形而上学とは何か?善行のメリットと人の正しさ高潔さとは何か

noteでサポート(寄付)をいただいたため、1本だけ無料の記事を書いてみます。

善行を受けたらその恩義を返す義務が私にはあるからです。

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popoさんありがとうございます。形而上学の記事を書きます。

鬼の岩波文庫と呼ばれる出版社がある。日本でもっとも硬質で読みにくい。難解な書物群です。

たとえば日本最古の書物「古事記」を当時の原文で丸々出版してしまう狂気の出版社です。


ていうか、新約聖書にしろプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神にしろ、原文より解説のほうが多いという難解な出版社です。

その出版物の1つにアリストテレスの「弁論術」がある。アリストテレスの弁論術には形而上学が書かれている。

これは社会科学ではないものの、私はこれを宇宙論と同時に信奉しているのだ。


今回は無料の記事です。有料の記事は読者様のニーズに沿うよう、ほぼすべて金の儲け方の記事にしましたが、元々私は人文科学の人間ですので、人文科学(人間の心の論理性)の話をします。

まず、宇宙論とは何か?

これは稲盛和夫の「生き方」に書かれているように、理系の自然科学側の人間からするとDNAの配列情報を見ていると


私たちの住んでいる地球や宇宙を形作っている「誰かがいる」、こんな偶然はあり得ないという配列。創造主様が外にいて宇宙を作っていて、その狭い箱物のなかに私たちがいる。

また、この世界の「何かの存在」に対して良いことをすると、巡り巡って自分に良いことが起きる。

という論理のことです。


自然科学側の人間は、この世界を作っている「なにかの存在」に気づいている。

そして人と社会に良いことをすると、自分に良いことが返ってくると信じて疑ってはいない。

という自然科学の理論のことです。


これも社会科学(社会の論理性・法則性)にはそんな論文はありません。また、アリストテレスの形而上学である循環を止めろ!循環を絶て!

も社会科学ではないのです。循環を止めろとは悪循環のことです。

平清盛はまだ幼かった頃の源氏の源頼朝と義経を生かして、その良心から彼らを開放したものの、この二人によって平家は滅亡します。その後の戦国時代に入ると信長の子や秀吉の子はリスク要因とされすぐに殺されることになる。


これらは循環を断つためのもの。形而上学です。

宇宙論は誰かが見ている。形而上学はやられたら徹底的にやり返して殲滅させることで、悪循環を絶ち切るというためのツールです。たとえば障害者の場合、リアルでいじめに遭う。

頭を殴られる。先週も私は「人もどき」と言われ落ち込みました。


その場合も、形而上学を使うならば主にネットやそいつが見ている媒体で、徹底的にやり返す。

相手がもう止めてくれと言っても殴ってくるため、今後は絶対に歯向かわぬよう殴ってこないようにインターネットに書き殴る。循環を止めるためにもう相手が私たちを殴ってこないところまで追い詰める。

追い込む。


こういうのは色んな場面で見られます。

ドラマでもその潮流を受け倍返しだとか、やられたら倍にして返すとか低度の低いことを言ってます。歳を取り色んな人間を見てきてこのような人文科学的な循環はあるのか?

また、誰も見ていない、たとえば街に落ちていた誰かが落としたゴミなどを拾い、家のゴミ箱に捨てる。困っている人を助ける。


このような社会科学、主に経済学の学問の教科書に載っていない善行が、果たして役に立つのか。正しい、高潔さという生き方は金になるのか。金でなくとも幸福感を得られるのか。これについて私はずっと考察してきました。

その結果、一言で言えるのは、金にはならんということです。金になるための合理性はそこには存在しません。

困っている人間をしこたま助けても金にはなりません。


そんなんなら、もっとゲスく、たとえばいまなら不況期だから裁判所行って差し押さえられた物件を20分の1の価格で買って、リフォームして倍の値段で売りつけたほうが、他者の人情とか心の尊厳とかぜんぶ踏みにじったほうが金になるし、合法だし、儲かります。

金にはなる。よって、金になるかどうかと人徳や徳目には関係性がありません。

では、善行とはどんなメリットがあるのか。


困ってる人を助ける、私は馬鹿で頭が悪いから、ただ道を歩いてるだけでお年寄りとかから、道を聞かれたり話しかけられたりする。

ニコニコした表情で歩いてるとよく話しかけられる。逆に徹夜明けとか苛立ってる状態だとまず話しかけられない。

話しかけられても全部耳聞こえていないから、もう一回言ってもらえませんか?


と5回も言うともういいよ!と怒り出して去っていく。それなりにフラストレーションの溜まる体だけど、そもそも善行やってる奴は見返りすら求めてない人達なんだけど、この金にまるでならない行為が何を意味するのか。

金の稼ぎ方に特化したゲスい私から言わせると、善行や正しい行為と言うものは、すべてではないもののやはり人に見られているのだ。

宇宙論とはまた別として周りの人にその清廉潔白な正しい精神性は、見られている確率が極めて高いのである。


前にベンチャー企業で働いてたとき手の空いたWebデザイナーはデバックというものをやらされるため、面倒だけど自分もやっていたことがある。

デバックとはプログラムにバグがないかを確かめるため色んな動作を試すという行為だ。たとえばECサイトのプログラムの場合、商品をカゴに入れた後戻るボタンを押したらちゃんと元の画面に戻れるか。

商品購入の途中でトップページへ戻ったらバグが出ないか。カゴのなかにちゃんと商品が入ったままか?


またそのときそのときの画面でデザインは崩れたりしないか。すべてコメントを書く欄があって、おかしなデザインになった場合はExcelでここはこうしたほうが見やすくなる。

購入者は気分よく買い物できる。

みたいに書くわけだ。


私は馬鹿正直だから一つひとつのデザインの崩れとか色とかスペースの空き具体などをExcelの欄に書き込んで行ったことがある。

デバックは同じ動作を何度もやるから社員の大嫌いな業務である。

みんなデバックが嫌いだ。


そんななか馬鹿正直に6時間くらいぶっ続けてデバックしてそれを1週間くらいしていた頃、ある日私は社長に呼び出されたことがある。社長は黒須さんのデバックはすごく丁寧でわかりやすい。

プログラマーはデザインや空間の取り方、美しさとかそういう感覚がないから、とても貴重な意見でECサイトがどんどん良くなっているよ。

と話してくれたことがある。


誰も見ていないようなこと、また、悪意や恣意性や利益を求めてやっていたわけではない。

ただただ人として正しい行為とはなにか?

を思考して仕事をしているだけにすぎない。給料以上に働きたかっただけだ。


それは極めて金にならないことが多い。身近な人間になら評価されることはあるものの、善行は、評価されないことのほうが多い。しかし40年も生きててこの馬鹿になれ。正しいことだけをしろ。

たとえ自分を馬鹿にしてきた奴がいても人を悪く言うな。人を悪く言うなよ。

という行為を徹底的にやってる奴は貧乏人も金持ちもいるが、唯一絶対的な特徴があることを私は知った。


その特徴とは、そいつが確実に良い奴だと言うことだ。そしてそいつの周りにはいつも人がいっぱいいるのだ。

善行のメリット、人徳・徳目、困ってる人がいたら損得抜きで助けてやれる奴。

体が勝手に動く馬鹿。


そいつは確実に良い奴だ。

そして私は自分の頭を殴ってくる奴がきらいだ。だけど逆にこういう損得を考えない馬鹿は好きだ。

そして、それは自分だけではないのだ。人間は損得勘定を持たない馬鹿を魅力的に捉えるのだ。


この人は良い人だ。

困っっている奴に手を差し伸べられる自己利益だけを考えている奴ではない。人格者だ。要は良い奴だ。

と考えるのだ。


そしてそういう奴ほど信頼され、そいつの周りにいても下剋上や裏切りや、そういう不安定な感情にはならない。

つまりこいつは人として一本筋の通っている人だ。後ろを任せられる。信頼に足る人物。と人は人を評価するのである。

だから善行ばっかやってる奴は金のある奴もいればない奴もいる。


だけど一つの特徴として人から信頼される奴は人に安心感を与えられる。そのため、いつもそういう人の周りには人が集まる。私が善行大好きなのはこのためである。本物というのはそういう奴らだというのを知っているのだ。

経済学のような合理性と人間の感情を完全無視した学問に傾倒しながらも、善行をしたいと望むのは、己のこの正しい精神性が好きだからなのである。

善行のメリットはこれ。


人間は自分という肉の体から死ぬまで出られない。ならこの肉を少しはまともな精神性に持っていきたい。正しいことをすることによって私が私を動かすとき自己に好感を持ちたい。

最低限自分を好きになりたい。

だから他者などはどうでもいいのだ。他者に殴られたら殴られた。でおしまいなのだ。


やり返したりはしない。大切なのは他者の精神性ではなく自己の精神性なのだ。正しく生きる。それを人には求めてはいない。己にだけに精神の鉄槌を下し厳しく自己を管理するのだ。

怠惰な精神性は許さない。それは自分を好ましい存在にするための努力であり、善行にはこういうメリットがあるのだ。

しかし善行にメリットを求めている時点で私はまだまだなのである。


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