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3DO -誕生から崩壊へ至るまでのクロニクル- 前編


はじめに 


――3DO 

この言葉に反応できる者はオッサンゲーマーだろう。20代以下の若者は一度も聞いたことがないかもしれない。しかし、反応できるオッサンゲーマーでも正確に3DOがなんなのか、把握している者はさほど多くはないのではないか? 

「ゲームに関わったことがない松下が、適当に出して大失敗したゲームハードだろ?」

くらいの理解でいる方が多いのではないだろうか。実はこの理解はいろいろと事実誤認を含んでいる。

実はこのハードを作るにあたって、多数のゲーマーと、ゲームとゲーム業界に詳しい人らが幾人も深く深く関わっている。そもそもの規格提唱者はゲーム業界に大きな影響を及ぼしたレジェンドなのである。そして松下自身もゲーム業界に以前から深く関わっていて、さらにいうならば3DOはゲームハードではない

この奇妙奇天烈なハードについて解説を行うにあたり少しばかり時間を頂きたい。このハードが生まれ、そして敗北していくまでには、あまりに入り組んだ背後事情があった。それを一つずつ読み解き、広げていこう。


トリップ・ホーキンス


まず、全ての発端であるトリップ・ホーキンスなる人物から解説を始めよう。
彼はアメリカ生まれのゲーム好きな少年で、ハーバード大学に入学した。このとき1971年。当然まだコンピューターゲームが一般化していないので、このゲームというのはコンピュータを使わない、いわゆる卓上ゲームの類いである。卒業するときにはゲーム理論を応用した第三次世界大戦のシミュレートをまとめた卒論を提出し、見事修士号を獲得した。さらにその後、スタンフォード大学に入学し、今度はビジネスの博士号も取得した。成績は優秀だった。

そして彼はスカウトを受けた。スティーブ・ジョブズからである。彼はAppleに入社することとなった。1976年のことである。従業員番号は69番で、Apple史上初となる経営学修士者であった。優遇され、Appleの株の0.5%を譲り受けた。
そこで彼はAppleⅡを売りまくった。オフィス向けのコンピュータであるLISAの開発も手がけた。さらに戦略シミュレーションゲームの開発も手がけた。ハード・ソフト両面の開発を手がけ、Appleは順調に売上を伸ばす一方で、ホーキンス自身もその能力を伸ばしていった。

1982年1月1日、彼が29歳のとき、Appleを退社し独立をはたした。それは以前から決めていたことだった。

「1982年だ。1982年には技術が多くの家庭に浸透する。そこで多くの需要が見込むことができる。一家に一台コンピュータが置かれる未来はそこから始まるのだ」

独立にあたっての資金源は譲り受けたAppleの株だった。1980年の時点で0.5%のApple株は750万ドルの価値にまで上り詰めていたので、何かする金としては十分だった。そこで彼はパソコンゲームの販売会社を設立する。名はアメージング・ソフトウェア。

ところがこの名は不評で、一年で改名を余儀なくされた。改名後の名前はエレクトロニック・アーツ(以下EA)。

そう、彼は現在のEAの創設者だったのだ。

EAは当時のパソコンゲームメーカーにはなかったやり方をどんどん採用していった。当時のプログラマーの地位は低く、アルバイトと同格の扱いもおかしくなかった。
しかしホーキンスは彼らの名前をパッケージに大きく刻んだ。彼らをアーティストと呼んで厚遇した。さらに彼らのためにツアーを組んだり彼らの名前を宣伝に活用したりもした。
金は出す。出すが口はださない。いわゆるハリウッドスタイルだった。

こうした親身な態度にプログラマーたちは好意を寄せた。EAは販売会社として一気に覚醒し、大きくなっていき、あっという間にパソコンゲーム販売会社世界一になっていく。最初は販売だけの会社であったが、じきに自前のゲームスタジオを用意するようになった。EAはパソコンゲームメーカーとしても世界一となった。

EAの特徴としてはとにかくソフトの本数が多いことがあげられる。これはホーキンスが意図的にしていたことで、とにかくソフトのラインナップを重視し、一本の大当たりソフトに頼らない経営基盤を目指していた。

そしてEAはとにかくPRが上手かった。プロスポーツ選手にライセンスを貰い、それを広告に織り込んでいく。

ただ「フットボールゲームの新作を作りました!」と言っても、小売店は渋る。しかし「ジョン・マッデン(後に殿堂入りまで果たしたフットボールの名監督)・フットボールを発売します!」と売り出せば小売店は何本仕入れられるかを聞いてくる。ライセンス料金は各選手でまちまちであったため、EAは試行錯誤しながらプロスポーツ選手らに声をかけまくった。

そんなEAであったが、1990年に至る前、ゲーム業界は変貌を遂げていた。アメリカでは1980年代中頃のアタリショックが響き、コンシューマ市場が冷え込んで、かわりにパソコンゲーム市場が興隆しはじめていた。しかし任天堂がNESを持ってきて、再度コンシューマ市場を活性化しようとしていた。そしてそれは成功した。パソコンゲーム市場が確実に広がっていく一方で、コンシューマ市場は爆発的な広がりを見せていた。

NESがまさしく一家に一台入り込もうとしている横で、パソコンはその普及軌道に乗りきれなかった。その上、規格が乱立し、多種多様なパソコンが各社から発売された。Commodore64、Amiga1000、AppleⅡ、Macintosh、Amstrad CPC、ZX Spectrum 、IBM PCなどなど。それらはメーカーが違うと互換性が存在しなかった(同じメーカーでも世代によっては互換性がなかった)。そのためEAは各パソコンにゲームを対応するため尽力を注いだ。開発室には最大200種のパソコンが置かれ、それらを回してデバッグしていたという。

コンシューマではこのような手間は不要だった。NESはあくまで一機種であり、動作確認を行えば1000万台を超えるNESが市場として狙うことができた。Commodore64は確かに1000万台以上普及しているホビーパソコンではあったが、陳腐化が進んでいたのが問題で、新しくゲームソフトを買おうとする層は他の機種に移行しつつあった。NESは熱狂的にソフトを買おうとする消費者に恵まれていた。

パソコンは普及を着実に進めていたが、その方向性はホーキンスの考えたものとは若干ずれていた。エンターテイメントでパソコンを購入する層は決して多くなく、若年層はパソコンをむしろ忌避した。なにせ学校でパソコン学習を行っているのだ。家に帰ってきてまでパソコンに触れたくなんてない。何ならいいのか? 答えは決まっている。Nintendo! EAの業績の伸びは次第に伸び悩み、そして悪化し始めた。苦肉の策として海外進出を行った。日本とイギリスに販売拠点をおき、オーストラリアとフランスでは会社買収を行った。が、すぐにフランスと日本の子会社を手放す羽目になった。オーストラリアとイギリスでも失敗し、リストラを行った。

創業6年目、EAの歴史についに赤字が刻まれた。取締役会がホーキンスに解任の脅しをかけるに至った。EA内で再建の議論が湧き上がり、長い長い討論が行われたが、結論は一つしかないことを皆がわかりきっていた。コンシューマへの進出である。すなわち、NESへの参入だ。ホーキンスは今までの方針を改め、従業員をNES開発に向かわせねばならなかった。

NESに参入するにあたって、事前に任天堂に支払うROMの代金を用意せねばならなかった。EAにそこまでの資金面の余裕はなかったため、株式公開を行い市場から資金を調達した。最初の出費は400万ドル。これはEA内の全パソコンソフト(フロッピーディスク)の完成品在庫の合計金額に相当する。相当なリスクであった。

The ImmortalというゲームがEAの初NES発売作品として選ばれた。移植作業を完成させたそれを任天堂に送りつけたが、ホーキンスをうんざりさせる要素がいくつもあった。
一つは発売制限。一年に5本、それを上限として発売できるゲームを制限させられた。もう一つは数量制限。ROMの生産数に限度があるため、各社希望する数字どおりには任天堂はつくってくれなかった。EAのような多種多様なソフトラインナップで広くカバーする企業にとって、発売制限はかなりの痛手だった。
そして最後の一つがクオリティチェックである。あろうことか、完成したゲームに対してあれこれと任天堂が口出ししてくるのである。
このときの任天堂は公平であった。つまりEAにも、EA他サードパーティにも、すべて皆公平に口出ししていたのである。

ホーキンスはEAが世界一素晴らしいコンピューターゲームを生み出す集団であると自負していたが、任天堂は全く意に介さずツッコミを入れた。BGMが少ないから増やして欲しい、高難易度のためライフを1つではなく3つ、4つに増やすべきではないのか、戦闘も簡素すぎるのでもっとビジュアル的に展開できないと、子どもたちに受けが悪いだろう……などなど。

EAはパソコン主体で今までゲームを作ってきた。大して任天堂のメイン顧客は、といえば子どもたちだ。任天堂のチェックは子どもたち視点から見たものとなれば正確無比であり、The Immortalの開発スタッフらはその評価を正論と捉え、多数の修正を行った。任天堂は自社の利益もあったろうが、子どもたちに受け入れられない「クソゲー」を市場に流されては困るのだから、その姿勢は理解できないものでもなかったのである。

しかしその姿勢はホーキンスを落胆させるに十分すぎた。彼はパソコンを愛していたし、そこで自由にゲームを発売できることになれすぎていた。任天堂の方針と、ホーキンスのスタイルとはあまりにかけ離れていたのである。

そしてホーキンスは「もう一社」のほうに足を運ぶ。

1990年、NESの遥か向こう側でくすぶっている火だねが存在していた。GENESIS。セガが作り出した16bitハイパワーゲーム機である。発売から二年目に突入したこのハードは、アメリカで熱狂的セガファンの後押しを受けており100万台を売り上げていた。対するNESはこのとき2000万台を越えている。勝負になってはいなかった。

ホーキンスが目をつけたのはここだ。NESの独占を打ち砕くための一手として、セガを選ぶ。GENESISが普及してくれれば任天堂だってあの態度を維持はできまい。そしてセガもEAを邪険に扱うことはできないだろう。

米国セガの経営トップ、カリンスキーとホーキンスは会談を行ったが、カリンスキーが任天堂を模した条件(発売制限に、数量制限に、バカ高いライセンス料)を提示したことにホーキンスは落胆した。なぜこうも、コンシューマの会社は支配したがるんだ。もっと自由にやらせてくれたっていいだろうに!

しかしホーキンスには切り札があった。EAの技術陣がGENESISの構造を解析することに成功していたのである。つまりやろうとおもえば、セガの協力なしで、ライセンス無視でゲームを開発することができた。それを知ったカリンスキーは訴訟も辞さない、とホーキンスに迫ったが、ホーキンスはそういう対応を予測していた。「訴訟費用として1000万ドル用意してあります。ご自由にどうぞ」と返すと、カリンスキーは対応を変えた。なるほど、セガとEA、両者の目的は一致できなくはない。EAはより自由なプラットフォームを。セガは任天堂に対抗するソフトラインナップが。

そこから交渉は続けられた。最終的にライセンス料は半分以下に引き下げられ、発売可能本数は16本に増やされた。

こうしたホーキンスの尽力は実を結んだ。株価は急騰し、EAのソフトは飛ぶように売れた。EAの決算は飛躍した。パソコンゲーム事業は前年比13%増の売上だったが、売上構成比では93%から66%まで落ち込んだ。つまり一気にコンシューマ部門が全体の1/3の売上をたたき出したのである。急騰する株価はそのまま伸びに伸び、4倍にまで値上がりするに至った。

そんな中、それでもホーキンスは一人この現状を快く思っていなかった。

「俺たちのゲーム開発って醜くないか? まるでデコボコで、石ころだらけの道だ……」

乱立するパソコン規格。1990年現在ではIBMが主流になりつつあるが、そのなかでもIntelや他の企業が規格を押し込もうとIBMとバトルを演じている。一方のコンシューマも自由とはかけ離れた息苦しさが満ちていた。任天堂はいうまでもないが、セガもパートナーとしてあまり有望ではないと考え始めた。優遇策はあくまでEAのみであり、GENESISが軌道に乗った後は任天堂と同じように他サードを圧迫し始めるに違いないと見た(そしてそれは完全に的中した。セガは第二の任天堂になりたがった)。

もっと自由を! ソフトウェア開発者こそ第一であるべきだ! ハードウェアメーカーの思惑に左右されない、そんな環境を作らねばならないのではないか!? 
EAで自前のハードを展開すべきだろうか? いや、そうではあるまい。それではただ、コンシューマ市場にもう一つ混乱の種が増えるだけだ。もっと別のアプローチがあるはずだ。EAの中にいては、それは難しい……。

1990年末、ホーキンスはEAの社長職を辞し、会長職となった。直接的な経営を他者に委ねたのである。

そして1991年、ホーキンスは動く。


小玉章文


舞台を日本に移そう。まずの主人公は彼、小玉章文である。
1956年生まれの彼はミサワホームに入社した。そこで順調に出世していく。

「ミサワホームの社員がゲームといったい何の関係があるんだ?」

と思われるかも知れない。しかしミサワホームは1986年、情報出版を主とした――ようするにゲームソフトの販売である――子会社を設立する。それがイマジニアである。小玉はイマジニアに出向し、そこで手腕を振るう。海外で展開しているゲームソフトを日本に持ってきて売りさばく。その中にはあのシムシティも入っていた。小玉の実力は折り紙付きであり、欧米では「日本ではイマジニア流通に任せれば売れてくれる」という信頼感すら獲得することに成功していた。そして当然、EAのソフトも小玉が取り扱うことも多かった。人気ゲームポピュラスをまずローカライズして日本に持ってきたのはイマジニアであり、そのプロデューサーは小玉であった。
ホーキンスとはこの頃面識ができ、小玉とホーキンスは親友といっていい関係にまで親しくなった。「将来、何か一緒にやろうか」と語り合うまでに至っていたのである。

そんな小玉だが、ゲームに触れ、それを売っていく中で次第に疑問を持つようになった。スーパーファミコンやメガドライブ、PCエンジンといったゲームハードがこの時代の主流であったが、これらは当時のパソコンと比較してずば抜けた高性能を持っているわけではなかった。ならば、自前でゲームハードを作り、それを売ることは不可能ではないのでは?
この時代ナムコが自社ハードを作る、という噂は絶えなかった(事実ナムコ内で自社ハード計画は存在していた)し、SNKもNEOGEOを展開していた。イマジニアも可能ではないのか。そう思った小玉はハード分野での開発者探しを始める。

小玉が目をつけたエンジニアが二人いた。R・J・ミカルと、デイブ・ニードルである。彼らはAmiga1000と、Atari Lynxの設計者であった。これらは決して爆発的な成功を勝ち得た……というわけではないが、Amigaはパソコン用のディスプレイのみならず、TVにも出力可能なNTSC信号機能を有していた。家庭用ゲーム機をつくるにあたって、その機能を扱った経験は必須だった。その開発実績がある彼らならば、より進化したゲームハードを作ることが可能なはずだった。

ところが実際に彼らにアポイントを取ってみて話を聞いてみようとすると、なんとも歯切れの悪い回答ではぐらかされてしまう。怪訝におもった小玉が調べてみると、彼らにはどうやら先客がいるようだった。

致し方ない。今回は引き下がろう。そう考えた小玉に声をかけてきた人物がいた。そう、トリップ・ホーキンスである。R.J・ミカルとデイブ・ニードルに声をかけていた先客はホーキンスだったのだ。驚いた小玉がホーキンスから話を聞く。彼の構想はこうであった。

「ハードメーカーがプラットフォーマーになるのではなく、ハード、ソフト、プラットフォーマーをそれぞれ分割する。プラットフォーマーは技術的標準を作り、それをもってハードを正しい方向へ導く。ハードを作る会社に制約は加えず複数の会社がハードを作れるようにする。ソフト会社にも少額のライセンス料を徴収するだけで中身に口出しはしない。あくまで自由で、オープンなプラットフォームだ」

小玉は感銘を受ける。ホーキンスが目指したのはパソコンではなく、コンシューマでもなく、第三の道だった。これを適切に進んでいけば、パソコンほど操作が難しくなく、コンシューマほど制約が厳しくない、素晴らしいプラットフォームが誕生するはずだ。小玉とホーキンスは語り合った。そこで披露されるホーキンスの夢に、小玉は夢中になった

名称が決まった。3DO。ホーキンスはEA社を辞め3DO社を立ち上げた。そして日本にその支社、3DOジャパンを設立する。その社長は小玉だった。


松下電器


松下電器(以下松下。現在パナソニックホールディングス)は日本を代表する電器メーカーの一つである。洗濯機、冷蔵庫といった白物家電から照明、配線も手がけ、今ではリチウムイオン電池が有名である。

そんな松下は1990年頃はソニーのライバルとして有名であった(多分今はそうでもないと思う……)。ソニーが先進的な機能を有した新商品を売り出せば、松下は欠点を改良した製品で追撃する。そんな関係だった。

松下がライバルのソニーに対して優位性を持っていた分野が一つあった。半導体部門である。
DRAM(半導体メモリの一種)生産や開発において、松下は世界的トップクラスの企業であったのだ。パソコン・ワープロに対してDRAMを供給する大手の立場であり、半導体の売上は世界TOP10入りするほどであった。
1991年2月、当時の新型、大容量64MbitのDRAMを開発したと発表したのは、東芝、三菱電機、富士通、そして松下電器産業だった。

ところが、である。ゲーム・エンタテインメント関連を半導体だけではなく全体で見てみると松下は優位な立場にいるとはいえなかった。
もともと松下もソニーも、アスキーが提唱したMSXというパソコン規格に参加している。1983年から発売し展開しだしたこの規格のパソコンは、主にゲームニーズに応えた代物となったが、日本においてもファミコンが市場を征服しはじめた。MSXはどんどんとファミコンの攻勢に押されていき、生き残りをかけるために様々な新機能を追加していった。だが、どんどんと参加ハードメーカーは撤退を決めていき、ソニーも撤退し、任天堂陣営へと移った(スーパーファミコンにはソニー製の音源チップが搭載されているし、拡張用CD-ROMだって発売予定だ)。唯一残ったのが松下である。1990年、MSXの最終バージョンである、MSXturboRを発売したのは松下のみであった。そしてそのMSXturboRも、セールス的には好調とはいえなかった。

松下と任天堂はこの時点で数倍の企業規模の差があった。売上も松下のほうが上だった。ところが1991年の決算においては、社員一人当たりの利益・売上額が松下よりも任天堂のほうがはるかに上で、純利益額では肉薄されていた(94年には逆転された)のである。ゲーム・エンタテイメントがどれほど儲かるか、松下は見せつけられたのだった。

テレビやVHSビデオデッキは概ね飽和状態になり、出荷台数は減少しつつあった。家電業界は次なる目玉商品の模索を始めていた。

松下のところに3DOの話が来たのは、そんな状況だった。「全く新しいマルチメディアマシン」。松下は目の色を変えた。

ホーキンスと小玉が松下と話し合い、その理念について詳しく解説をした。その理念とは以下のようなものだった。

「ただのゲーム機では終わらせない。これは一段高い地位に居座ることができるインタラクティブマルチプレイヤーである」
「家庭用マルチメディア機器として、ゲーム、娯楽市場、教育/学習などの、あらゆるマルテメディアを取り込み、その需要に応え、需要を喚起する」
「ソフトウェア会社は無料で3DO社と契約できる。ソフトを作る場合の本数制限はなく、CD-ROM一枚に3ドルのロイヤリティを払えばよい。開発ツールはマッキントッシュを利用する廉価なものを用意する。CD-ROMをプレスする工場も指定はなく、直接交渉する」
「自由なプラットフォームを守るため3DO社自身はソフト開発を行わない」
「同じくハードウェア会社も無料で3DO社と契約できる。ハードに必要な設計のライセンスは別途必要だが、3DO社がバックアップを行う」

従来のコンシューマ・ビジネスは任天堂やセガが価格を抑えたハードを売り、それを自社ゲームや、他社のロイヤリティを得ることで補填するビジネスモデルだった。開発ツールは高価(スーパーファミコンの初期開発ツールは一台あたり1000万円を超えていた)であり、その内容は厳しく審査され、ロイヤリティは高額で、しかも完全前払いだった。
3DOではあえてそれをせず、ソフトウェアのロイヤリティを引き下げ自由なソフトを作って貰い儲けを出す。ハードウェアの会社もそれ独自で儲けを得て貰う。
パソコンのように自由なプラットフォームだが、パソコンほど操作はややこしくなく、規格もすっきりしている。

つまり3DOは特定のハードを呼ぶ呼称ではなく、「3DO社が策定した規格の名前」であり、今後ハードの進化にあわせてより上のバージョンも用意される予定である。

しかもゲームに限定しない。あらゆるものに多方向に対応する。媒体はCD-ROMの大容量で、採用しているプロセッサも32bitの高性能品(なんとNintendoSwitchにも採用されているARM社のCPUだ。低価格、低コスト、低消費電力が売りで、性能も悪くない)だ。子どもの学習用教材の再生プレイヤーとして活用できるし、地図も入る。カタログにだって利用できるし、デパートにおいてテレビに映し購買客に見せることも可能だ。

松下が目を輝かせたのはビデオCD機能だ。CD-ROMに映画を入れ、それを3DO側で再生することができた。これは当時のVHSビデオと同等の画質に迫った。これを消費者にアピールすれば、「VHSの次」としてきっと家庭に入り込むに違いない。当時レンタルビデオ屋が大ブームとなってあちこちにできあがっていたが、きっと後年には「レンタルビデオCD屋」となり、次第にその割合を増やしていくことだろう。さらには3DO専用ビデオを提供できれば、選択肢のあるインタラクティブ映画を提供することができる。きっとそれは消費者が飛びつくはずだ! 

1993年5月、3DO社が上場し、株式が公開されると順調に株価は伸びていった。松下も3DO社に出資していた。他にも古巣のEAが、タイムワーナーが、MCAが、AT&T(通信関連の世界的企業)が3DO社に出資を行った。堂々たる布陣である。対抗する任天堂やセガとは比較にならないほど巨大である。ワーナーやMCAがその豊富なライブラリを活用し、3DOに映画を提供し、AT&Tがその技術を使ってモデムやセットトップボックスユニットを作れば、通信で映画を提供することだってできるはずだ。

万全の体制、といっていい状態だった。松下はMSXの開発チームを解散させ、それを3DOの開発にあてがった。自社の半導体工場も3DO用に作り替えていった。世界企業の実力を、京都の花札屋とライバルソニーに見せつける時がきた。

いざいかん、未来のマルチメディアへ。松下は暖かな寝床で煌びやかな明日を夢見つつ眠りにつくことができた。

甘美な夢の時間はさほど長くはなかった。冷たく厳しい雨を伴った現実が、すぐそばに迫っていた。その寝床に天井がなかったことに松下が気がつくのは、もう少し先の話である。

-続く-

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