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二大企業大激突! ナムコvs任天堂 前編 -仁義ある戦い-

はじめに


西に任天堂あり。京都に本社を構える世界的娯楽企業である。

東にナムコ(現在バンダイナムコホールディングス)あり。東京に本社を構える世界的娯楽企業である。

この二つの企業は、現在ゲーム業界で非常に大きな影響力を有している。同時に、まだ未成熟で小さかったゲーム業界を牽引し、今に至る歴史を支える重要なキーマンだ。

そんな二社であるが、かつて関係が最悪領域に到達し、裁判所を巻き込んだ大激突をしたことがあったことを把握している人はどれほどいるだろうか?

この記事はそんな混乱の最中、何があったのかを詳しく解説するものである。


まずは二社、それぞれの歴史を大まかになぞっていこう。

任天堂とナムコは同じゲーム業界の企業ではあるが、誕生のベース自体はいささか異なっている。
任天堂は京都の老舗花札屋であるが中興の祖、三代目社長山内溥がおもちゃに手を出し名を馳せた。このおもちゃの延長線上として電子機器を利用したゲームを手がけるようになった。遊園地やデパートの屋上に設置されているエレメカ(電子機器を使った遊戯機器のこと。テレビゲームやメダルゲームなどは除く)も手がけていく。

カラーテレビゲーム15/9にて、初めて家庭に入り込む据え置き型テレビゲーム機を提供し、アーケードゲームにも本格進出した。シェリフやレーダースコープといった作品を発売する。が、1980年に発売したゲーム&ウオッチが日本国内で一気に大ブームとなる。
アーケードゲーム市場においてはイマイチ存在感が薄い任天堂ではあったが、1981年にはドンキーコングが発売された。これが日本でヒットし、さらにアメリカでは特大のヒットとなる。一気に市場に任天堂の名を知らしめた。

ところがこの後、任天堂はアーケードゲームから撤退する。それ以上の爆発的ヒット商品、ファミリーコンピュータを発売したからだ。以後、任天堂は全力で家庭用ゲーム機に賭け、そしてその賭けに勝利する。倍々ゲームのように売上は飛躍していった。

中村製作所の設立


一方のナムコは中村雅哉が作り上げた企業である。元々親が鉄砲店を営んでおり、その後を継いで空気銃の修理をした。空気銃を仕入れ、輸入販売を行うようになったが、銃刀法による規制の強さに業界の先を見切った。イメージが悪いことも中村の頭痛の種だった。中村は家業を辞め、独立する。

中村は1955年に中村製作所を立ち上げた。従業員は社長の他二人。資本金は30万円。実家の物置に転がっていた木馬二台を引き取り、これを修理した。モーター駆動で、一回五円をいれると上下駆動するおもちゃとして、松屋横浜店の屋上に設置させてもらった。なかなかに好評で続けざまに他のデパートから依頼がきた。こうして中村製作所は、遊戯場の運営-サポートの会社としてスタートする。この会社が30年後に年商250億円を超えることになるとは、このとき中村含め誰も予想していなかった。

この時代、デパートという存在がどういうものだったか記述する。当時のデパートは衣服と雑貨を大きく取扱い、高級品から一般商材まで広く扱う場であり、休日は多くの顧客がごったがえす娯楽の場であった。
しかし子ども連れで行くと子どもは買い物途中で飽きが来てしまう。そして帰りたがる。デパート側としては子どもをなだめ、大人が少しでも長くデパートにいて貰えるようにしなくてはならない。それを食い止める手段の一つとして屋上に子どもが遊べる遊技場を設置しはじめていた。子どもがデパートに行きたい! と言うようになれば、大人も当然そこで買い物をしてくれるだろう。こういった思惑が絡んでいた。

中村製作所はこの遊戯場市場においては後発だった。西武百貨店、近鉄百貨店といった大手にはすでに先発企業が入り込んでいた。なんとかして大手デパートに入り込みたい中村であったが、唯一東京で遊技場を設置していないデパートが存在した。当時のデパートで最大手であり最古参だった三越である。中村は幾度となく三越に足を運ぶ。しかし三越側の反応がよくなかった。結局三越の屋上には遊技場が置かれない期間が続いた。諸説あるが、当時の三越社長岩瀬英一郎が遊戯機器を置かない方針を決めていたらしい。

しかし数年後、岩瀬社長が退任した三越は方針転換を行う。今まで置かれていなかった遊戯器具を置き、屋上を遊戯場として提供することとなった。そのとき声をかけた先が中村製作所であった。

中村製作所は地方進出に舵を切る。各地にあるデパートの屋上を遊戯場として広げていく。同時に中村製作所は同業他社に差をつけるため「どのような遊戯機を設置するか?」という視点も持つようになる。
電動の木馬で喜んでもらえた時代はすぐに終わった。より刺激があり、より楽しい遊戯機を設置せねばデパート側からリストラを食らってしまうのだ。中村はこの時代を「もっとモノが欲しい」というMoreの時代から、「もっと良いモノを」のBetterへの時代への転換が進んでいたと語っている。日本の娯楽市場は拡大を続ける一方で、競争化が激しくなっていった。古い業者はこうした電子機器を利用した遊戯機へのノウハウがなく、取扱に苦労し、次第に没落していった。中村製作所はここに活路を見いだし、力を注いでいく。最初は他メーカーの開発した遊戯機を運営するだけであったが、次第に自社開発も行うようになった。


アタリジャパンの買収と誤算


大きな転換期がやってきた。1974年、アメリカの大手企業アタリが自社の販売子会社アタリジャパンを買収しないか? と中村のところにアプローチを仕掛けてきたのである。

アタリは、ノーラン・ブッシュネルが作り上げたビデオゲームをつくるためだけに設立された世界初の企業である。1972年に創業されたこの会社はポンで爆発的ヒットに恵まれた。資本金500ドルで始まったこの企業は、翌年320万ドルの売上を記録する。


その余勢を買って日本に進出するが、これはあまりに性急で、無計画すぎた。日本人を雇ってみたものの、その多数はゲーム業界の素人であり、倉庫はあっというまに在庫の山となった。
じきに運転資金も底をつき始める。困り果てたブッシュネルは日本国内で販売協力してくれる会社を探す。そこで以前から取引があった中村製作所に声をかける流れとなった。

中村社長はいずれ海外展開をしたいという野心を抱いていたし、ならば海外メーカーとの協力体制は必要になる。この申し出は願ってもないチャンスだった。中村製作所はアタリの販売代理店となる。

ところが事情が変わってくる。アタリジャパンの資金繰りはさらに大きく悪化し、「日本の販売子会社ごと買って欲しい。技術支援もつける」という要求に変化した。買収金額は80万ドル。運転資金含めると合計100万ドル(当時のレートで約3億円)だった。この金額は明らかに過大であり、実際当時中村製作所よりも先行し名を馳せていたセガ、タイトー両社にも話が持ち込まれていたが、あまりに高額なために断われていた(このときの三社の関係は、セガ・タイトーは横綱とすれば、中村製作所はようやく前頭筆頭、といったものだったと中村社長は語る)。このときの中村製作所の年商は20億円。購入するとなれば、社運をかけた大買収劇になることは間違いなかった。

しかしこの二社に追いつくためにはしっかりとした技術も必要となる。海外展開を含めたこの話、金額こそ大きいが決して悪い話ではない。中村はそう踏んで賭けに出た。この契約に向けて各銀行・信用金庫を巡り回り融資をお願いした。6つの銀行と1つの信用金庫がこれに応じ、いよいよ取引締結……といったところで、銀行側から待ったがかかった。
とある銀行が支援していたレジャー企業の経営が不振に陥り、その余波で同じレジャー企業とみられた中村製作所への融資がしずらくなってしまったのだ。自分だけ降りるのは体面が悪い……ということで、残り2つの銀行を巻き込み、そろって中村製作所への融資から降りた。

中村は残りの三銀行と信用金庫に必死に頼み込み、追加融資をお願いした。この結果、なんとか無事に契約調印となった。このときの銀行への恩は決して忘れられない、と中村は後年にも語っている。

ところがこの買収、中村が思い描いていたものとはだいぶ様相が違っていた。会社まるごとの買収であるため、アタリジャパンの倉庫にある不良在庫もすべて中村製作所のものへとなってしまった。しかもその在庫の多数は壊れていて、使い物にならなかった。肝心要のアタリジャパンの開発者は五人いたが、買収後次々に辞めていって一人も残らなかった。アタリのいう技術支援は具体的なものはなにもなく、高額な契約料をそれっぽく見せかけるためだけのキャッチコピーにすぎなかった。そして何よりあまりに買収に使った金が大きすぎて、アタリへの販売権を有していても購入する余裕がなかったのだ。

成功か、失敗かの二つでいえば明らかに失敗だった。中村は悔やみつつも、在庫の山になっているアタリの不良品を直し、これを各地のデパートの屋上に置いていった。

ただし、これで中村製作所とアタリの仲が悪くなった……というわけではない。買収翌年の1975年にはブッシュネルらアタリの要人が中村製作所を訪問しているし、中村も1976年には海を渡ってアタリに出向いている。そのときまだ未発売であったBreakout(ブロック崩し)に中村は夢中となった。なんと数時間にわたりプレイし続け、ブッシュネルに「いい加減にしろ」と止められるまで熱中し続けた。中村は帰国後、これはヒットする! と確信し、注文をいれる。



Breakoutは日本において稼働当初はそこまでの人気がなかったが、あとからじわじわと火がついた。そして大人気といえるほどの熱狂を生み出すことになるが、中村製作所は恩恵を与る展開にはならなかった。アタリから大量の筐体をもらい受けるほど、まだ中村製作所には体力が戻っていなかったのである。そのため追加注文が遅れた隙を突かれ、市場には大量のコピー基板が出回ってしまった(ちなみに任天堂もブロックフィーバーというクローンゲームを稼働させている)。中村製作所が飛躍するには、今しばし時間が必要だった。

誕生 -ナムコ- そしてインベーダーブーム


中村製作所は1976年には大型ドライブゲーム機F1を稼働した。これは模型の車の前側にスクリーンが貼られていて、ハンドルと操作してそのスクリーン内の車を動かし、ライバル車をかわし、制限時間内にどれだけ高得点が取れるか競うものである。「ドライブゲーム」というジャンル自体は以前から存在したものの、F1の完成度の高さはヒット作となり、中村製作所のブランドと資金的余裕を高めることに成功した。そしてアタリもこのF1を購入し、アメリカに流通させる。海の向こうでもヒットし、中村製作所は一気にこのF1を増産することにした。しかしここでもこのF1のコピーゲームに悩まされることになる。コピーゲームに対する法的手段が確約するにはもう少し時間がかかった。

1977年には中村製作所からナムコへと社名を変更した。これはナカムラ・アミューズメントマシン・マニュファチュアリング・カンパニーを指した。「中村製作所じゃ海外受けしないだろう」という判断があった。F1の海外ヒットは中村に自信を持たせることに成功した。


1978年、ゲーム市場に爆弾が投下された。スペースインベーダーの登場である。



稼働開始したのは7月だが、その稼働当初からおそるべきインカム(ゲーム筐体に入れられる売上のこと)をたたき出した。インベーダーの筐体は46万円だったが、一日2-3万円のインカムをあげた。つまり1ヶ月で元を取ってしまい、以後はそのまま利益を稼ぎ続ける商材であったのだ。
全国のゲームセンター、喫茶店から発売元のタイトーへ注文が殺到した。タイトーはあまりに多すぎる注文に、他社へのライセンス販売に踏み出した。海外企業ではない国内企業にゲームのライセンスを与えるのは、このインベーダ-が初めてである。10万台がタイトーから出荷され、さらに10万台がライセンス企業から出荷された。しかしこのときさらに10万台、多ければ30万台のコピーインベーダー、もしくはインベーダークローンが市場に溢れていた(ちなみに任天堂もスペースフィーバーというインベーダークローンを稼働させている)。タイトーもライセンス企業も、漁夫の利を得ようと思ったその他の企業も一気に儲かった。


しかしこの熱は長くは続かなかった。あまりの熱狂ぶりに学校からPTAが厳しい目を向け、ゲームセンターに走る生徒たちを食い止めようと必死になった一方、勝手に皆がインベーダーに飽き始めたのだ。数十万稼働していたインベーダーは次々に廃棄されていき数を減らしていった。1979年の法人申告所得はタイトーが日本法人53位であったが、翌年にはランク外へと消えていった。猛烈な勢いで登り上がり、秋名のハチロク並みの勢いで下っていったのである。恐るべきブームの熱と、その冷めっぷりが見てとれる。1979年の夏頃には熱が冷め始め、年末にはブームが完全に終わりインベーダー筐体のほとんどが姿を消した。

この状況に一石を投じたのがナムコであった。インベーダーブームが沈静化した1979年11月に、インベーダーのゲーム性を進化させたギャラクシアンを稼働させたのである。


じわじわと前に競り出てくるだけのインベーダーとは違い、ギャラクシアンは複数の敵が曲線を描いて飛行した。インベーダーはシンプルな背景だったが、ギャラクシアンは専用回路を積んで星が流れる画像を描写した。アタリジャパンの買収から5年、ナムコの技術の下積みがようやく花開いたといえる。

それまで存在していたインベーダークローンとは違い、明らかに次の世代のゲームだと皆が理解した(ちなみにギャラクシアンはそのクオリティ故か、本稼働前のテスト運営中に基板が盗まれてしまっている)。ナムコはインベーダーの次を切り開くことに成功したのである。インベーダーブームは去ったが、ゲームセンターは生き残ることに成功した。ナムコもデパートの屋上から端を発したゲームセンター事業を行っており、そこに自社ゲームを置いていた。良質なゲームをナムコは生み出すことに成功し、そのおかげで自社のゲームセンターの売上もあわさるように急上昇した。

そんなナムコは翌年、さらに大ヒットを飛ばす。しかもただの大ヒットではない、世界的記録を打ち出した作品を生み出した。


黄色いヒーロー


1980年、ナムコはパックマンを稼働させた。「女の子も夢中になってやれるようなゲームを作りたい」という開発側の背景があり、攻撃ボタンはなく移動のみ。敵から逃げつつマップ内のエサを食べまくり、四隅に置かれたパワーエサを食べれば一定時間敵を食べることができる逆転要素が組み込まれたゲームだった。

https://www.youtube.com/watch?v=GK3UoCfz52U


とはいえ、このゲームは最初から爆発的に売れたゲームではない。当時の花形ジャンルはインベーダーから生まれたシューティングゲームだ。パズルアクションなパックマンは業者からは理解を得られず、即完売、という風にはならなかった。


しかし実際にゲームセンターで稼働した台の売上がなかなか下がらない。一ヶ月もすればゲームの売上は下降していくのが常なはずだったのに、パックマンはずるずると安定した売上をたたき出した。パックマンのゲーム性は広い年代の男女の心を掴むことに成功したのだ。それが業者側の反応を呼び、一ヶ月後、新規の注文が重なり始め、半年後にはさらに注文が重なった。

ナムコはパックマンの手応えが本物であることに気がついた。日本の稼働開始から半年後、満を持してアメリカに3000台のパックマンを送り込んだ。それらは即完売となった。そして30万台の追加注文がナムコにやってきた。パックマン人気は爆発的なものとなった。

パックマンのあまりの人気ぶりを証明するエピソードがある。朝に納品したパックマンの筐体が昼に壊れてしまったとクレームが入った。サポートマンが現場に向かうと、あまりにコインを入れすぎて箱の中がパンパンに膨らんでいた。そういった事象がアメリカ各地で大量発生していたという。

パックマンは世界的ipとして羽ばたき、同時にナムコのブランドも確固たるものとなった(2005年にはパックマンは「世界で最も成功した業務用ゲーム機」としてギネスに認定されている)。ロイヤリティーだけで60億円もの金が入ってきた。ゲームセンター市場はナムコか、セガかの二巨頭の時代に入ろうとしていた。この後もギャラクシアンの続編であるギャラガや、ラリーXといった有力ゲームを次々に稼働させる。同時にナムコ直営のゲームセンターは売上をどんどんと伸ばしていった。


こうした流れをみると、ナムコのベースはデパートの屋上の遊技場であり、ゲームセンターであるといえる。そして業務用ゲームが本業であり、おもちゃの延長線上で家庭用ゲーム機を売り出していた任天堂とはやや趣が違うことがわかる。
1982年にドンキーコングをヒットさせた任天堂ではあるが、それでもはやり業務用ではナムコの方が格上であり、ゲームファンの意識も差異はあれど概ね一致している。任天堂の宮本茂もパックマンの大ファンであり、ナムコシンパであることを公言している。

この二社の運命が交差するのは、1984年、ファミコンの登場後である。


ファミコンの登場


ナムコがファミコンに参入する話をする前に、当時の家庭用ゲーム市場についてざっくりと解説をおこなおう。ファミコン登場以前も家庭用ゲーム市場というのはちゃんと存在していた。エポック社のカセットビジョンは十万台単位で出荷されていたし、1983年には低価格8bitパソコンのMSXが発売されていた。MSXにはナムコも参入していてパックマンやギャラクシアンを移植している。ソード/タカラが発売していたゲームパソコンM5にもソフトを展開していた。中村社長の一声で決まった参入だが、およそソフト一本に対して4000-8000本程度売れていた。

ナムコにとってはこれらの売上はイマイチであった。しかも性能的にも色々と制約が強かった。業務用と比較したら色数は減らされるし、動かせるキャラの数も少なくなる。業務用は数十万円するマシン前提でつくることができるが、家庭用ゲーム機はそうするわけにもいかず、性能を削ることが前提となるからだ。
ナムコはアタリにパックマンの権利の一部を貸したこともある。そのためパックマンはアタリのゲーム機VCSにも移植されたが、これは品質的にとんでもなく劣悪な代物であった。


敵キャラは同時に四体表示できないためとてもちらつき、心地よかった効果音は耳障りなノイズに変えられ、個性ある敵の思考パターンは放棄された。面クリア後のコーヒーブレイク(ショートムービー)も削除された。
もともと低コストを狙い容量が少ないROMでつくられた、という理由もあるが、そもそもVCSはパックマンを移植できる性能を有していなかった。どうやっても劣化する無茶移植にならざるを得ないのだ(なお、続編であるミズ・パックマンは画像の劣化はともかく、ゲーム性自体は移植できている)。

この無茶移植なアタリ製パックマンは元々のパックマン人気もあってとにかく売れた。売れたが、そのあまりにもな品質もありアタリショックの原因の一つにも挙げられるようになる。あまりにも極端な例ではあるが、ナムコの目指すゲーム性はなかなか家庭用ゲーム機では実現が難しかったと考えて良い。

ところがである。任天堂が発売したファミコンはこれらの対抗機種を一蹴できる性能を有していた。多数のキャラを動かせるスプライト、縦横になめらかに動くハードウェアスクロール、鮮やかな色数に、豊富なサウンド。専用のチップを積み込んだファミコンはずば抜けた性能を、驚くほどの低価格で実現してみせた。これに中村は目をつけた。社長命令が飛ぶ。「ファミコンを解析しろ!」。ナムコの技術陣はこの驚くべきハードウェアに立ち向かった。

当時の主流はザイロク社のCPU、Z80だった。セガの出したSG-1000(含SC-3000)も、MSXも、Z80である。ナムコもギャラクシアンでZ80を使用していた。
ところがファミコンのCPUはZ80ではなく、モステクノロジー社の6502である。製造元であるリコーがZ80のライセンスを有しておらず、代わりに6502のライセンスを持っていたからというのが主な理由だが、そのほかにも低コストで性能は良好であり、任天堂の考えとしてはそもそも自分たち以外にファミコンソフトを作らせる気がなかった。だから解析されないためにも日本国内ではあまり採用例がないマイナーなCPUであることは大事だった。解析されてしまえばそこから勝手にゲームが作られてしまうかもしれないからだ。

任天堂はアタリショックの原因が増えすぎた粗悪ゲームにあると考えていた。だからこそファミコンで出すゲームは吟味した任天堂のみのものにする。サードパーティは遠慮してもらう。セガのSG-1000、エポック社のカセットビジョンにもサードパーティ製のソフトはないので、任天堂独自の考えではなく、当時の主流の捉え方であったのだろう。

ところがナムコの技術陣たちはあっというまにファミコンを丸裸にする。ファミコンが6502採用の機種であることを突き止めた。そこからさらに移植作業が始まった。ギャラクシアンを実際にファミコン上で動かし、どれほど違和感なく移植できるか確かめた。出来上がったものは、ほとんどアーケード版と違いがわからないものだった。


これをもってナムコは任天堂と交渉に入った。任天堂は目を丸くする。解析されないと踏んでいたファミコンが、一年で解析されてしまったのだ。しかもサードパーティの存在を一切考慮していなかったため、マニュアルも、契約書も、何もない。

しかもナムコは任天堂と契約をしなくても、勝手に発売するつもり満々だった。「任天堂」「ファミコン」といった用語を使わず、「なんだかよくわからない形状をしているけれどファミコンに指すとゲームが遊べる不思議な代物」として流通させてしまえば売れるだろうと見込んでいた。それが完全に合法行為であるかは不明ではあるのだが(少なくともナムコの法務部はこれにOKを出していた。当時のナムコの法務部はコピー対策の経験を積んだ猛者たちの集まりだったし、実際任天堂内でも法的な準備体制はできておらず商標権くらいしか使えそうな権利がなかった)、任天堂はナムコの要求をはね除けた場合、もっと酷い事態になるのではないか、と恐れた。同時にナムコほどのゲームメーカーならば、アタリショックの再来を引き起こす駄ゲームを量産するはずもないだろう……。そんな思惑もあり、ナムコと契約することになったのである。

なったわけだが、任天堂はサードパーティへのノウハウが存在しない。どうやって契約書をまとめればいいのか見当がつかなかった。取り急ぎ、一本あたり数十円のロイヤリティを課せることにした。かわりにファミコンの仕様書を一部見せた。この時点でファミコン本体のバージョンはいくつか存在したので、とあるバージョンでは動くのに、このバージョンでは動かない、なんて動作もあり得た。サードパーティとしてきちんと全てのファミコンで動作するゲームソフトをつくってくれ、ということだ。ナムコと任天堂は判子を押す。契約書にはこの契約期間が5年だと記述されていた。ファミコンがバージョンアップした場合、任天堂からナムコへ情報提供する旨も記載されていた。

ちなみにこのとき、ナムコのギャラクシアンのおかげで任天堂社内では「ファミコンの情報流出があったのではないか?」と、いるはずのない犯人捜しが始まったという。この犯人捜しは、この後別の会社がやってきてプログラマが実際にどのように解析したか綺麗に説明され、任天堂が「出来るところには出来てしまうものなのか」と悟るまで続いた。


ファミコン・ブームと市場の拡大


無事、契約に至ったナムコ内では中村社長の号令が再度飛んだ。「ファミコンゲームを作れ!」。技術陣たちがさらに奮起する。今まで出した名作ゲームを、次々にファミコンに移植する。当時のナムコ人気はとてつもないものだった。ゲームセンターで100円払ってするゲームを、5000円出せばやり放題になる。それはとんでもない事件だった。ナムコはファミコンのサードパーティとして参入し、即ミリオンヒットを連発する化け物メーカーとなった(正式名称はナムコットブランドであるが、簡単のため以後もナムコに統一する)。

補足になるが、ナムコとしても任天堂と契約しなければならない問題が一つあった。それは流通網である。
ナムコはアーケードゲームメーカーであったため、自前でカセットをつくる余裕があった。ROMを焼いてくれる工場、プラスティックのカセットを製造する工場、それを収納するパッケージ工場。それぞれにつてがあったのである。それらの工場に金を払う体力も存在した。しかし実際にこれらのゲームソフトを流通させる場をどうするか、考えねばならなかったのである。
当時、ゲームソフトを流通させるのに一番有力な手段は任天堂の一次問屋初心会をつかうこと、である。初心会はファミコン本体を扱える唯一の問屋集団だった。そのため他の問屋や小売に対して影響力を有していた。同時期にはセガのお得意様である問屋ムーミンも存在する。ナムコにはこうした家庭用の問屋に縁がなかった。

直営のゲームセンターで売ってしまえばいいのでは? という案もあったが、実現するに色々と問題も出そうであった。そのため任天堂と正式に契約し、初心会のルートを使わせてもらえるなら話が早い、というわけだ。実際、同時期においてハドソンは任天堂から初心会を紹介してもらい、ナッツ&ミルクロードランナーを流通させることに成功している。
ただし後年にはナムコも独自流通を模索しだし、メーカーの垣根を越えた協力組織CSG(コンシューマ・ソフトウェア・グループ)に参加した。この組織は後年CESAへと変わる。

そうしてヒットメーカーの協力を得て、ファミコンは爆発的ヒットを飛ばすようになる。83年には製造ミスの影響もあり45万台の出荷しかできなかった。しかし84年には生産体制の見直しもあって165万台が出荷できた。ナムコとハドソンがその売上を支えたことは明白だった。ロードランナーとゼビウスが200万台しか売れていないはずのファミコンでミリオンヒットになったからだ。

そして家庭用ゲーム機市場が拡大する一方で、任天堂は頭を抱えることになる。ナムコの契約の穴に気がついたからだった。ナムコの契約書のどこにも「一年間に発売できるゲームの本数」は定められていなかった。これではナムコは無制限にファミコンゲームを発売できてしまう。
これはハドソンも同じではあったが、そもそも企業体力が違いすぎたし、ハドソンは自前ではなく、任天堂に生産委託しないといけない契約だった。だから生産量をコントロールすることもできたが、ナムコは自前の生産である。好き放題に生産でき、なんなら他社のものも自社ブランドで発売できる。任天堂がすべきファミコンのクオリティコントロールが、ナムコには及ばないことを今更ながら気がついた。ファミコンの参入企業三番目はアーケードの雄ジャレコであったが、このとき任天堂は契約書を精査し、作り直している。本数制限が年6本と定められた。

ナムコとハドソンのヒット連発は多くのサードパーティがファミコンにくることの呼び水となった。任天堂山内社長はファミコンが売れることを最初喜んでいたが、次第に異常事態が起きつつあると考え出した。「なにか、異様なことが起きている」。1985年に出荷したファミコン本体の台数は374万台。累計200万台程度を見込んでいたが、それを遥かに超える数を単年度で出荷してしまった。異常なまでに加熱した市場は、些細な出来事で崩れ去る。アタリショックを見ろ。1000万台を出荷したゲーム機の市場が簡単に崩壊してしまったではないか。

山内は表敬訪問に来た中村社長とナムコの開発陣に対して

『わけが分からないことが起こっている……。作れるということと,作っていいということは別だ』

https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20180313040/

という謎の理論を繰り出し、牽制した。要するにあまり派手にソフトを出し過ぎないでくれ、という理屈だった。

しかし中村社長も、ナムコの開発陣も、全く意に介さずアクセル全開でファミコン開発に向かう。ドルアーガの塔に、ドラゴンバスタースカイキッド。アーケードの人気作をゲーム性そのままにファミコンに移植し大好評を得る。さらにはオリジナルタイトルであるファミリースタジアムや、さんまの名探偵といった作品も出し、これらもヒットとなった。アーケードでも源平討魔伝、ドラゴンスピリット、ファイナルラップ、妖怪道中記とヒットを飛ばし続ける。1986年以降のタイトルは次第にファミコンの性能では移植が難しくなってきたが、それでもナムコは削れる部分を削り、移植することにする。
妖怪道中記は上手くできた。しかし源平討魔伝はそのままの移植は無理と諦めボードゲーム要素を組み込んだ同名の別作品となった。こういった例外は若干あったものの、それでもナムコブランドは熱狂的なファンに支えられることになった。

任天堂はもどかしい思いをしつつあった。ファミコンブームは加熱し続け、さらに市場を拡大していった。この頃にはアメリカでファミコンをベースにした機械Nintendo Entertainment System(NES)を発売してアタリショック後の冷め切った市場を切り開くことに成功している。NESはナムコとの契約の反省から全てのゲームソフトは任天堂の委託生産に任せ、年間に発売できるソフトの本数を制限した(さらに当初は他パソコンやゲーム機で発売済みのソフトは発売できないようにしたが、これはしばらく後に撤回された)。

市場はリーダーシップのある企業が導いてこそ適切に伸びていく。ファミコンブームを一過性のもので終わらせないためには任天堂が適切な管理を行う必要があった、と山内社長は考えていた。NOAの支配体制は上手く回り出したが、日本ではナムコの姿勢がその適切な管理を逸脱しているように見えた。

ナムコの姿勢で任天堂の不興をかったことの一因に、「他社からゲームを買い取り自社ブランドで販売した」ということを挙げる人は多い。実際、初代女神転生はナムコブランドで販売されてはいるが、開発は皆が知っている通りアトラスである。


つまりナムコは低いロイヤリティを売りに、他社の開発タイトルを買い、売り出していたのだ。しかしこれが即任天堂の怒りを買った……というわけではないことを覚えておいて欲しい。
実はアトラスは女神転生と同時期、ジャレコにも女神転生の企画を持ち込んでいる。そのときジャレコ側は女神転生ではなく、もう一つの企画バイオ戦士DANを採用して、ジャレコブランドにて発売することになった。

つまりこういった企画の買い取り自体は他社でも普通に行われていることだった。

当時の事情を鑑みるとおかしな話ではない。
ROMの生産代金を任天堂は前金で支払うように要求している(ハドソンはそのおかげで社長自ら銀行を駆けずり回る羽目になった)。これだと体力のない、小規模ソフトメーカーはとてもファミコンに参入できない。初心会が買い取りしてくれるため生産すらなんとかなれば代金回収はすぐそこなのだが、そもそも代金が支払えない、開発費の目処がたたないようなソフトメーカーではそこまで耐えられない。
そのためナムコやジャレコといった体力のあるメーカーが代わりに開発資金を出す、という形だ。

この形は現代でも成り立っている。実際に開発するデベロッパーに、流通責任を請け負うパブリッシャーという形だ。ナムコはいち早くファミコンの大手パブリッシャーになったといえる。

任天堂視点から見た状況のまずさはもう一つある。任天堂は厳しい表現規制を敷いており、発売するソフトを一本ずつ自社でチェックする機構ができていた。あまりに激しい暴力表現や性表現、宗教表現は任天堂の指導により厳しく規制された。
ところがナムコの場合、任天堂のチェックを受けることなく発売できてしまった。そのため先の女神転生も、本来ならばとても発売できるはずはなかったのだが、ナムコのチェックはOKを出した。そのため無事に発売の流れとなった(なお、後年スーパーファミコンにて真・女神転生をアトラスが自社で発売の際には、当然任天堂チェックを受ける羽目になったが、このとき任天堂は「メガテンなら仕方ないか」という態度で通してしまった)。

つまり任天堂が提供するファミコンというプラットフォームに、任天堂の思惑が全く介在しないナムコというパブリッシャーが影響力を持っている、という図式になっていた。任天堂としては生きた心地がしないし、ナムコとしては「ファミコンはワシが育てた」という意識である。これは誇張ではなく、中村社長はなんども「山内社長はうちに足を向けて眠れないはずだ」という発言を繰り返している。

ナムコは1987年には13本、1988年にも13本のファミコンソフトを発売した。この数は任天堂すら上回る異様なハイペースである(任天堂はディスクシステムを含めても87年には10本、88年に6本だ)。1989年にはナムコのライセンスは切れる見込みだが、それまで存分にナムコはソフトを出し続けていた。

しかし、このあたりで、ナムコへの風向きがあやしくなってくるのだった。

-後編へ続く-

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