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二大企業大激突! ナムコvs任天堂 後編 -戦いの先にあるものへ-

前編はこちら


進まぬ海外展開と、関係悪化


1988年頃の国内市場はファミコンブームが冷めたわけではないのだが、一時のような熱狂的な加熱はなくなってきた。成長が鈍化しつつあったのだ。任天堂はかわりにアメリカに注力する。海外展開に成功し、アタリショック後のアメリカ市場を切り開き、大きな利益を得るようになったのだ。
コナミはこのビッグウェーブに乗り遅れないよう、すぐさまNintendo Of America(NOA)と契約し、NES向け用ゲームソフトを発売し、売上を伸ばした。

コナミと比較して、ナムコの海外展開は遅れていた。今まではアタリと協調し海外展開を進めていたのではあるが、アタリは経営悪化の影響でワーナーの傘下に入っていた。しかもアタリショック後、経営的に決定的に大きなダメージを受けてしまい、家庭用ゲーム機部門がアタリコープとして本体のアタリゲームズと分裂してしまっていた。

1985年にナムコは親会社であるワーナーから株を買い取り、アタリの経営権を獲得していた。つまりアタリジャパンの買収から10年、ついにアタリそのものを買収したのである。

アタリゲームズはナムコのライセンスを受けていた。そのためナムコのゲームをNESに発売……できなかったのである。
これには理由がある。アタリゲームズとアタリコープとが分裂する際に、「アタリゲームズは家庭用ゲーム機市場に参入しない」という取り決めをアタリコープと行っていた。そのためアタリゲームズはナムコのゲームをアーケードに展開することはできても、人気が爆発しているNESには発売することができなかった。

いったいどうすればいいのか。アタリゲームズのスタッフらは名案を思いついた。アタリではない別会社をつくってNOAと契約すればいいじゃないか!  テンゲンという名の会社を立ち上げ、その会社がNOAと契約した。アメリカに関してはナムコはアタリに任せる方針であったため、アメリカ進出は遅れていた。テンゲンのゲームソフト提供もNOAの厳しい管理下におかれ、本数制限と出荷数制限がなされ、期待していた以上の売上にはならなかった。

なかなか売上が伸びない海外市場に対し、ナムコは奇策に出た。有しているファミコンのライセンスを最大限に活用してやろうという手段である。

ファミコンとNESは同一機種であるため、ライセンスを有しているナムコが直接NES用ゲームソフトを発売しても何の問題もない。

こうした理屈でNESソフトを発売しようとしたのである。NESにはファミコンにはないセキュリティチップが組み込まれているが、ただそれだけだ。CPUもビデオチップもまったく同じ。ならばファミコン用ライセンスを持っているナムコがNES用で発売できない道理はないのだ。

このプランを立ち上げた後、ナムコは任天堂に出向き許可を貰いにいった。ナムコ視点からすれば「ファミコンの売上が飛躍したのはウチらのおかげ。NESも売上が伸びるだろうし、ロイヤリティだって入るでしょ」という理屈だったが、これは任天堂の越えてはいけないラインを完全に越えていた。

「今までファミコンから利益かっさらいておいて、NESにまで手を出そうとするのか!」

当然、任天堂の返事は「No!」だった。ところが任天堂はナムコの思惑を図りかねていた。任天堂の越えては行けないラインは、ナムコにとってはスタートラインだったのである。

ナムコは1988年11月、京都地裁に出向きNES用ゲームソフトの仮処分を申請した。

NESとファミコンは実質的な差はなく、ファミコンのライセンスを有しているナムコはNES用ソフトを発売できる立場にあることを確認をしたい。なお、ナムコの輸出販売を任天堂が妨害することが予測されるので、その妨害の禁止も求めたい。

という内容の仮処分申請である。任天堂にとっては宣戦布告もいいところだった。ナムコは任天堂に対して白手袋を投げつけたのである。

このときのナムコは本気で裁判所を動かせると思っていた。分は此方にあると踏んでいた。当時市販されていた「あめりかくん」というアダプターをNES本体に差し込み、ファミコン用ソフトを動かすデモンストレーションを裁判所でやってみせた。これによりNESはファミコンと同じもので、セキュリティチップを付け加え、端子の数を変えただけだと主張した。

ナムコの思惑では、ここで権利を獲得できればそれでよかった。任天堂の反発はあるだろうが、残り一年、アメリカ市場でしっかり稼ぐことができれば良い。1988年の決算ではナムコは約350億円を売り上げた。そのうちの約150億円が家庭用ゲームソフトの売上、つまりファミコンソフトの売上だった。89年7月以降、ライセンスが切れた場合この売上が消えてしまう可能性もナムコは考えた。

そしてライセンスの期限が切れる89年以降も安定した売上を望むが、それには任天堂側の再契約が必要だった。ある程度譲歩を引き出せるのが理想だが、今の任天堂の態度を見る限り、それは不可能だった。

どうすればよいのか。中村社長の頭に妙案が浮かぶ。この頃の任天堂はファミコンブームの時のような持ち上げられ方をしなくなって、バッシングを浴びるようになっていた。
任天堂の圧政、恐ろしい山内管理体制。あまりにきっちりとサードパーティを管理しようとするその姿勢は、「利益を自社だけで独占している」という批判を受けた。これは正確な論評ではないのだが(ではいったい、なぜサードパーティは自社プラットフォームを立てないのだ?)、任天堂はマスコミが叩くにはちょうど良い大きさの的だった。

この任天堂バッシングの流れに乗り、それに反抗する正義のナムコ、という形を演出してやろうと考えたのである。

中村社長はインタビューで任天堂への反目的な態度を隠そうとしなくなった。日本経済新聞紙上ではこのように語っている。

ゲーム機業界はまだ新しい産業。それだけに健全に成長していって欲しい。任天堂さんがファミコンでつくられたあれだけの独占状態をこのまま続けるのは、将来この産業が健全な競争を展開する上で良い影響を与えないのではないか。主導的な立場にいらっしゃるのだから、いまのうちからこれを考えて欲しい。

任天堂を持ち上げつつも、独占状態にあることを牽制している。ようするに「任天堂さんは儲けているんだから懐を広いところを見せてください」と言ってるわけだ。これで任天堂がバッシングに反応し、「仕方ないか……」と、ナムコへの優遇措置を延長してくれればよい。

しかしこれに対し任天堂山内社長の反応は冷徹に過ぎた。財界紙上で、ナムコ他、任天堂が圧政を敷いている、というサードパーティらに対してこう言い放った。

要するにうらやましい、ねたましいということですよ。市場を独占していると言うが、自由競争の結果だから仕方ない。ロイヤリティが高いという根拠もわからない。何か基準でもあるんですか

もし任天堂に不満があるなら、彼らが独自にやっていける市場を開拓すればいい。それが普通の経営者がとるべき道

任天堂からしたらファミコンを設計し、いちかばちかの賭けで巨大な投資を行ったのは自分たち任天堂自身である。ナムコは後からやってきて低リスクで美味しい思いを十分したではないか。これ以上優遇を続けろというが、いったい何様だ。

ナムコと任天堂。両社の思惑は重なることなく、どんどんとズレが広がっていった。それに拍車をかける事件が起きる。

1989年12月、テンゲン有するアタリゲームズが、任天堂を訴えたのだ。


裁判勃発



訴訟の内容は「NOAは独占的かつ排他的な商行為によって潜在的競争相手を支配し、彼らの犠牲において独り繁栄している」ということだった。つまり独占禁止法でアタリゲームズはNOAを訴えたのである。求めている損害賠償額は1億ドル。しかもアタリゲームズが同時に発表したのは、NESのセキュリティチップを解析しおえ、以後は自前でゲームカードリッジを生産するという声明だった。

製造委託費はもちろん支払われず、NOAのクオリティチェックはおろか、発売本数も守られなかった。

アタリゲームズは最初、テンゲンを通じてNOAと正式な契約を行い、ライセンスを受けて販売を行い、「テンゲンのゲームは正規のNESゲームだ」という印象をユーザーと小売店に植え付けた。そしてしばしの時間をかけ、NOAのスタッフ(山内社長の娘婿荒川實はアタリの名を尊重すべく、逸脱しない範囲で情報を与えた)から得た情報を元に小売店への独自の流通網を作り上げた。そして自前のカートリッジを売り出し、一気にその販売力を拡大させた。

年商は4000万ドルに達したが、これはアタリゲームズからしたら不満だった。末端で数々の任天堂の妨害があり(テンゲンのカートリッジをNOAのスタッフが見つけると、なぜか任天堂の新作が入荷しなくなった。おかげでテンゲンのゲームは出回りにくくなった)、それがなかったらもっと売れていただろう。

明らかにナムコとの連携だ。国内、国外。ナムコはアタリゲームズと共に全力をもって任天堂に戦いを挑みに来ている。山内社長、他任天堂のスタッフらはそう確信していた。

よしわかった。そういうつもりか。挑発され、宣戦布告され、そしてついに一発したたかに平手打ちを食らってしまった山内社長は、炊飯器から白米を茶碗にいれて、そのまま冷蔵庫にしまいこんだ。ナムコにぶぶ漬けを出さなければならないのだ(本筋に関係ないが任天堂はかつてお湯で作るインスタントライスを販売していたことがある。不味かったそうだ)。ナムコに対して正式に「同条件でのライセンス更新はない。他社と同等の条件で契約しなおすか、もしくは契約しないか、どちらかにせよ」と通達した。


顛末


ところがここから突如ナムコ側の動きがおかしくなる。威勢の良い発言がなりを潜め、それどころか「海外での訴訟は国内の代理戦争ではない」という釈明をするようになった。さらには「ナムコはアタリゲームズの株を26%所有しているにすぎず、経営に参加していない」というコメントも出した(85年の買収の際はナムコはアタリの経営権を獲得したと自慢気にコメントしているが)。

ナムコへのぶぶ漬け提供ラインが任天堂で稼働しはじめ、増産も決定した頃、裁判所が一つの決定を下した。

「ファミコンとNES、両社は商標がまったく異なる上、仕様を異にし、それぞれのゲームカセットはアダプターを用いないと互換しえないものと疎明される」

つまりファミコンとNESは別物だ、という判定を下し、ナムコの申請を却下した。ナムコのライセンスはあくまでファミコンのものであり、このライセンスを以てNES用のゲームを発売することはできない、という内容だ。ナムコの敗北である。89年3月の出来事だった。

これはあくまで仮処分申請への却下であり、ナムコ側は控告することもできた。しかしナムコはこれを断念。よってナムコがNESのライセンスを持っていないことが確定した。あっけない決着であった。そしてナムコは「契約更新により今後もファミコンソフトを作り続けていく」という声明を出した。いきなりの方針転換に任天堂はむしろ驚いた。「ナムコの真意がわからない」とぼやく幹部もいたという。ナムコは負けたことを潔く認めたように見えたが、いったい何があったのか?

ナムコは優遇措置がない、他社並みの条件を呑むことにした。カートリッジは自社生産ではなく任天堂への製造委託。年間本数制限あり。表現規制あり。ナムコが任天堂に屈した、という報道が駆け巡った。中村社長はライセンスを更改(更新ではなく)したことに対し「自己評価は75点」と胸を張った。それは虚勢だったのだろうか? 首を傾げるマスコミが多かった。

事態はいささかややこしい。実はアタリゲームズの訴訟は、ナムコの仮処分申請とは全く別の流れで行われたものだった。ナムコはアタリゲームズの経営権を持っていても、アタリゲームズは意に介さず好き勝手に動いており、事後報告で中村社長に知らせが届くような状態だった。
テンゲン設立もナムコへの承諾を得ることなく勝手に行っており、この任天堂に対する独占禁止法への訴訟に関しても中村社長のところに報告へやってきたのは訴訟前日、という有様だった。そのため当初こそアタリゲームズの株式を過半数取得していたが、89年ではその数を減らして経営権を手放していた(こういった姿勢に嫌気が指したのか、90年にはすべての株をワーナーに売却してしまった)。

ナムコとしては上手いこと任天堂へのバッシングを利用し、自分たちを善玉としてライセンスを優位に引き出す算段であったが、山内社長のほうが一枚上手だった。見事に悪役を演じ続け、ナムコを追い込んでみせたのである。

これ以上攻めるのは危険か、と思っていたところで、小石に躓き背中に背負っていた正義のそろばんが飛び出し、したたかに任天堂の額に会心の一撃を喰らわしてしまった……ざっくりいうとこういう状況だった。

一発だから誤射です、という言い訳が通る相手ではなかった。ナムコは裁判所から申請を却下された時点で戦線を撤退させる他、道がなかった。却下された時は89年3月、ライセンスが切れるのは89年7月。裁判に訴えたところでもうすでに時間も残されていなかったからである。たとえ勝ったとしてもライセンスは効果を失っていて、実際にソフトを発売することは不可能だった。

ナムコと任天堂の間に新たなライセンス契約が結ばれ、新たな関係がスタートしたが、山内社長、中村社長のなかには互いにどうしようもない感情の溝が生まれた。ナムコは新たな道を模索しだす。ナムコの可能性を狭めてはならない。「もし任天堂に不満があるなら、彼らが独自にやっていける市場を開拓すればいい。それが普通の経営者がとるべき道」とは任天堂山内社長の言葉であるが、これはもっともだった。ナムコは別に任天堂の下請け会社ではないのだ。

ファミコンへのライセンスを更改させた一方で、ナムコは新天地の開拓を続けていた。つまりPCエンジンや、メガドライブへのソフト提供である。

PCエンジンには1988年時点でファミコン版より先んじて妖怪道中記をリリースしているし、メガドライブも発売当初からナムコはサードパーティとして契約し、発表を行っていた(実際にソフトが発売されたのは1990年のフェリオスまでかかるが)。ナムコはファミコン傾注を止め、全方位に手広く手がけるメーカーへと変貌していく。しかしその範囲の中にスーパーファミコンも含まれていた。アーケードゲームに力を注ぎ、家庭用ゲーム機にそれの移植をする流れはファミコン時代と変わらない。それらを各ゲーム機に提供し、時にはオリジナルタイトルも用意する……。そんな有力ソフトメーカーだった。背景にはナムコ独自の流通網、問屋のお得意様を作り上げた後だったので、わざわざ初心会に頼る必要が薄れていたという事情もあった。

ところがである。ナムコはこういった流れの奥底で、ひっそりと超大型企画を進めていた。自社プラットフォーム計画である。


幻のNC-1


その計画の名はNC-1とも、ナムコ・コンシューマ1とも呼ばれている(記事内では以後NC-1で統一する)。
この計画はファミコン最盛期の87年頃にはすでに動き出していた。ファミコンが本来狙った製品寿命を迎え、その性能にナムコが限界を感じ始めていた頃である。
ナムコはファミコンの次を見据えていた。日々進化するアーケードゲーム機。近い未来に発売するゲームはもういい加減ファミコンの移植に無理が出るのは間違いがなかった。もちろん任天堂がファミコン次世代機を発売するのは間違いない。ハドソンがNECと手を組んでPCエンジンを発売した。そしてセガも。そんな状況で中村社長は指示を飛ばした。

「我が社で家庭用ゲームハードをつくってみろ」

みるみるまにナムコの開発陣がその指示を形にしていった。ファミコンを上回る16bitCPU(MC68000のようだ)に、高性能ビデオチップに、音源。ROMカセットを搭載し、ナムコ製ゲームを動かせるスペックを有した家庭用ゲームハードになるはずだった。1989年、ファミコンのライセンスが切れる年にはもうほとんど完璧といって良い形まで完成していた。

しかしこれが発売にまでは至らなかった。ファミコンが1000万台売れてる横で、はたしてこのハードは何万台売れてくれるだろうか? 当然ハードが売れてくれないと、それ以上にソフトが売れることはない。どれくらい消費者が買ってくれるか、未知数だった。せめて200万台出荷しないと採算が取れるレベルではない。どうすればそこまでに至れるか? ナムコは任天堂の凄さを計算ではなく、肌感覚としてひしひしと感じていた。

ゲームソフトを二本買ってくれたら本体は無料で配布する、なんて案もあった。確かにこれなら200万台はいくかもしれない。しかし計算してみるとなかなか難しいこともわかった。本体のコストを仮に1万円としたなら、200万台を無料配布すると決めた時点で200億円のコストがかかることが確定する。しかもこれはかなり甘く見た目算だ。メガドライブは21000円であり、セガはハードの儲け分を削りに削ってこの価格を実現していた。

それにサードパーティはどれだけ来てくれるのか? 自社のソフトだけで引き寄せることは可能か? 頭を悩ませなければならない要素はまだまだあった。

中村社長は決断を下すことができなかった。計画は一時凍結。そのためあくまでナムコはPCエンジン、メガドライブにソフトを提供するサードパーティの立場に落ちついた。

しかし時代が進むとCD-ROMという媒体が世の中に出回りだした。NECとハドソンがこれを強く推し、PCエンジンはCD-ROM2という拡張機器をつけることでゲームに扱うようになった。メガドライブもメガCDという拡張機器を用意した。再度NC-1は蘇る。このCD-ROMを搭載したゲームマシンを、我が社で作ることは不可能だろうか? そんなわけがなかった。ナムコの開発陣は再度作り上げる。さらに性能があがった16bitCPUに、高性能2Dビデオチップ。PCM音源チップに、CD-ROM搭載の一体型コンシューマハードだ。これは91年から92年にかけて開発とバージョンアップが続いた。アーケード用基板に使われたチップを採用しようとしたり、開発陣の試行錯誤が重なっていく。設計思想の方向性も完全に固定されていたものではなく、何度も変わっていった。

92年頃、どうにも終わらない開発に新しい風を入れようとした。外部から開発者を招き、このハードを見て感想を貰おうというのだった。ナムコの幹部のなかにソニーの技術者へのつてがあったのだ。

招き入れたソニーの技術者はNC-1を見て怪訝そうな顔をした。そしてナムコの開発陣に向かってこう言った。

「ナムコさんって89年くらいからずっとポリゴンに力を入れてきたのに、なんでこんな2Dのハードを今更つくってるんですか?」

その言葉にナムコの開発陣は意気消沈した。この時代、アーケードではポリゴンを利用したゲームが出始めた頃だった。ナムコでもソルバルウや、ウィニングラン’91といった3Dゲームを稼働させていた。



しかしこの流れが本流になるのか、イマイチわからない。シューティングやレースゲームにはポリゴンは有用だが、家庭用ゲームで人気のRPGや、格闘ゲームははたしてポリゴンが使われ3D化するのだろうか? するとしても、何十年後の未来かもしれない。こういった事情でナムコはNC-1をあくまで2D用ゲームハードとして設計していた。

だが、ソニーの技術者は熱弁を振るう。3Dの時代はすぐそこに来ている。ポリゴンでなんでも描写する時代が。そのゲームハードは我が社で現在作っている。ナムコさんには是非我が社でゲームを開発してもらいたい。お話できる時が来たら全てをお話します……。それを聞き、ナムコは正式にNC-1プロジェクトを中止する。凍結ではなく、中止だ。

その開発者の名前は久夛良木健。プレイステーションの生みの親である。


プレイステーション



1993年10月、プレイステーションが発表される。ナムコはプレイステーションのパートナーとして名乗り出る。ナムコはプレイステーションの開発環境の整備に携わる。さらにプレイステーションの性能向上版を業務用に転用する。こうしてSCEとナムコは協力体制を敷いていった。

ナムコの新しいパートナーはSCEだった。PS互換基板でアーケードゲームを発売し、後日改めて最適化を施しPSへ移植する。ファミコン黎明期と同じことをナムコは出来た。

そしてナムコはPSにもオリジナルタイトルを次々に誕生させる。エースコンバットにテイルズオブシリーズ、風のクロノア、ナイナイの迷探偵。多岐にわたるソフト提供はナムコここにありを再認識させた。

PSのシェアは勢いよく任天堂のシェアを削っていった。市場は拡大し、日本のコンシューマーゲーム機市場は97年で最大になった。それを支えた一因としてナムコの働きがあったのを否定できる者はいなかった。

1999年、中村社長はインタビューでこのように答えている。

最初の5年間、ナムコはサードパーティーとしては特別な待遇を受けていたわけですが、しかし、その間の我々の貢献を考えたらね、山内さんはこっちに足を向けて寝られないくらいだという風に私は思っていますけれどもね。
でもあの人はそういう恩義みたいな物はすぐに忘れちゃう人だからね。京都商人で、ドライというか、冷徹なところがあるから。正直いって人間的にはあまり好きじゃない。
で、五年目の契約更新の時に他のソフトメーカーと同じ条件で契約して貰うといいだした。こっちは非常に不満ではあるけど、あの人は『それが嫌だったら契約しないで結構』と開き直るような人だから、個人的には屈辱であったけど、ビジネス上の選択として契約せざるを得なかったちゅうことで

ゲーム大国ニッポン 神々の興亡 滝田誠一郎 P147

……だいぶ自分に都合の良い部分だけを紡いだような気がする(ナムコの社長という立場ならば当然なのかもしれない)が、とにかく中村社長としてはこういうことを公言できるくらい、幾分か気の晴れる結果になったようだ。

しかしナムコと任天堂の関係は断絶したわけではなかった。それどころか2002年、驚くべきことにこの二社は提携する。


そして信頼へ


任天堂はゲームキューブ向けタイトルスターフォックスアサルトの開発をナムコに委託した。そしてナムコはゲームキューブをベースにしたアーケード基板を開発する。これにはセガも参加していた。三社共同でアーケード向け新型基板トライフォースを開発し、ナムコはそれを利用したゲームを稼働させる。なんとそのタイトルはマリオカート(正式名称はマリオカート アーケードスタジアム)だった。任天堂はナムコに、自社のキラーIPであるマリオカートを貸し出したのだ。

話はそれで終わらない。ナムコはゲームキューブ向けに6タイトル、ゲームボーイアドバンスに8タイトルを発売するが、これらの販売を任天堂に委託すると発表した。任天堂に委託するということは、つまり旧初心会流通に任せることを意味する。その際には

(GameCubeタイトルは)任天堂の流通ルートが最適と判断した。任天堂の販売力があれば,(自社でやるよりも)1.5倍は売れるのではないだろうか」(ナムコCTカンパニープレジデントの原口洋一氏)

https://www.itmedia.co.jp/news/0205/08/nintendo_namco.html

とコメントし、ずいぶんと任天堂に花を持たせた結果となった。

いったいこれはどういうことか? 劇的な和解劇でもあったのだろうか? それとも任天堂社長が岩田社長へと替わった影響だろうか? 実はこのとき、まだ任天堂は山内体制が続いていた。このナムコの提携を発表した5月の末、岩田社長へとバトンタッチを行った。山内社長が最後にした大仕事が、ナムコとの提携だったのである。

中村社長は山内社長のことを嫌っていたのでは? と思われるかも知れない。この状況を理解するためには、娯楽産業がどういうものかというものを知る必要がある。

山内社長は娯楽産業は一強皆弱と評していた。同時期で登場したプラットフォームで採算が取れるのは一つのみ。家庭の娯楽費には限りが有る。欲しいものはなんでも買えるわけではなく、もっとも欲しいと思えるもの一つだけを買う。だから特定の商品だけに人気が集中する。そういった理屈だ。

しかしファミコンの登場から10年以上経った市場は拡大を続け、据え置きハードと携帯ハードという別々のプラットフォームが成長を続けていた。プレイステーションが据え置きハードのシェアを締めたあとも、ゲームボーイはポケモンで場外ホームランを飛ばし市場を拡大させ、さらにワンダースワンやネオジオポケットという競争相手のおかげでより活性化した。裾野が広がり、特定の商品だけが無限に買われていく……という状況とは少し変わってきた。

つまり娯楽産業は他社が一円儲ければもう一方が一円損をするゼロサムゲームではなかったのだ。競争し、切磋琢磨すれば双方が利益を得ることが可能だった。

ナムコと任天堂の関係も同じことだった。ナムコがアーケードの人気作を家庭用機に移植する流れを任天堂は見事として見なしていたし、任天堂がポケモンというスマッシュヒットを繰り出す様と、スーパーマリオ64で恐るべきクオリティの3Dゲームを登場させたことに対してナムコは敬服した。この二社は互いをリスペクトし合っていたのだ。

事実、ナムコはプレイステーションに注力することを決定した後も、それでも任天堂に対してニンテンドウ64に参入する旨を申し出している。任天堂もナムコを軽んじることなくそれを受け入れた。日本ではファミスタ64が一本でた切りだが、アメリカではリッジレーサー64(これは後年リッジレーサーDSのための素材の元ネタとなった)が発売された上、ナムコミュージアムも登場した。アタリゲームズが独占禁止法で訴えた過去は(結局その裁判はアタリ側が完敗した)流された。

ナムコが創業50周年を記念し、パーティを開催した際は山内が祝電を送っている。このとき社長である岩田ではなく、あくまで会長の山内が送った形だ。


山内と中村の関係を表現するのは難しい。それでもあえて言うならば――最大の敵でありながら、どこかで苦しみと喜びを分かち合っている”友”であった。そんな関係ではなかったか。

任天堂とナムコは以後も協力関係を続けている。キラーIPマリオカートはアーケードだけではなく、本編のマリオカート8ではバンダイナムコとなったナムコが関わっていてグラフィック関連の半分を請け負った。さらにもう一つのキラーIP、大乱闘スマッシュブラザーズではForWiiU、For3DSの全編を開発した。

任天堂が最も信頼を置く開発会社、ナムコの位置づけは間違いなくそうだった。

山内が、中村が、個人的な好悪で雰囲気が悪くなることはあっても、それはあくまで個人の胸中の範疇で収まっていた。山内がナムコに対して出入り禁止を命じたことは一度もなく、中村が山内を悪しき様に話すときは必ず自分がどう見られるか計算を行っていた。

些か揉めた出来事があっても、それで出禁を命じるほど、山内の器量は小さくなかったのである。


なお、そんな山内から出禁を喰らったスクウェアという企業があるが……それはまた、別の話。


-終わり-



参考URL


参考文献

ゲーム大国ニッポン 神々の興亡 滝田誠一郎
シューティングゲームサイド Vol7
それは「ポン」から始まった 赤木真澄
スーパーファミコン 任天堂の陰謀 高橋健二
任天堂 ガリバー商法の秘密 内海一郎
ハドソン伝説 1-3 岩崎啓眞
スーパーゲームヒット学 飯野賢治
ゲーム・オーバー デヴィッド・シェフ
日経ビジネス 1990年3月12日号
ゲームマシン 1989年4月1日号
ゲームマシン 1985年3月15日号
日本デジタルゲーム産業史 小山友介

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