つけると、皮肉っぽい月野先生のアニメ声が聞こえてくる気がする。

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忘れられない先生

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