愚痴のコミュニケーションから考える感情の意味

人はなぜ愚痴で仲良くなるんだろう?

昨晩の夜八時ぐらい、日課であるスマートフォンのアプリでライフを使ってとある漫画を読んでいた時にふと気になったフレーズがあった。
「人は誰かに対する愚痴を使って仲良くなる」
それは何気ないシーンの何気ないセリフだった。しかし私はそれに確かにな、とえらく納得した。
部活の先輩、監督、仕事の上司や嫌な客。私達に与えられた自由時間においてそれらの話の種は尽きる事がなく、絶えず楽しませる。それは一部の人のみ行う行動なのだろうか?納得したという言葉から分かる通り私自身そのような経験が大いにある。その愚痴というのは確かに普段友達とする会話だけでなく、まだ仲良くない誰かと仲良くなるためのコミュニケーションで使ってきたものだった。
愚痴や誰かに対する悪口、それは新たな友達ができるという爽やかで明るい体験とはかけ離れたじっとりとした岩の裏影のような空気感を感じさせ、仲良くなるための話題としてはなにか不適切さを感じさせる。だがしかし、少なくともその漫画に出てきたキャラや私とその友人は確かに誰かに対する愚痴や悪口で仲良くなったのだ。その話題の魅力とは一体どこにあるのだろう。

人間の生存戦略:原始的ヒヤリ・ハット

愚痴や悪口が話題になるのはなぜか。その問を自分に投げかけて帰ってきた答えは荒唐無稽なものばかりだった。それはどれも滑稽なものであったが私が最も興味を示したものは”負の感情の重要性”だった。
愚痴や悪口の共通点とは何なのか。それに対する一つの答えは想起される感情、つまるところ負の感情だった。この負の感情というのはまさに愚痴や悪口というものがいいイメージを持たれない主たる理由で陰鬱なものだ。
しかし、この陰鬱でどこかナメクジさえ思い出させるこのジメジメ感が人間にとって重要なことなんじゃないだろうか。
正の感情と負の感情。これらの違いはなんなのか?それはその感情抱くときの状況の違いだ。その人間にとって”良い状況”であれば正の感情を抱き、”悪い状況”であれば負の感情を抱く。当たり前のことを言っているようだが、この状況こそが重要で、この状況の共有こそがこのコミュニケーションの本質なのではないだろうか。
やけに遠回しに書くじゃないか、ということで私はこう結論をつけた。
愚痴のコミュニケーションとは、”最も原始的なヒヤリ・ハット”である。
なぜ、負の感情を抱いたことを話題にしてわざわざ共有するのか。その感情を抱いた状況が”重要”であるからだ。
この重要とはなににとってなのか?そうだ人間の最も最古で最も強力な本能、生存本能である。
生存本能にとって負の感情とは重要な危険感知による結果であり、その状況の共有は種にとって最も急がれるべきことなんじゃないだろうか?つまるところこれは、危険だと思ったことの共有であり今風に言うところのヒヤリ・ハットではないだろうか。
このヒヤリ・ハットという言葉を聞いたことがある人は多いのではないだろうか。最近の職場では業種を問わず研修でこの言葉を投げかけられ、学校の実習などでも多く耳にするようになった。
簡潔に言うとヒヤリ・ハットとは、ヒヤリとしたことハッとしたことつまり危険を感じた状況を共有しようという活動だ。この説明から分かる通り、まさに愚痴や悪口といった話題に当てはまるんじゃないだろうか。
そう、つまり愚痴や悪口といったコミュニケーション方法は人間が生きていく上で生み出した生存戦略であり、最も原始的なヒヤリ・ハットなのだ。

感情の進化とダーウィンの進化論

愚痴や悪口といったコミュニケーションが、最も原始的なヒヤリ・ハットだって?随分とカッコつけたこと言いやがる。というか考えすぎだよ。
確かにそうかもしれない。話が飛躍しすぎているかのように感じる。なにより、負の感情が危険感知だってところがこじつけじゃないか。感情ってのは人間の心が巻き起こす奇跡で、コミュニケーションだって人間が生み出した綺麗なものだ。生存戦略とか理由をつけて汚すんじゃない。
いやまて、本当にそうなのだろうか?コミュニケーションにおける話題に意味はないのか?感情が人間の生存戦略と関係のないものなのだろうか?
感情は人間を人間たらしめるもので、尊ぶべきものなのだ。そう結論づけていいのか?
完璧な答えを持っているべきではないが、私は違う可能性もあるんじゃないのだろうかと少し思ったわけだ。
私の好きな理論にダーウィンの進化論がある。誰しもが一度は耳にしたことのあるモノだ。進化とは、決められた上の段階に進む尊い進歩などではなく、環境に適応したものが生きて適応できなかったものが死ぬ自然選択の結果であるという理論。
実に合理的なシステムで、美しささえ覚える理論だ。さて、仮にその理論がまさに真であるとしたとき、人間の感情というものが本当に生存戦略において全く関係のないものなのだろうか。
人間の中でも極めて大きいこの感情というシステムが偶然残ったものであるとは考えにくい。生存するのに優れた形が自然選択により選ばれ洗練されたものであるはずだ。
例えば、人間は甘いものや脂肪の多いつまるところカロリーが高いものを取ると幸福感を感じる。対して、ひどく苦いものや辛すぎるものを食べたとき嫌な気持ちになる。
幸福感というのはまさに正の感情の最たるものではないだろうか。これは、生きていく上で重要なカロリーを取ることによって得られている。カロリーがなければ人間は動くこともできない。
そして、苦いものや辛いものといった刺激物。これは大人になるとある程度克服できる例もあるが、特に子供が強く嫌な気持ちをあらわにする。これは刺激物や毒といった悪いものを察知して取らないようにするためだ。これを取らないことで身を守ろうとしてるわけだ。
つまりだ、人間にとっての感情とは人間に取って良いものをより摂取させるために、悪いものを摂取させないための機能なのだ。
AIの開発などでよく聞くところではあるが、俗に言う報酬と罰といったところだ。AIの発達と同じ用に人間が大人になるのにもこの報酬を得る経験と罰を受ける経験で最も報酬が得られる方法を覚え罰を避けられる方法を覚えて大人になる。
更に言えば、適切な報酬が与えられたモノが生存という”大きな報酬”を得て、適切な罰を受けられなかったモノが死亡という”大きな罰”を受けて次世代へと進むわけだ。
おっと、なんだかいろんな話が出てきてごちゃついてきたぞ?進化論がなんだって?
ここで一旦まとめよう。
つまるところ、感情というのは人間に取って良い・悪いの識別機
そしてこの識別は進化によって洗練されて来たもので、人間の生存戦略の仕組みの一部なのだ。

コミュニケーションと識別機

なんかいきなり結論で飛んだけど、なんだ?つまり感情は良い・悪いの識別機なわけだと。生存戦略だと。
それは分かったとしよう。でも、それはコミュニケーションにはつながらないだろう。ヒヤリ・ハットは一体どこにいったんだよ。
確かにそうだ。このnoteの本題はそこだった。いかんいかん忘れるところだった。
感情が人間の生存戦略の仕組みの一部で、それは自然選択により洗練されひいては進化し、人間が生きていく上でなくなて成り立たない重要なものの一つとなった。
では、コミュニケーションはどうなのだろうか。いつからだろうか。人間はどこかで複数人集まってみた。そこで偶然少し良い感情を抱いたものがいたわけだ。その群れは生き残り、子供を群れないものより多く残した。これが自然選択。
群れる、つまるところ他人とのコミュニケーションを取ることに対して感情という識別機が良いものと判定したわけだ。これがまず小さな一歩。そして、次のステップだ。コミュニケーションが良いものだと識別され、それが多く広まるとそのコミュニケーションの中身も識別機によって判定された。そして何を良しとしたのか?
コミュニケーションとはそもそも何か?これはなんらかの情報を相手に伝えること、つまり情報の共有だ。では情報の共有にはどのようなモノがあるのだろうか?良いモノの共有と悪いモノの共有だ。
そして、ようやく本題に戻る。識別機が生きていく上で良いものとしたのは、悪いモノの共有だった。
これは憶測でしかないが、良いもの共有せず専有したほうがより長く生きて多くの子をなせた。もしかしたら良いものを共有しないほうが絶滅したり他の部族に奪われなかったのかもしれない。だから仲良くなるための最初のコミュニケーションには選ばれないのかも。そして悪いことを共有し合ったほうが人間という種全体として生き残ることができた。これが理由じゃないだろうか。
想像しようと思えばいくらでもできるし、完全な答えはないかもしれないが一つの答えにはなるんじゃないかと思う。
そうして、死なないため”悪いことが共有されること”が自然選択されての生存戦略に組み込まれ、原始的なヒヤリ・ハットになった。

まとめというなの謝罪

日課の漫画を一通り読み終え気がつけば窓さしこんだ光が私の眠たげな目元を照らし、雀やら小鳥たちが朝だぞと私を叱りつけた。
目覚ましの意味を込めてお風呂に入りながら、私はこんなくだらなくてなんとも心躍る面白い話を妄想していたわけである。
話がごちゃごちゃしてるぞ!後半になるにつれ渋谷のスクランブル交差点並みにとっ散らかり初めたぞ!
まったく、なんてことだ!けしからんやつだな!
はい、ごめんなさい。簡潔に結論を言います。ええ本当に今度こそ完結にいいます。何が言いたかったのかって?
感情は人間の良い・悪い識別機能に名前を付けたもの。そして愚痴や悪口は最も原始的なヒヤリ・ハット。
ていうか、言いたかったのはこの最も原始的なヒヤリ・ハットというフレーズ。これかっこよくない?コレ言いたかっただけみたいな所正直ある。
ここまでかいといて申し訳ないのだが、正直この話は憶測というのもおこがましい妄想レベルの話だ。
ここに記されている理論というのも聞きかじった程度ものだし、書いてる当人が博学とは言い難い人間なのでいろんなところに穴があるだろう。なので、もし気になる理論とかがあればコレを信じず検索してくださいと謝罪しておこう。
なんとか論理的に書こうとしてみたものの帰って複雑かつ、論理から逸脱したものになるばかりで申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
もし最後まで読んでくれた物好きがいるのであれば感謝を述べたいし、おそらく空想が好きな自分と同類でいい酒が飲めるんじゃないだろうか。
もしよければ今晩は缶ビールでも開けて画面の奥の私がまた何か妄想しているところを空想でもしながら飲み明かしてはどうだろうか。ちなみに私はお酒がテンで駄目なんで普通にミルクを飲みながらユーチューブを見る。
そして、妄想はやっぱりこれでおわりじゃなくて、コミュニケーションには生き残るための工夫がその他にも多くあるはずだみたいな。例えば成功者は自身を持つとか。自身を持ってそのメソッドが共有されることが重要みたいな。そんな妄想を広げている。

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