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3DO -誕生から崩壊へ至るまでのクロニクル- 後編

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現れた二人の天才。――そして悲劇は訪れる


松下も、三洋も、なりふりかわまずソフトメーカーに誘致をかけた。その多数はろくな結果を生んでいない。オープンプラットフォームを標榜し、規制も弱かったため、18禁の実写取り込み脱衣ゲームも出た。カプコンがストリートファイターⅡXの独占販売(このゲームは長らく3DO以外に移植されなかった)をしてくれたことがほぼ唯一の優位性であった。

しかしその姿勢は二人の天才を呼び込むことに成功した。一人は飯野賢治である。

飯野賢治。彼はそのときはまだ無名の1クリエイターでしかなかった。その彼が独立し会社を設立したあと、選んだプラットフォームが3DOだった。それには理由がある。
当時圧倒的シェアを誇っていたのはスーパーファミコンだ。しかしスーパーファミコンで売れる人気ソフト、といえば続編ものであったりキャラクタものであったり、もしくはアーケードの移植作だ。飯野賢治の手元にはキャラクタも、続編も、移植もない。であるからスーパーファミコンは断念せざるを得ない。彼が選んだ新天地、それが3DOだった。もちろんプレイステーションやサターンでも良かったのだが、発売時期が先過ぎた。

3DOは当時圧倒的なマシンパワーを有していた。しかしプレイステーション、サターンといったライバルが登場したあとはそれは逆転した。むしろ次世代機群の中では最低性能の部類にさせられてしまったのである(一応PC-FXというポリゴン処理機能を有してないライバルはいたにはいたが、これは3DOの売りの一つである動画再生に特化していて、事実3DOよりもスムースにアニメを再生できてしまっていた)。しかし飯野賢治は「3DO本体でポリゴンを生成することにこだわらず、あらかじめ出力したムービーをCD-ROMに保存する」という手法でこれを乗り切った。こうして映画的手法を織り込んだ先進的意欲作、「Dの食卓」が誕生した。


通常、完成したゲームソフトは流通関係者にお披露目される際、試遊台という形で展示される。実際にゲームを遊んで貰い、その出来映えを実感してもらって注文につなげる。もちろんプロモーションビデオという形で見せることもある。

Dの食卓のプロモーションは奇抜にすぎた。なんと開発者自身がプレイしている動画を、スクリーンに投影してそれを関係者が座席に座って2時間にわたって鑑賞するというものだったからだ。まさしくそれは、「試写会」に他ならなかった。しかもただのリアルタイムプレイ動画ではなかった。セーブもロードもなく、一時停止もできず、画面の上下を切ってシネスコサイズにしたて、導入するムービーはアングルからカメラワークまで映画そのものだった。2時間後、あまりの衝撃に呆然とする関係者たちの前のスクリーンにはエンドロールが流れ、最後には「ご鑑賞いただきありがとうございました」というメッセージが現れた。

現在の視点からみると「まあこういう作品あるよね」といった印象を受けるが、当時の関係者への衝撃は大きかった。今まで出ていたCD-ROMを扱った作品に、ここまで徹底的にハイレベルな映画的要素をつぎ込んだものは、わずかな例外を除いて存在しなかったからである。

ゲームライターの片山隆氏は当時の衝撃をこのように評価している。

とはいえ実際は静止画のCGや奥行きにかける実写映像でお茶を濁したものが多く、ゲームとしても映画としても中途半端な作品が大半だった。その中で、『Dの食卓』の制作スタッフがこだわった「映画の完成度の追求」は、作品を従来のレベルから軽く越えたものにしてしまった。

ゲーム批評 Vol.4 p109
 

3DOが当初から推していた「インタラクティブムービー」が、ようやくこの世に誕生したと言える。この一作で飯野賢治の名は一気に広まり、そして3DOもようやく現れた独占キラーソフトによって注目を浴びることに成功した。


そしてもう一人は、現在でもその名を轟かせる小島秀夫監督である。


当時コナミ所属の小島監督のデビュー作、「メタルギア」は元々、先にも記述したパソコン規格、MSX用のゲームだった。発売日は1987年。この翌年には映画的手法を活かしたサイバーパンクアドベンチャー「スナッチャー」をPC88やMSX向けに発売し、評価を得ている。

このスナッチャーはあまりに大作すぎる故の容量不足と、開発期間があまりに長すぎたことがあり、当初の構想の半分で発売を余儀なくされた。いわゆる未完成状態だったのだ。
エンディングではひとまずの区切りをつけるものの、謎は残り、「奴らとの戦いは今はじまったばかりだ……」な打ち切り少年漫画的演出で幕を閉じる。小島監督はこの後、PCエンジンのソフト開発を手がけることになる。このときのPCエンジンは世界初のCD-ROM採用のゲーム機である。小島監督は容量に悩まされることなく、ストーリーが完成したスナッチャーを移植することに成功した。それが「スナッチャー CD-Romantic」である。

小島監督はCD-ROMの大容量と非常に相性が良いクリエイターだった。思う存分映画的手法を注ぎ込めた。CD音源を使った声優のナレーションが背景に流れるオープニングから始まり、最後は選択肢を全部飛ばしたノンストップの20分間。飯野賢治に先駆けて映画的手法をゲームに注ぎ込んだ映画監督レベルのゲームデザイナー。それが小島監督だったのである。

コナミは全方位にソフトを提供するソフトメーカーだった。そのためMSXにも他PCにも、ファミコンにもPCエンジンにもメガドライブにもソフトを提供していた(メタルギアも小島監督とは無関係の部署がファミコンに移植し、さらに海外人気がでたので続編もつくってしまった。おかげでメタルギアは正史であるMSX2版メタルギア2 ソリッドスネークと、それとは別のスピンオフ、Snake's Revengeが発売されている)。そのMSXの繋がりで、コナミと松下は関係が深かった。3DOの話を松下がコナミに持ってきた。コナミとしては「まぁ損はないか」くらいの判断で、3DO社と契約する。松下がサポートするというのだから大丈夫だろうと踏んでいた。

小島監督が手がけたのはスナッチャーの流れを汲むSFアドベンチャー「ポリスノーツ」である。

https://www.youtube.com/watch?v=ZiW7bevXY14

(上記CMはサターン版のもの)



元々PC9821専用のパソコンゲームであったが、これをコンシューマに移植する先として3DOが選ばれた。松下がサポートしてくれるなら、開発費を抑えられ黒字になる見込みはあった。小島監督は高クオリティを維持したまま3DOへ移植することに成功する。

そして、このポリスノーツと並行して、3DOへの新規タイトルが動き出した。

アラスカにある孤島、「シャドーモセス島」にある核施設がテロリストに占拠された。テロリストは自分たちの要求が呑まれなければ、世界中に核を発射すると脅迫する。テロリストの狙いを阻止すべく、伝説の傭兵が単独潜入任務に赴いた。その男の名は――

そう、このゲームのタイトルは「メタルギア3(仮称)」。あのメタルギアの続編が、3DOに計画されていたのだった。

当時のメタルギア人気は現在ほどメジャーなものではない。しかし熱狂的なファンは当時からいて、NES版メタルギアはミリオンヒットとなっていた。その後のスナッチャー、ポリスノーツと重なり、「小島秀夫監督作品」としての知名度を高めていたのである。

そのメタルギアシリーズの新作が3DOで登場する――コアゲーマーならば見逃せない情報だった。3DOの売上を加速させるキラーソフトとなるはずであった。



しかし、悲劇がコナミを、3DOを、そして日本を襲った。



1995年、1月17日。午前5時46分。阪神・淡路大震災。歴史的地震が西日本を襲った。

このとき、メタルギアを制作中であった開発チームであるデジタルノーツ、通称小島組の拠点は神戸にあった。まさしく震源地のすぐそば。このときのダメージは大きかった。移植作業中心のポリスノーツとは違い、新作であるメタルギアの開発は完全に停止に追いやられた。

神戸の事務所、コナミ神戸ビル(これをモチーフにした建物はツインビーやスナッチャーといった作品にちらちら登場している)は長期間の閉鎖を余儀なくされた。

1995年、開発拠点を大阪に移し、なんとかポリスノーツ、Dの食卓は発売された。しかしメタルギア3は95年内の開発再開は不可能であった。

そして不幸はまだ続く。3DOはオープンプラットフォームであり、来る者は拒まない方針を取っていた。それはつまり同時に「去る者を追わない」方針と表裏一体である。Dの食卓、ポリスノーツは3DOで高評価を得ることに成功した。その余波を受け、プレイステーションやセガサターンにも順次遅れて移植されていったのである。3DOに舞い降りた二人の天才は、さっさと次のステージめがけて羽ばたいていってしまった。

人はゲームを目当てにハードを購入する。やってみたいと思うゲームが発売されているハードを初めて購入予定リストに載せる。そのゲームの数が多ければ多いほど、予定リストの上位へと登っていく。
3DOにポリスノーツとDの食卓、というソフトがあるのなら、なるほど、3DOを購入しようという意図がかき立てられるだろう。だがプレイステーションとセガサターンにも同じソフトが発売されるというのなら? なら数ヶ月待って、そっちのほうを買う方が得だ。なぜなら3DOには他に欲しいソフトがないのだから……。3DOのハード売上が特段に伸びた、ということはなかった。

そしてアメリカでついにあの事件がおきた。テレビゲーム世界最大の見本市、E3。記念碑となる1995年の第一回目。そこでプレイステーションとセガサターンの価格が発表された。サターンは399ドル。プレイステーションは299ドルだった。この時点でもう、3DOの命運が絶たれたも同然だった。マルチメディア機でも、ゲーム機でも、どの方向にも高い壁が立ち塞がっていた。この状況についに三洋が屈服した。3DO事業から撤退を行ったのである。


3DO社は崖っぷちに立たされていることを認識していた。既存の3DO規格では話にならない。プレイステーションやサターンと比較して、価格が高く、性能も低い。さらにいえばサターン陣営で日立がハイサターンなるビデオCD規格対応機種も互換機として発売していた。マルチメディア需要ももはや3DOの独擅場ではなかった。

3DO社は新たな規格策定に進むしかなかった。狙うはゲーム市場。64bitCPUを採用した「3DO M2」への開発に邁進した。時間はかかるだろうがこれが完成のあかつきには、既存の3DO端末にはアップグレード機器があたえられ、新規では最初から高性能なゲーミング能力を与えられた新型機が投入することができるはずだ。

だが、3DOにはその時間が、なかった。

1995年、アメリカと比較してまだまともだった日本市場がどんどんと崩壊していった。プレイステーション、サターンと言ったライバル機が強力な価格競争をしあっていて、それに3DOはついていけなかったからである。


このときの状況を小島監督はこう振り返る。

発売ソフトのラインナップもライバル陣営は日々拡充していく一方で、3DO側はどんどん空きができていき、発売日未定のソフトが消えていった。メタルギア3も「もはや市場がない」という理由でキャンセルになった。1996年正月明けにはプレイステーションにFF7が発売されるというCMがTVを覆った。プレイステーションvsサターンvsニンテンドウ64。その戦いのなかに3DOの姿はなかった。


この状況についに松下が見切りをつけた。3DO社からM2の権利をすべて買い取ったのである。これにより3DO M2からPanasonic M2へと改名がなされた。正真正銘、松下が世界の3DOのプラットフォーマーとなったのであり、松下は3DO社のわずらわしい指導を聞く必要がなくなった。そしてオープンプラットフォームとしての3DOはこのとき終わった。

1996年、ニンテンドウ64が発売の頃にはもはや3DOの発売予定に、ラインナップはなかった。3DO社は敗北宣言を出した。ハード部門を切り離し金星に売却した。3DOの理念が夢物語であるという宣誓書にサインをしたのである。

松下はそれでもM2を宣伝し続けていた。ニンテンドウ64の十倍の性能、今までにないゲーミングマシン。再びソフト会社らをめぐり、M2向けのソフト開発を誘致した。飯野賢治にも開発を依頼し、ロンチソフトとして「Dの食卓2」が予定された。

しかし、ソフトメーカーは松下と3DOにうんざりしていた。最盛期を迎えるプレイステーションを差し置き、勝てる見込みがないM2に注力する必要性を、どこにも感じなかったのである。ソフトラインナップは揃わず、松下はM2を発売するための最小限必要な要素すら構成させることができなかった。

飯野賢治が例外だった。今までの付き合いもあるため、Dの食卓2をM2にて作り続けていたが、あまりにM2の仕様変更が重り、そのたびに作り直しとなって開発は遅々として進まなかった。

1997年、松下の森下社長も敗北宣言を出した。M2の発売は正式に中止となった。「市場開拓の余地なし」。一応ニュースとなったが、それはプレイステーションの輝きに目を向ける消費者たちからはあまり注目されることはなかった。それに3DOが死んでいるのは誰の目にも明らかだったからだ。ひっそりと3DOの歴史に終止符が打たれたのだった。



それぞれの顛末



3DOに関わったものたちは、それぞれが別々の歴史を歩んでいった。

松下電器

松下はその後、プラットフォーマーとなる道を諦める。M2はコナミがそれを採用したアーケードゲーム用基板を少数作ったにとどまった。
そして任天堂にアプローチをかけ、DVD技術を活用した松下独自光ディスクをゲームキューブで採用させることに成功する。「Q」というDVDドライブを搭載したゲームキューブ互換機も発売した。
松下の作るショウルーム「パナソニックセンター」内に、任天堂製のゲームが常設展示されているニンテンドーゲームフロントを設立し、この二社間の距離がずいぶんと近しいことをアピールした。

https://ascii.jp/elem/000/000/332/332423/

この任天堂との付き合いは長くなり、そのままWii・WiiUでも松下製のドライブが使われた。

その一方、半導体技術の進化に松下はついていけなかった。
世界の半導体工場を自負していた松下だったが、台湾、韓国勢が一気に駆け上がり、半導体の製造技術で松下は後塵を排することになった。半導体関連売上は低迷し続けた。

2010年、独自携帯ゲーム機である「The Jungle」を発表するが、翌年には開発中止を宣言。松下とゲーム機が縁遠いものであると再認識させる結果となった。

2018年、松下は任天堂と長年共同で開発に打ち込んできたQOL事業から撤退。次第にこの二社間の距離が遠くなっていることを表していた。

2019年、自社の半導体部門を台湾企業に売却。かつての世界の半導体のトップリーダーから、半導体部門が消滅したのであった。

2020年には、長らく任天堂の常設展示場として機能していたニンテンドーゲームフロントが閉鎖された。任天堂と松下を繋ぐものが、また一つ消えていった。

小玉章文

小玉章文は3DOの失敗を糧とし、その後も外資の日本法人立ち上げに参加することに尽力する。メタフォリックやグレースノート、エクスピードネットワークス、マクシスといった外資企業の日本法人代表取締役として活躍した。2012年にはdts Japanの社長に就任した。dtsはプレイステーションも、Xboxも対応しているヘビーゲーマーおなじみの規格である。こんなところで小玉は未だに、ゲームに関わり続けている。

彼の人生には失敗が一度は刻まれたが、それを恥じるような真似はしなかった。

小玉章文  約20年にわたって、ソフトウェアセキュリティ企業やデジタルメディアのコンテンツプロバイダーなど、様々な外資系企業の日本法人の立ち上げに携わってきました。メタフォリック(株)、グレースノート(株)、エクスピードネットワークス(株)、マクシス(株)、3DOジャパン(株)といった各企業の代表取締役を歴任し、本年5月1日よりdts Japanの代表取締役社長に就任いたしました。

彼は堂々と、自分の口で3DOの名前を出している。その顔には微笑が浮かんでいた。


トリップ・ホーキンス

トリップ・ホーキンスは1996年末、ニュースウィークの取材を受けている。3DOから撤退を決め、ハード部門を売り飛ばした後の話しだ。ホーキンスもまた、3DOを恥じてはいなかった。

最初の製品で失敗した企業にしては、うまくやっているだろう。われわれは立派に生き残ったんだ。

NEWSWEEK 1996.12.11号

その後、ホーキンスは3DO社をパブリッシャーとしてリスタートさせる。Might and MagicやArmy Menの発売元となる一方で、目をつけたのはインターネットだった。「Meridian59」というマルチプレイヤーゲームを発表し、そこそこの反響を得た(なんとこのゲーム、現在Steamで購入可能だ)。ところがウルティマオンラインやEverQuestといったMMORPGが登場するにつれ、次第に影は薄れていく。2000年にはサービスが終了した。2002年には株価は一ドルを切っていた。2003年、3DO社は倒産した(一応これもニュースになった)。ホーキンスもめっきり表舞台に立たなくなっていた。

2005年、ホーキンスが久しぶりに顔を出した。Xbox関連のファンサイトが、彼にインタビューをしたのだ。その中で彼は任天堂の今後について聞かれ、こう返した。

「5年以内に任天堂はマイクロソフトに買収されているだろう」

ホーキンスはその後、携帯電話向けのゲームを作るDigital Chocolate社のCEOとなった。iPhone向けにもゲームを提供し、それがストアランキングに載るようなこともあった。しかし2012年にはそこも退任。2016年から2019年まではカルフォルニア大学で講師をやっていた。

ホーキンスは手のひらを返したマスコミが叫んだように詐欺師だったのだろうか? おそらくは違うだろう。どちらかといえば、キャンバスに砂糖を塗り込めば甘い未来図を描けると思いついたタイプに分類されるに違いない。詐欺師は自らの金を使って会社に補填したりはしないものだ。

彼はソフトをプロデュースすることについては天才的だった。EAの設立はゲーム史に残る偉業であり、まさしくレジェンドと呼ばれるに相応しい功績を有している。インターネットに目をつけたのも早かった。そこからMMORPGを出したことは評価されて良いかも知れない。

しかし彼はハードビジネスの領域では素人同然だった。それは致し方ないことなのかもしれない。どんな有能な人間でもあらゆる事象に精通しているわけがないし、どんな状況でも最適解を引き続ける天才もいるわけがないのだから。そういった天才だと思い込んでしまった、というのなら、むしろ松下他企業側に責任があるだろう。


3DOが残したもの



80年代、多種多様なハードがコンシューマに現れ、任天堂によって駆逐されていった。その後セガが耐え忍び一時はアメリカで逆転することにも成功するが、その原動力はキラーソフトだった。キラーソフトなきハードは成功することができない。3DOはその教訓を90年代に再認識させてくれた。いくらマルチメディアの皮を被せても、消費者はキラーソフトなきハードを買ってはくれない。

3DO陣営の思惑は「キラーソフトもいずれ飽きられる」であった。だからこそその先でマルチメディアの需要が必要となり、3DOは加速すると睨んだ。その問題に任天堂やセガはどう対処したか? 彼らはキラーソフトが飽きられたら次のキラーソフトを突っ込んだ。バーチャファイターに、スーパーマリオ64。未だに遊ばれ続ける不朽の名作がこの時期誕生していた。ゲームに対する力量と熱量で、3DO陣営は圧倒されていたのではなかったか。失策に気がつき挽回した後も、その気力は、ゲームに対する意欲は、ライバルに匹敵するものだったと胸を張っていえるだろうか? 



ホーキンスも小玉も、松下も、3DOの売りは実写映像を活用したゲームだと思っていた。それこそがキラーソフト群になり、消費者は実写を使ったリアルなゲームこそ喜ぶものだと思い込んでいた。それは大きな間違いだった。
この時代に出された多くの実写ゲームは、そのクオリティによって多くの消費者に「実写は地雷だ」と思い込ませるほどだった(この余波を受け、という実写名作ゲームが不振に終わった)。この時代に消費者が選んだのは、実写画像をふんだんに盛り込んだ3DOのゴルフゲームではなく、簡単操作で奥深い「みんなのゴルフ」だった。
結局のところ、消費者は『映像だけキレイな、中身のない駄目ゲー』には厳しかったのである。


これらを再認識するために、どれほどの企業が金を出し、損失を計上したのか。それを計算しても詮無きことだ。甘い夢を見た代金として割り切るしかない。消費者を読み違えた代償としては、むしろ安い部類なのかもしれないが。



Special Thanks 

あおぞらにっき @aozora__nikki

参考Webサイト

参考文献

プレイステーション大ヒットの真実 山下敦史
キングオブゲームの未来戦 山名一郎
セガvsニンテンドウ 新市場で勝つのはどっちだ!? 国友隆一
ゲーム批評 Vol4 
新世代ゲームビジネス 
売られた喧嘩、買ってます 武田亨

資料映像

https://www.youtube.com/watch?v=46S6Ulzchbo


あとがき

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