任天堂の社長になれなかった男 荒川實 終幕 -プレイステーション。そして荒川の引退-

過去記事のまとめはこちら

1990年1月、任天堂はソニーととある契約を結んだ。

「ソニーはスーパーファミコン用CD-ROMの拡張機器を作成する。このアタッチメント上で動くソフトウェアの権利は、ゲーム部分を任天堂が取扱い、ゲーム以外はソニーが持つ」

そもそもスーパーファミコンの音源チップはソニー製であった。最初はソニーの技術者久夛良木健が2インチフロッピーディスクを任天堂に売り込み、それが受け入れられないとみたあと、売り込んだ代物だった。当時主流のFM音源と比べて彼が提示したPCM音源は、なるほど、次世代機に相応しい性能を有していた。

山内の認可が下りた。スーパーファミコンに久夛良木健が作り上げたチップが採用された。気を良くした彼は、かつてより構想していた計画を実現させるときだと思った。「スーパーファミコン用増設CD-ROM」計画を披露したのだ。CD-ROMは大容量だ。ROMカセットと違ってコストも安い。次世代の媒体としては絶対にこちらが相応しい。是非ともCD-ROMも使えるようにスーパーファミコン用の拡張キットを作るべきである。久夛良木は任天堂に何度も「お伺い」を立てた。

任天堂技術陣はあまりCD-ROMに好意的ではなかった(なにせロード時間がとにかくかかるのだ。ロード時間はディスクシステムでもうこりごりだ)が、あまりに久夛良木が強く推すので山内の采配を待った。
山内はソニーの金で作られるのなら、まぁいいだろうと判断を下した。そして契約書にサインをした。

荒川がその契約書を見たのは全てが終わった後だった。彼は何度も何度も契約書の文面を読み直した。そして表情をこわばらせながら、義父に進言した。

「お義父さん、これはいけません。ソニーの権利が強すぎます」

荒川はアメリカで過ごしている。CD-ROMがどれだけ生活に根付いているのかよく知っていた。CDは音楽だけではない。辞書にもなるし、映画だって入れられる。マルチメディアと呼ばれる風が日本よりも先にアメリカでは吹いていた。その権利をソニーが一切合切持っている。いくらなんでもこれは不味かった。しかも日本式の契約書で二・三枚で終わっている。アメリカであれば数十枚に事細かに決められた文面が並んでいるはずなのに。これでは権利をさらに奪われかねない。
その進言に山内は緩んだ表情を変えなかった。

「ええ。ゲームさえ残っていれば構へん」

山内の考えではカラオケや辞書端末としてスーパーファミコンが使われ、その利益がソニーに行くことは許容範囲だった。それでもスーパーファミコン本体の台数を加速させるに違いないし、任天堂としてはゲームの利益が確保されていればよい。ソニーは大事なパートナーであり、ソニー自身に利益がいくこと自体はさほど間違いではなかろう、という具合だった。

ソニーが実際に試作機を作り上げた。当初の予定はディスクシステムのような付属アタッチメントであったが、実際にできあがったものはCD-ROM一体型の筐体だった。ディスクシステムは不格好であったり、そこから伸びるケーブルはあまり美しくなかった。最終的に一体型に変わった。その筐体にはソニーのロゴが刻印された。

荒川はことある毎に進言した。あの契約をなんとかしてください。絶対に危ないです。進言を何回か行うたびに、義父の様子が変わってきた。最初は右から左に聞き流すようになっていた態度が、次第に真剣味を増していったのである。

「そうか、わかった」

とある日、短く義父は答えた。このとき日本で任天堂には一つのトラブルが発生した。これがきっかけとなり、山内はソニーへの不信感をもつ。これはもしや、娘婿の言うとおりなのでは……?



1991年6月1日、CESで華々しくSNESのCD-ROM互換機が発表された。NOAの幹部らが笑顔で握手したのは、フィリップスの幹部だった。そこにソニーはいなかったのである。ソニーは驚いた。いったいどういうことか!? 大慌てで久夛良木は京都に向かう。そこで出迎えたのは荒川だった。

荒川はいきり立つ久夛良木とは対照的に静かに言った。「契約は、履行します」。久夛良木は言葉を失った。一体何が起こったのか、理解ができなかった。

ソニーがCD-ROM互換機を作ること自体は何の問題もない。しかし任天堂としてはソニー側の互換機で動くゲームソフトは作らない。……こうすることで、契約破棄をすることなくソニーのプレイステーション計画を無意味にすることができた(いったい誰が任天堂のゲームがでない任天堂互換機を買うんだ?)。山内はソニーへの信頼をなくしてしまっていた。山内の目には、ソニーはゲーム外のみならず、ゲームまで全ての権利を奪い取ろうとする下劣な相手に見えた。

一方のソニー側は、元々そんな気がないから何が悪いのかわからない。確かにあの契約書は自分たちに有利だが、サインをしたのはそもそも山内社長自身ではないか。今更何をいうのか。久夛良木は秘密主義であり、自分で何もかもしようとしたことが裏目に出た。ソニー側はこの事態の全容を掴んでいる人材がほとんどおらず(そして久夛良木自身も全容がわかっていなかった)、事態の収拾を図ろうにも図れなかったのである。
久夛良木はなんとか関係を修繕させようとしていたが、上手くいかなかった。普通の会社であれば責任者の彼が責任を取らされてお仕舞い。これでこの話は終わるはずだった。

山内の読みも同じだった。ソニーのような大企業が娯楽という分野で単独に参入してきても上手くいくはずがない。彼らはハードウェアの会社であって、「面白いゲームソフト」をつくるソフトウェアの会社ではないからだ。そこをわかっていない松下が3DOというハードでゲーム市場に参入してきたが、結果として散々な目を見ただけで任天堂に影響を与えるまでにはいかなかった。

そして後年、ソニーはゲーム市場にやってきた。SCEという名で「プレイステーション」という名のハードを引っさげて。上手くいくはずがなかった。「あんなものは100万台も売れない」と山内は言い放つ。

けれども山内は読み違えていた。久夛良木はソフトウェアの重要性をしっかり認識していたのだった。任天堂と共同開発していた一年半、彼は任天堂のプラットフォーマーとしての動きを見ていた。そして同時に山内もパートナーとして、プラットフォーマーとしての心得を最低限教えていた。そして彼は山内の予想以上にしっかりとゲームビジネスを周知していたのである。どうすればゲーム業界に切り込むことができるのか考え抜いて、そして十分な策をもって参入してきたのだった。

それがサードパーティーの誘致だった。そもそも任天堂はファミコン発売の際、すべてのゲームを自分達で出すつもりだった。しかし後からサードパーティーを受け入れる体制を整える羽目になった。セガはサードパーティーを誘致したかったが、そのためのハード設定は考えていなかった。まずは自社がゲームを作りやすい環境を整えることが先決だった。サードパーティー用に開発マニュアルはつくられたが、開発中に見つけた、より性能を振り絞るためのテクニックは秘匿された。

プレイステーションは逆だった。自社でゲームを作る体勢を作る前に、まずはサードパーティーを招き入れなければならない。ハード構成は可能な限りシンプルで高性能にし、それの開発環境を整える。そしてそこで見つけたテクニックは、秘匿どころか公開された。その上各社が見つけたテクニックを共有し、ライブラリ化した。

「皆が使いやすい環境を整えよう」

この思想に乗ったナムコが自ら先陣を切って開発環境を整えだした。ナムコは任天堂とはいろいろといざこざがあったし、セガとはゲームセンターでライバル会社だ。どこかしがらみのない会社がハードウェアを提供してくれれば……そう思っていたところにソニーから勧誘を受けた。やるかやるまいか悩んでいた自社ハード構想を捨て、プレイステーションに全力を注いだ。
コナミも乗っかった。元々売れればどこでもいい、拘りがない企業気質であり、PCエンジンにもメガドライブにも参入していた。そこにソニーが頭を下げてきたというなら参入するに躊躇はない。豊富な開発支援に気を良くした。

次々にサードパーティが参入した。そして1996年、任天堂と長らく協力体制を歩んでいたスクウェアがプレイステーション側へと「移籍」した。完全に流れが変わった。山内はそれでも64の勝利を疑わなかった。まだドラクエがある。ユーザーは面白いソフトを目当てにハードを仕方なく買う。多量のサードソフトがプレイステーションに並んでいても、面白い少数のソフトが64にあれば、最終的には64が勝つ。そう見込んでいた。

山内の見込みはさらに外れた。ドラクエもプレイステーションに移籍することを決めた。その時のプレイステーションのシェアは日本の6割を占めていた。次第に様相は任天堂vsSCE&サードパーティー連合軍になりつつあった。前世代の戦いは任天堂vsセガ&EAであったが、相手はより多く強くなっていった。

山内はそれでも最終的に負けるとは思っていなかった。そもそも市場の大きさでは、日本は世界一でなくなっていたのである。アメリカのゲーム機市場は日本の倍。しかもそこには最も信頼する娘婿が辣腕を振るっている。荒川ならプレイステーションを見事に跳ね除けて見せるだろう。しかもアメリカ人の好みのアクションゲームは任天堂の得意分野だからだ。



1995年5月、北米最大のゲームソフト見本市E3が初めて開催された。今までCESでやってきたゲーム関連はついに独立し、そこで各社がプレゼン発表する場となった。任天堂は次世代機Ultra64を来年に延期すると発表した。SNESが非常に活気づいていたので急いで今年出す必要性が薄れていた。そのため目下の注目はセガのサターンと、SCEのプレイステーションに絞られた。

サターンの発表が始まった。有しているスペックの高さを存分に誇らしげにカリンスキーが述べた。カリンスキーは32bitCPUやVDP、DSPやPCM音源といったスペックを得意げに語ったが、ただし本人はこれらのスペックが何を意味しているかさっぱりわかっていなかったし、わかる必要もなかった。それを聞く人々の目が輝いていたことを彼は見ていた。カリンスキーはこのサターンにマーケティング費用1億ドルを投入すると宣言して関係者を沸かせた後、最後にこういった。

「肝心の発売日はだって? ……昨日だ!」

まるで後年のスティーブ・ジョブズのスピーチの後のように、聴衆は歓声の渦を巻き起こした。すでにこのハイスペックなサターンが売られているんだって!? なんてこった! 今すぐにでも買いに行きたい聴衆らはそれでも席を立つのを抑えた。まだソニーの発表が終わってない。

プレイステーションはすでに日本で発売されていて、そのハイスペックさがアメリカにも伝わっていた。純粋な3D専用ハード! ナムコのリッジレーサーは素晴らしいし、TEKKENはバーチャファイターに勝るとも劣らない! こんなゲームがまさか家で遊べるだなんて! 
そういった魅力はあったものの、ネックは価格だった。これ以前に3DO(元EAのホーキンスが関わったハード)が699ドルというとんでもない高価格を打ち立て、見事に出だしからコケた。高性能なのはわかる。妥当な価格を出してくれ。サターンは399ドルと明言し、聴衆は安堵を得た。おそらくこれがゲーマーに受け入れられる上限であり、プラットフォーマーが新機種を出すときに耐えられる下限だろう。サターンはこれでも赤字のハードだった。
プレイステーションは日本で39800円だった。実はこれは完全に赤字の価格設定であった。これをそのまま持ってくれば399ドルである。もし色気をだして499ドルなら消費者は受け入れないだろう。399ドルなら任天堂とセガは二人ならんで「やるじゃないか」と評したことだろう。

プレイステーションのプレゼンが始まった。まず担当者がこのアメリカでゲーム機市場を切り開いてきた先人たちに敬意を表した。E3というゲーム専用の見本市が開かれ、そこに参加するという名誉を賜れたことを感謝した。そしてSCEAプレジデントのスティーブ・レースに交代した。彼は壇上に立ってたった一言

「299」

といい、壇上から降りた。聴衆たちは狂ったように声をあげ両手を挙げた。このとき、サターンの存在は聴衆から消えてなくなった。



しかし荒川やリンカーンは、SCEがセガと並ぶ恐ろしいライバルだ、という認識はあっても、それ以上の脅威とは判断していなかった。いくらプレイステーションが低価格で高性能だとしても、彼らがこのアメリカで流通を制することができるとは思っていなかったからだ。

事実、SCEがアメリカで参入し小売店を回ったところ、どこでも「頼むから任天堂かセガか、どちらかと契約して出直してくれ!」と言われた。そしてアメリカでのゲーム事業の主導権を握っていたソニーアメリカの子会社はセガと提携したこともある(その余波の一つがあの「ナイトトラップ」だったりする)。

だが彼らはこの広大なアメリカのゲーム機市場に無策で乗り込んできたわけではなかった。EAに対しては「もしロンチタイトルを5本提供してくれるなら、今後PS1のロイヤリティは一本2ドルにする」と持ちかけた。EAはリバースエンジニアリングする必要なく、この最有待遇条件に乗っかった。他のサードパーティには良質の開発キットを惜しげもなく提供した。こうして協力体制を築いていく一方で営業力の強化を図った。

具体的にいうとSOAを狙い撃ちにした。

SOAで年間最優秀社員賞を貰った社員は、その翌日SOAを退社した。より高額な給料でSCEが引き抜いたからだ。彼だけでなく、ゲームの販売や流通に詳しいSOAのスタッフが次々に狙い撃ちにされ、SCEに流れていった。

豊富なソフトラインナップに、優秀なスタッフ。そしてあり得ないくらい安い価格。SCEは満を持してアメリカ市場に参入した。ずば抜けたスタートダッシュを決めたわけではないが、小売から「ソニーもなかなかやるじゃないか」という信頼感を勝ち得た。

それと同時にSOAの信頼感は急速になくなっていった。SOAはサターンを発表と同時に発売することにしたが、数を揃えることが(ジェネシス32Xと同じように今回も)出来なかったのである。アメリカでスタートダッシュを決めるには200万台が必要だ、とカリンスキーは主張し、本来の発売日はE3の四ヶ月後だった。が、しかし本社の中山社長がプレイステーションに先行することを優先し、E3での発表と発売にこだわった。そのとき回されたサターンは50万台しかなかった。カリンスキーは何度も延期を訴えたが、中山はがんとしてE3発売案を譲らなかった。1/4しかないサターンをどう配分するかSOAは悩み、しかたなく配分する小売店を選定し、頭を下げてまわることになった。サターンの配分から排除された小売店は激怒し、「知名度ゼロのジェネシスを置いてやった義理を忘れたか!」との怒号を浴びせた。その中にはあの小売最大手ウォルマートも入っていた。


小売店から信頼を失ったSOAは徐々にその売り場面積をPSに取られていった。日本では好調が続き根強いファンが多いサターンだが、アメリカでは「セガ史上最悪のハード」と呼び声が高いのはこのような背景がある(サードパーティからの信頼も相応に失われた)。
カリンスキーはこのような結末を迎えることはわかっていたが、それでも彼は道化を演じて見せた(その後カリンスキーは辞任した)。
この頃、荒川たちは事態の深刻さを思い知っていた。


SCEが入ってきたことでゲーム業界は三強になった、と評された。それはあっという間に二強一弱に変わっていく。そして二強同士が覇権を巡り激しく戦い合うようになる。


プレイステーションに遅れること一年、ついにNintendo64がアメリカでも発売された。「スーパーマリオ64」が、「スターフォックス64」が、「マリオカート64」が、そして「ゴールデンアイ007」が飛ぶように売れていく。やはりアメリカではアクションゲームなのだ。プレイステーションにも良質なアクションゲームがあったが、任天堂が怒濤のように繰り出すそれらにはやはりどうしても見劣りした。このあたりの読みは山内の思惑通りだった。

だがここから山内の読みが外れていく。「ファイナルファンタジー7」がアメリカでも発売されたが、なんとこれが数百万本を売り上げる大ヒット作になる。不人気であったはずのRPGというジャンルが、ついにアメリカでも受け入れられるようになった。スクウェアは次々にRPGをアメリカでも展開する。そしてそれらがどんどん受け入れられるようになっていった。「パラサイト・イヴ」「ファイナルファンタジータクティクス」も受け入れられ数十万本売れる土壌が出来た。プレイステーションは多種多様なジャンルのソフトが展開し、それが新たなゲームユーザー層を開拓し、そのユーザー層を狙ってまた新たなジャンルのソフトが登場する良質のサイクルが出来上がったのである。プレイステーションは大量のソフトが発売され、そしてそのソフトを支えるだけの購買層がいたのだった。良いゲームに国境はなかった。

対する任天堂は発売するソフトを自ら絞っていた。高性能で扱いにくいNintendo64は少数精鋭主義を名乗り、参入するサードパーティーも絞った。アタリショックの教訓を忘れていなかった。そして出されるソフトはまさしく一騎当千の出来映えだった。

「F-ZERO X」や「Banjo-Kazooie(日本名はバンジョーとカズーイの大冒険)」、そして何より「The Legend of Zelda: Ocarina of Time(ゼルダの伝説 時のオカリナ)」は群を抜いた出来映えであった。誤算は、相手が数万の軍勢を率いるプレイステーション連合軍であったことである。歴戦の古強者どもを率いるNOAは次第に息切れをし、長期戦になった対プレイステーション戦で徐々にその差を広げられていった。

荒川は徐々に広まっていくシェアに焦りを覚えていた。アメリカで1000万台を達成したのはプレイステーションが先だった。どんなキラータイトルを出したところで、毎週のようにプレイステーションのソフトラインナップは拡充されていく。先行するプレイステーションは1秒毎にそのパワーを増していくように見えた。その差を埋めることはもはや困難ではなく、不可能に思えた。任天堂はアタリショックを覚えていたが、市場と新しいゲームユーザー層はアタリショックのことを知らなかったのである。

しかし荒川は一筋の光を見つけた。日本で人気が沸き上がった「ポケットモンスター」に目をつけた。97年ではテレビアニメも始まっていたこのゲームは、96年、97年、98年の三年連続で日本でのゲームソフト売上No1に輝いた正真正銘の化け物ソフトである。これを世界のポケットモンスターにしようではないか! ゲームだけじゃない、テレビアニメやカード、様々なメディアミックスで売り込んでやろう! 荒川は日本とアジアを除く全ての地域でのポケモンの権利を獲得した。

ポケモンのローカライズに当たって生じた問題はそのプログラムだった。元のプログラムはあまりに難解で複雑だった。ポケモンや登場人物の名前を変えて、ポケモンの鳴き声も変更させたがったが、これは元のプログラムのままでは無理だった。最終的には1から全部作り直した。

アニメも徹底的にローカライズを施した。ただ字幕をつけるだけでは駄目だ。道路標識や看板をなおし、ときおり出てくる吹き出しの中身も英語に書き換えた。音楽も差し替えた。もっとも大きかったのは主人公の名前だ。サトシ(Satoshi)をもじり、より無国籍なイメージに近いアッシュ(Ash)へと改変した。印象的な「ポケモン、ゲットだぜ!」の台詞は「Pokémon! Gotta catch 'em all!」に決まった(海外版のアニメOPでは何回もこのフレーズが使われる)。

そしてゲームとアニメのローカライズ開発と並行して展開を模索していく。日本ではゲームが先行し、人気となったあとでテレビアニメ化されたが、アメリカでは逆でアニメで認知度を上げた後、満を持してゲームを発売しようと放送枠の確保に動いた。が、地上波の全国ネットワークにはもう割り込める余地は残っていなかった。

ならば、と荒川は各地の独立地方局に売り込みをかけた。広告収入の一部を受け取る代わりに無料でアニメを提供します、という条件で全米の小さな地方局らに営業をかけた。結果、アメリカの90%の地域でポケモンの放送がなされるようになった。

98年8月25日、カンザス州トピーカ市が一日だけ「トピーカチュウ」市へと名前がかわり、空から数百匹のピカチュウがパラシュート降下するというイベントが開催された。ピカチュウ模様に染まった車が全米の主要都市を巡り、子どもたちへグッズを無料配布した。さらには30分の解説ビデオを100万本以上配布した。これらのマーケティング費用は3000万ドルにも及ぶ。

NOAのスタッフらはポケモンに全てをかけていた。その中核で指揮をしていたのはニンテンドーパワー誌の編集長ディルゲンだった。彼女は子どもたちの心を掴むために何をすればいいのか、ちゃんとわかっていたのである。ゲームの広告の際は「収集」を前面に押し出した。ポケモンの要素のなかで飛び抜けて子どもたちの心を掴むものがそれだった。

おかげでポケモンのアニメ放送は最初から高視聴率をたたき出した。そして初回放送の二週間後、満を持してポケットモンスター赤・緑が発売された。最終的にアメリカで初代ポケモンは累計1000万本売れた。翌年、ポケモンカードを皮切りに次々に関連グッズが発売された。小売店でポケモングッズが飛ぶように売れた。任天堂はドンキーコング、マリオに続くキラーIPを手に入れた、いや、作り上げた。

それを支えていたのは荒川が作り出した流通機構だった。シアトルにあるNOAの巨大倉庫はアメリカ各地の2万の小売店とオンラインで繋がっていて、リアルタイムで在庫状況を把握できた。適正水準以下の在庫数になると自動的に出荷が行われ、過不足ない在庫を維持できた。しかも倉庫には15人しかいないのに、一日最大15万個の商材を二日以内に相手先に届けることが出来た。この流通機構は日本ではデジキューブ(スクウェアが主導したコンビニ流通のゲーム販売会社)が参考にしたほどだった。

このポケモンフィーバーは世界に影響を及ぼした。96年1月、8000円程度で低迷していた任天堂の株価は99年には最高19400円にまで高騰する。この状況を山内は「出来すぎやね」と評した。


もちろん荒川はこの世界的なポケモンフィーバーを使ってN64を持ち上げようとした。「ポケモンスナップ」「ポケモンスタジアム」、そしてピカチュウ柄のN64。さらには「Super Smash Bros.(大乱闘スマッシュブラザーズ)」! これでもかとNOAはポケモン成分を投下する。しかし残念ながら市場を守ることはできても、プレイステーション連合軍にシェアで勝つことはできなかった。最終的なN64のアメリカ市場での売上げは2000万台。SNESの微減に終わった。一方プレイステーションの売上げは4000万台。圧倒的差であった。(なお、サターンのアメリカ売上げは100万台ちょっとで終わった)
世界売上げではN64が3000万台余、プレイステーションは1億台超。任天堂は完敗した。



山内はこのポケモンフィーバーに気を良くしてはいたが、肝心要のゲーム市場で破れたことから目を背けてはいなかった。アメリカでは敗北、日本でも完敗、世界においては圧倒的差での敗北。携帯機市場が好調で、再びゲームボーイが盛り上がっていたものの、これを良しと思ってはいけなかった。自分の賭けが次々に外れていったことを真摯に受けとめていた。失意泰然、得意冷然。山内溥の座右の銘である。「物事が上手くいかないときは焦らず行動し、好調な時は冷然な態度で努力せよ」。焦ってはいけない。

同時に最大の問題に取りかかる時期にさしかかってきた。2000年、山内溥は73歳になる。もうとっくに引退していておかしくなかったが、いよいよもってその時期が訪れたことを自身が把握していた。そろそろ次期後継者を指名せねばならなかった。後継者探しをする一方で、自分の読みが外れた理由はなんなのか、彼は分析を始めた。


山内溥は稀代の博打打ち、であるといえた。娯楽分野における嗅覚は人一倍優れており、ここぞというタイミングでここぞという決断を下す。そうして任天堂を大きくさせていった。しかしここ最近、その決断は焦点がぼけた代物になっていった。N64の不振、少数精鋭路線の行き詰まり、64DDの失敗(磁器ディスクをつかったN64用の書き換え可能なゲームサービス。荒川はアメリカでサービス開始すらしようとしなかった)、ポケモンこそ盛り上がっていたが、他は寒い状況だった。


山内溥一人の感性はすでに限界が来ていた。ならば任天堂がプレイステーションに負けたのではなく、山内溥個人がプレイステーションに関わる全ての人たちの思惑に負けた、といえたであろう。彼はワンマン企業のリーダーとして任天堂を引っ張ってきたが、それはもう時代遅れになっていた。しかし、山内溥一人が負けたといっても、任天堂には他に人材がいないのだろうか? いや、そうではない。多種多様な天才が自分を慕って集まってくれている。合議制で動かしてこの娯楽の世界を切り開いていけるはずだ。山内はそう確信していた。

そして同時に……後継者であるが、順当であれば名実ともにNo.2である娘婿が選ばれて当然であった。だが山内はそうしなかった。20年という付き合いで彼は荒川という人物をようやく伺い知れた。山内が恒星であるなら、彼はその光を返す惑星だった。山内が強く輝けば、荒川も光を増す。けれども一度山内が光を失えば、彼は彼自身で輝くことはできないだろう。しかもそれは本人が一番よくわかっていた。以前から言っていたではないか。「次期社長は荒川だ」と聞かされたあとで、彼はいつも「任天堂の社長は山内以外ありえない」と!

2002年初頭。静かに雪の降る京都の山内家の一室にて、荒川は背を正し静かに辞表を山内へ出した。それを受取り、山内はしばし無言のまま机を挟んだ向こう側の娘婿を見ていた。
自ら茶を煎れ、それを差し出し、一言だけ言った。

「今までよくやってくれた」

荒川は茶を受け、口をつけた。荒川實は自身の評価を正しく行っていた。山内が表舞台から引いたあと、とても任天堂の社長になり引っ張るような真似はできない。そして下手に会社に残っていたら、新社長と上手く折り合いがつけられるかどうかわからない。最悪の場合、二頭政治が始まってしまう可能性すらある。山内なき任天堂に彼が残っては、むしろ新しい任天堂の邪魔になるのではないか……。山内の引退が近い今、自分が率先して任天堂を辞める必要があった。彼は何も語らなかったが、山内はその思いを全て汲んだ。

「ありがとうございました」

深々と頭を下げ、荒川はそう言い残し部屋を出て行った。山内は誰もいなくなった部屋の中でただ一人、しばらく温くなった茶を飲んでいた。

荒川實、55歳。NOAを辞した。
あまりに早すぎる引退ではあった。山内溥とは社長とその右腕という立場ではなく、ごく普通の義父と、娘婿という本来の立場に戻った。荒川實は次期任天堂社長との呼び声に反し、任天堂の社長になることなく、表舞台から去った。
これから後の5月、山内溥も任天堂の社長の座から降りる。任天堂は一つの時代に区切りをつけた。




2022年現在でも世界ゲーム市場は拡大を続けている。荒川は、アタリショックの影響下で冷え切った市場を再度加熱させることに成功した。その市場はいまでも加熱し続けている。そしてこれから先も様々な人物がゲームに携わり、この熱を冷めさせまいとし、そして市場は加速と加熱を続けることだろう。
そんなゲームはそれに関わった全ての人々をきっと笑顔にするはずだ。

2007年、コンピューターゲームの推進を図る非営利団体Academy of Interactive Arts & Sciences(AIAS、インテラクティブ芸術科学アカデミー。ゲームオブザイヤーの選定も行っている団体)の「生涯功労賞」を、ハワード・リンカーンと共に荒川は受賞した。アメリカでの家庭用ゲーム機の歴史を切り開いた男として、荒川はその名を刻まれた。

任天堂の社長になれなかった男は、何人にもなし得ない偉業をやり遂げた。それは日本の家庭用ゲーム業界を切り開いた義父に負けない偉業であった。

「荒川家の名に伴う責任を常に自覚すべき」

父の教えを忠実に守った結果だった。荒川家の重さに恥じない責任を、彼は背負い続け、見事に成し遂げた。
彼にはこれから「荒川陽子の夫」という大切な肩書きのために生きていくという大事な使命があった。30年共に歩んできた愛する妻のためにこその人生を、これから歩むことになるだろう。

そして




山内溥はとある男を第四代目任天堂社長へと指名した。それは山内溥、最後にして最大の博打だった。

On my business card, I am a corporate president.
-私の肩書きは社長ですが
In my mind, I am a game developer.
-私の頭は開発者であり
But in my heart, I am a gamer.    
-しかし心はゲーマーです

その男は、岩田聡


任天堂の社長になれなかった男 荒川實 -終わり-


参考文献

日経ビジネス2000年1月31日号「経営戦略-マーケティング 米国任天堂」

日経ビジネス1998年12月21日-28日号「フォーカスひと 荒川實」

立命館映像学論文 「北米デジタルゲーム産業形成期における家庭用ビデオゲーム専用プラットフォーム形成に関する比較事例研究」-ATARI.incとNintendo of America Inc.を中心に- 中村彰憲

ゲーム・オーバー デヴィッド・ジェフ

ファミコンとその時代 上村雅之

セガvs任天堂 上下巻 ブレイク・J・ハリス

ニンテンドー・イン・アメリカ ジェフ・ライアン


あとがき(できれば読んで下さい。脚色部分の補足があります)

※この記事はここで終わりです。購入しても感謝の文字があるだけです。支援していただける方は購入お願いします。

ここから先は

10字

¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?