泣く

昔、「自分の人生を俯瞰しなくたって、あるいは、しないほうが、いいんじゃない?」という趣旨の文章を書いたことがある。

自分を見る、ということは、自分以外のものを見ることができなくなる、ということである。

自分の目の前に、ある他人がいるとする。その人は、最近、傷つくことがあり、とても悲しみ、怒り、落ち込んでいるとする。

そこで「他人のことを考える」とする。

そういう時、僕は、自分自身の体を自分の後ろへ置く、というイメージでそこにいようとする。後ろへやれば、それは見えなくなる。見えるのは、前にいる、その傷ついた人である。そのような認識状態にした上で僕は行為しようとする。

もちろん、自分の体は「見えなくなった」だけで、「存在しなくなった」わけではない

だから、そこでの僕の行為の内容は、僕がどんな人間(体)なのかということに依存する。僕がそれまでどんな人生を送ってきたのか、僕がどんな性格なのか、どんな行為をする傾向があるのか、に。

それを見えなくすることは、自分で自分を制御できなくする、ということである。

…………

だから、「他人のことを考える」ことは、「そのままの自分でいる」ことである。「そのままの自分」は「自分には見えていない自分」である。見えていないから制御できず、そのままでいるしかない自分である。

…………

だとすれば、「他人のことを考える」時のその「考え」は、その時のそのままの自分が考えることのできる範囲の考えに留まる。その時の自分にできることしか、できない。

…………

最近、僕は、怒っていると思う。
全然他人のことを考えない人たちに、怒っているんだと思う。
だからこの文章も、怒りにまかせて書いているんだと思う。

他人のことを考えない人には、考えることができない事情があるのだとは思う。それは、感じる(こともある)。でも、その事情を解決しやすい境遇にある人と、解決しにくい境遇にある人との、違いはあると思う。

そんな怒りで僕が満たされているのは、妻にこれ以上傷ついてほしくない、と僕が願っているからだろう。

…………

僕は、恵まれた境遇にあった(ある)のだろう。
僕は、どんなに傷ついても絶対に大丈夫だ、と思っている。
全ての人が僕の味方だ、と思っている。

妻は違う。
妻は、全ての人が敵だ、と思っている(この違いにはジェンダー差も大きく関わっていると思う)。
これ以上傷ついたら生きていけないかもしれない、という場所にいつもいる。

以前、とあるテレビ番組が話題に登った時に、妻に訊いたことがある。
「男性ファンが女性アイドル等を評価したり選んだりすることと、女性ファンが男性アイドル等を評価したり選んだりすることとは、何が違うんだろう」
妻は答えた。
「女性はまず、その男性が危険じゃないかを見る」

…………

僕は、妻が見ている世界を見ようとする。
妻の目へと、僕の目を近づける。
妻の隣にいさせてもらい、妻の目線をなんとか追って、妻の見ている景色を見ようとする。
全然、見ることはできない。
当たり前だ、他人なのだから。
当たり前だ、別の人生を歩み、別の境遇を生き、別の体を作ってきたのだから。
でも、見ようとする。
他人の見ている世界のことを考える。

なぁ、自分を壊せよ
そう思う。
その義務があるだろ?
と思う。

壊れて、泣けよ
と思う。

ほんとに。

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