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ただの一般人もインターネットで息をする

たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。

私とは何か 平野啓一郎


 両親や友人、会社の同僚にこれを見られるのは恥ずかしくて嫌だけど、今日もここ(インターネット)で発信を始める。

 ここでは、仕事や恋愛、趣味のことを可能な限りすべて発信する。誰も僕に興味がなかったとしても発信し続ける。普段は何の取り柄もない一般人ではあるけど、ここでは替えの利かない僕として唯一無二の発信を行う。学校や会社での僕のイメージと、ここでの僕のイメージがあまりにかけ離れてるだろうから、知り合いの人は僕のことを多重人格だとか裏表があるだとか揶揄してもらって構わない。その代わり、ここで発信を続けることをどうか許してほしい。正直、昨今のコンテンツ過剰な世の中において、自分の発信欲求を抑えられる気がしない。あれ?そもそも発信ってなんだっけ?どこかに電報でも打ってるのか?
ふと気が触れそうになる。

意志という絶対的な始まりを想定せずとも、選択という概念ーー過去からの帰結であり、また、無数の要素の相互作用のもとにあるーーを通じて、われわれは意識のための場所を確保することができる。

中動態の世界 國分功一郎


 インターネット上には本当にいろんなタイプの人が存在する。お金を本気で稼ごうとしている者、才能が自然と溢れてしまう者、寂しくてどうしようもない者、そんな人たちとインターネット上では絶え間なく相互作用が生じている。過去のアーカイブ、なんなら死者とも相互作用ができる。それに加えて、今や行動力さえあれば、色んな集団の中から好みのものを選択し、そこへ飛び込むこともできる。ある時には自分から経歴や肩書きを公表して、その肩書きに近い界隈に所属しようと試みる。僕がこうしてこの場所に存在し、発信までしてしまうのは、そのような大勢の人やクラスタが存在しているせいだ。僕はそんなに悪くない。

 そんな風に色んな人と相互作用を繰り返した結果、僕は特に才能もないのにインターネット上に場所を確保し、色んなキャラを身につけていく。そして接する人によって態度をコロコロ変える。周りをバカにしてる嫌なやつに対しては同じように嘲笑し返し、慈愛に満ちて尊敬できると思うやつのことは崇拝する。人を馬鹿にした直後に愛とは何かを偉そうに語る。仕事論を唱えた直後に仕事への愚痴を吐く。これらは明らかに矛盾している。でも、そのような矛盾と葛藤をありのまま体現し、しばしば後から訂正を行い、一つの個性を練り上げていく。その邪魔だけはされたくない。

 もちろん20代後半にもなってそのような生き様そのものがイタいとの冷静な見解もあるだろう。特に発信内容に「モテたい」とか「金が欲しい」みたいな漠然とした欲望が透けて見えると、人はそういう欲望の存在を容赦なく指摘し、無能な怪物扱いをする。立派な理念を持った集団内ではそのような怪物はなおさら排除されやすいだろう。そして怪物扱いされればされるほど、余計に自分の中でその怪物は肥大化していく。本当にどうしようもない。僕に責任はほとんどない。


あぁ素晴らしき世界に今日も乾杯
街に飛び交う笑い声も
見て見ぬフリしてるだけの作りもんさ
気が触れそうだ

怪物 YOASOBI

 今日もインターネット上には色んなコンテンツが飛び交っている。情報によってもたらされるドーパミンが過剰となり、気を抜けば頭がおかしくなりそうだ。

 タイムラインを眺めると、とある予備校講師のアカウントが今日も受験生に向けて「頑張れば報われる」的なポジティブ投稿をしていた。それに対して「頭が悪いやつは頑張っても無理w」というネガティブなコメントが例に漏れず付いている。
 光があるから影が付きまとう。影があるから光が際立つ。僕はその予備校講師がいつも明るい人だとは到底思えない。ネガティブとの相互作用があるから、ポジティブな発信をし続けられてるだけだと思ってしまう。

 また別のとある金持ちアカウントは、今日も「粗利〇〇万円!」とみんなに報告している。ビジネス色の強いアカウント達がこぞっていいねを付ける。
 数字があるから数字が付きまとう。数字があるから数字が際立つ。僕はその金持ち副業投資系アカウントが、何をしている人で何がしたい人なのかまったく分からない。

 そんなものだろう、インターネットなんて。それでも僕は我慢できずにインターネットを見続ける。

現在という十字路に立って過去を誠実に見つめ、過去を書き換えるように未来を書き込んでいくことだ

1Q84 村上春樹

 僕は相手によって態度をコロコロ変えてしまうと言ったが、これでも周りに甘えないように気をつけているつもりだ。上手く甘えられないだけかもしれないけれど。
 ここまでカオスなインターネット空間であっても自分のキャラは一貫しており、そのキャラをみんな受け入れてくれるだろう、という思慮の浅い甘えた人、そうはなりたくない。そこにはどうしても柔軟性が欠如しているように思えてしまう。キャラが一貫しているのは、良いことのようにも思えるが、面白くない。過去や未来が現在を絶えず更新しているというような時間の広がりを意識できないと、どこか窮屈に感じる。

 僕はここにいる全員のことがよく分からないという前提があり、僕のことを今後分かってくれるとも思っていない。だから生きている限り、ここにある自分の知らないコンテンツ全部に今後目を通していきたいし、自分のことを全て晒していきたい。僕のような怪物が生まれたことに関して「僕はそんなに悪くない」と前述したが、これはいわゆる他責とか自責とはなにか違う。僕は欲望に逆らえず、人に甘えようとしていないだけだ。
 当然、こんな雑文をこんな歳にもなって垂れ流している時点で明らかに恥ずかしい。未来からみたら目を瞑りたくなるだろう。でも未来の自分は、今ここで生まれた黒歴史を遡り、柔軟に過去を書き換えてくれるはずだという確信がある。

 今日も僕はインターネットで息を吸って吐きだす。note、Twitter、Instagram。最近は友人と一緒にラジオまで撮ってYouTubeにアップロードした。明らかに僕の中では躁状態だ。でもこれは防御反射としての躁だと思って許してほしい。明日また鬱屈とした社会で、一般人としての自分を生きるためには、ここで少々息を整えるためのリハビリが必要なのだ。



おわり

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