3DO -誕生から崩壊へ至るまでのクロニクル- 中編
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3DO REALの誕生
話が前後するが、1993年1月、北米最大の見本市コンシューマ・エレクトロニック・ショーにて松下が提供する世界初の3DO規格プレイヤー、「3DO REAL」がお披露目された。そのデモで示された性能は当時のライバル、SNESとGENESISを凌駕し、GENESISのアップグレード機器SEGA CDをも上回っていた。
ただしこの段階ではあくまでAT&Tのモデムやセットトップボックスユニットというのは構想の一つ程度のものでしかなく、具体的なプランは上がってきていない。それにワーナーやMCAが期待していたビデオCDへの標準対応も見送られた。3DOの性能は高いものではあったが、そのビデオチップが肝心要のビデオCDのコーデックMpeg1に非対応だった。これはおそらくMpeg1にまで対応してしまうと、ただでさえ高性能で高コストな3DO本体が、さらに高くならざるを得ない事情があったためと思われる。そのためビデオCDアダプターというものを別途オプションとして用意し、3DO REAL単品はビデオCDに非対応という措置が取られた。
このコンシューマ・エレクトロニック・ショーにて松下は多くのソフトメーカーに参入を呼びかけた。そして日本でも同様にソフトメーカーへの呼びかけを行った。1993年7月、ホテルオークラにソフトメーカーを招待し、約300名を集めることに成功した。この説明会には当時の森下社長も参加し、挨拶をして「3DO・松下連合軍」への参加を要請したのだった。
松下はMSX時代から各ソフトメーカーに「是非MSXにゲームを出して欲しい」とお願いしていたつてがあった。そして実際に開発支援を行っていて、松下とゲームは遠い関係ではなかったのだ。
しかしこの説明会は、むしろソフトメーカーの期待を裏切ったものだった。実際の説明は以下のようなものだった。
「3DO REALは94年3月発売。79800円(北米は700ドル)」
「初回出荷予定は5万台。94年度内で70万台を目指す」
「発売から二ヶ月で26タイトルを予定。初年度で100タイトルを目指す」
「流通は松下販社で行い、全国の松下系電器店約2万店で行う」
「REAL専用の専門販社を設立し、ゲーム専門店や大手玩具店を開拓する」
「ソフトの生産代金は800円。これにはロイヤリティやプレス、ケースの代金が全て含まれている(3DO特有のプレス工場への直接交渉はなく、松下の協力工場が生産する)」
ソフトメーカーは頭を抱えた。松下はもしや、まだゲームビジネスを理解していないのではないか? と思ったのだ。いくらなんでも本体価格が高すぎる。8万円手前はゲーム機としてはありえない価格設定だ。高い高いといわれていたSNKのNEOGEOですら5万円だ。それを遥かにオーバーする。一応NECが99800円で液晶と一体化した「PCエンジンLT」なるラップトップ機を出したことがあるが、これは見事に売れなかった(岩崎啓眞氏によると、そもそもLTはある種の技術デモ的製品で予定数売れたとの指摘あり)。そして3DO REALも売れないだろう。
この価格設定は松下単独ではなく、3DO社の意向ももちろん含まれてのものだった。ホーキンスはアナリストから「もっと価格を下げるべきだ」という忠告を受けていたが、これを断固として拒否していた。
「心配ない。偉大な技術には誰も金を惜しまないものだ」
彼は自信満々にアナリストに言い返した。松下は彼の方針を採用し、このような価格設定に挑んだのだった(8万円で売れる商品を5万円で売るなんて馬鹿馬鹿しい)。
そして月産5万台の生産も少なすぎた。フル稼働したところで年間60万台だ。これは日本においてスーパーファミコンに敗北したメガドライブの最高年間販売台数を下回るものだった(メガドライブは90年に年間70万台出荷に成功している)。メガドライブよりもさらにパイの少ない購買層向けに、高性能で開発費をかけたソフトを提供する……ソフトメーカーとしてはとても打てる博打ではなかった。
それに現在で決まっているソフトラインナップは、EAが中心となった「洋ゲー」と、パソコン向けソフトを手がけていたソフトハウスの移植作だった。当時人気の格ゲーIPは? ない。RPGは? ない。はたしてこれで、日本の消費者が食いついてくるだろうか?
しかしロイヤリティの安さだけは好印象だった。契約金はかからないのだから、とりあえず契約だけはしておこうか……。概ねのソフトメーカーの思惑はこの程度で終わった。契約社は500社を越えた。一社が一本だけ出した、という状況でもソフトラインナップは500本だ。これは驚異的といえる(スーパーファミコンの発売ソフト合計は発売後5年間でおよそ900本だからだ)。
松下側から見た事情はソフトメーカーとはいささかことなる。そもそも3DO REALはゲーム機ではない。どちらかといえば家電の部類に位置づけられた。だから別に8万円の小売価格はさほどおかしくなかった。月産5万台、初回出荷5万台も家電としてはごくごく普通の、当たり前の出荷台数だ。ここから大ヒットとなれば、月産10万台、20万台に拡充すればいい。
それにMSXで長年戦ってきた経験を織り込んだ。MSXに参入したときに29800円という低価格モデルで切り込んだが、そこから高性能化した最終モデルTurboRの小売価格は87800円だった。高性能なら高価格であって当然であるし、そもそも3DOのビジネスモデルはハード単体でも儲けられるようになっている。このあたりが落とし所、という価格設定であった。この頃のVHSビデオデッキの実勢価格は8-10万円ほどだった。ならば3DOの価格はむしろ安いくらいだ。消費者はきっとこれを受け入れてくれるはずだ。
この頃の松下の苦境はリストラという形で浮かんでいる。94年中に事業編成を行い、間接部門の人員6000人を削減した。この人数は当時の任天堂6つ分に相当する。新たな需要を切り開く3DOは、松下の救世主となるはずだった。
しかしソフトメーカーの反応の悪さは、松下の想定外だった。契約だけはするが、実際ソフト開発を行うとなると二の足を踏む企業がほとんどだった。500社が500タイトル用意してくれる、なんていうのは夢のまた夢であり、現状では50タイトルも揃いそうにない。北米ではEAが率先して切り込んでいってくれているが、日本のソフトメーカーの反応は冷え切っていた。それでもなんとか3DO普及のためになんとかしないといけない。
松下と、3DO社のゲームに対するスタンスは共通化している。
「ゲームをあまりに重視しすぎると、立ち上がりこそスムースに行くがすぐに飽きられるだろう」という見解だ。任天堂もセガも、キラータイトルを有しているが、それが飽きられたらゲーム機本体の売上も低迷する。3DOはそうあってはならない。
このあたり後年の視点から見ると「そもそもキラータイトルを有していない3DOの苦し紛れの路線では?」と勘ぐってしまうが、実際3DO側も本音としてこう思っていただろうと予想できる。ホーキンスの古巣、EAもそもそも特定一つのキラータイトルに売上を依存するスタイルではなく、幅ひろいソフトラインナップを用意することで大きくなってきた会社だ。「多種多様なソフトを幅広く展開することが3DOを勝利に繋げる」と確信していたのだろう。その多種多様なソフト、とはゲームに限らない。なにせ、3DOはマルチメディアマシンなのだから。
しかししばらくは、3DO REALはゲーム機としての需要がメインとなるだろう。マルチメディアマシンとして本領を発揮するのはもう少し先の未来の話かもしれない。
小玉はマスコミのインタビューに対してこう述べている。
3DOでアニメ会社が選択肢ありのインタラクティブゲームを作ろう、と思えば作れてしまう、というのだ。
実際にマスコミに対して試作中のソフトを試遊させることもあった。それは実写取り込みの画面を動かすジグソーパズルであったり、プロ野球選手の顔を組み合わせた野球ゲームであったり、Jリーグの選手の顔を取り込んだサッカーゲームであった。
3DOの売りは画質であった。3DOのビデオ機能、セルエンジン(面白いことに後年のPS3に似た名のCPUが搭載されている)は、1670万色で640*480解像度が扱え、静止画を自由に変形させ、重ねさせ、半透明化させることが出来た。これを活用すれば従来のゲーム機では到達し得ない実写とアニメを消費者に提供することが可能だった。
しかしアニメも、実写も、それを扱う機材を揃えることに費用がかかる。いくら開発ツールが安くても人件費はどうしようもない。ソフトメーカーが3DOに二の足を踏むのは仕方がない面があった。
なかなか良き反応が貰えない松下はついに一歩、境界線を越えた。
「3DOソフトを作ってくれたらウチの流通で、最低5000本買い取ります。だからお願いします。作って下さい」
それはハードと、ソフトと、プラットフォーマーを分離する3DOの理念を踏み越えていた。実質的に松下がプラットフォーマーになるという宣言なのだから。どのようなソフトでも松下は買い取るといっているが、出来によってその買取量は当然上下する。これではかつての任天堂の地位に、松下が滑り込んだだけではないか。3DO側は反発する。
当然松下も反論する。アメリカは良い。EA社が中心となってソフトラインナップが最初から確保されている。93年10月に日本に先駆けてアメリカで発売予定だが、その後の、94年3月以降の日本発売のラインナップが集まらないままだ。最初にコケてしまったがソフトメーカーは必ず二の足を踏む。そうしたら3DOの売上は二度と上向かないだろう。それを阻止するためにまずは松下が全ての責任を負わなければならないのだ。
松下と3DO社は話しあい、3DO側が妥協した。アメリカでは当初の予定どおり、ソフト、ハード、プラットフォーマーの三社が分離したままだが、日本では松下が主導権を握る。松下は3DOを売るため、今まで培った家電の力を注ぐことになった。
REAL・松下の流通
この頃のゲームの流通といえば任天堂関連の問屋団体「初心会」が有名であり、流通業者団体として名実共にNo1だった。彼らはメガドライブやPCエンジンのソフトも取扱い、町のゲーム屋やデパート、ディスカウントストアなどなど日本のあらゆる小売にゲームを届けていた。
そして小売に対して横暴な初心会らは、メーカーに対しても等しく横暴であった。メーカーはこの初心会の横暴に辟易していたが、それでもこの時点ではまだ有効な策を打てていなかった。
松下は3DO REALをゲーム機と見なしていなかった。そのためゲームを動かせる機械でありながらも、この3DO REALを初心会抜きで多くを流通させようと考えた。松下にはそれが可能だったからである。
松下は全国に28社の販売会社を有していた。そこから先に全国の松下系列の個人電気店や、大手家電販売店に卸している。この松下お得意の家電ルートで3DO全体の85%を流す。残る15%は大手デパートやゲーム系フランチャイズに一部おもちゃ系列の問屋を使い流通させるが、それすら松下の販社を通して流す。あくまで松下はおもちゃではなく、家電として3DOを取り扱っていた。これはハードならずソフトも同じである。3DOソフトは初期においてはゲーム屋ではなく、家電販売店に豊富に並んでいたのである。
・初心会に頼らない独自ルートでの販売
・サードパーティソフトの全量買い上げ
・CD-ROMによる低コスト低価格化実現
これらの言葉を見てはっとしないだろうか。そう、これらはプレイステーション1でSCEがやろうとしていた流通革命と非常に似通っているのである。当時の任天堂に対抗するための措置……とも見えなくはないが、実態としては「あまりにおもちゃ流通を重視しすぎると3DOがゲーム機として見てしか貰えなくなるのではないか?」という懸念があったのだろう。結果的に松下はいち早くゲーム業界における流通革命の第一歩を切り出した企業となった。
まず本社は3DO REALを販売会社に流す。
厳命が下る。「これは次期VHSとなりうる商材だ。全力で売れ」。販売会社は各地の小売店や系列店に話をするが、その店主や店員は今まで家電を取り扱ってきたプロの男たちである。ビデオデッキの画質やテレビの新機能を語らせることはできても「インタラクティブマルチメディアプレイヤー」なるものの取扱いは流石に鼻白む。ゲーム機か? いやちがう。パソコンか? いや、そうではない。次期VHSの情報家電である! ならばテレビの録画はできるのか? いや、できない。
……いったいこれはなんなのだ? 家電のプロたちは頭を悩ませた。松下は半導体の開発を取り扱うトップメーカーであったが、その末端の販売員たちはそうではなかったからである。
ソフトラインナップは……ウルトラマンに、チキチキマシン猛レース? 山村美紗サスペンスに実写ゴルフゲーム……いったいこれらが何本売れるのか? さっぱり見当がつかなかった。
初心会の加入している問屋が最終的にその予測を外していき、任天堂に見限られたのは別記事で書いたとおりである。しかし松下系列の販売店はそもそも予測を立てることができなかった。ゲームというジャンルは、彼らにとって未知の領域すぎたからである。
松下の思惑はどうだったか? 松下は任天堂が初心会に求めたような厳密な予測を、彼らに対して期待していなかったと思われる。3DOはマルチに展開するメディアプレイヤーなのだから、販売店にはカタログ的に、ソフトが一本ずつ置かれていて、それがどんどん拡充していって「3DOにはこんなにソフトがあるのか」と消費者が一目でわかるようになっていればよい、という具合だ。3DOはキラータイトルに頼らない。ならば広く浅くラインナップが店頭に並んでいれば良いのだ。
品切れからのリピートも二週間。これは当時のスーパーファミコンより圧倒的に早いが、プレイステーションよりは遅い、といった具合だった。これくらいの早さがあれば流通を速やかに行えるだろうと松下は睨んでいた。
面白いことに、ソフト会社は完成したゲームをCD-Rにいれ、一度海の向こうの3DO社に送る必要があった。そこで暗号化処理が施されたマスターディスクが作られ、戻ってくる。それを松下が受け取り、工場(日本ビクターとテイチクが当初の認定工場だった。両社とも当時の松下の傘下だった)でプレスする。二週間ほどこのやりとりに費やされたという。この暗号化には「国家機密に属する事柄」が含まれている、とのことでアメリカ国外への持ち出しが不可能だった。それ故の苦肉の策だった。
日本での流通を整備する最中、さきがけてアメリカで3DO REALは発売された。93年10月のことである。ここで一気に(とはいっても初期出荷は10万台にも満たないのだが)普及させ、その余波をもって日本のソフトメーカーを3DOに向けさせたい。そうすればきっと日本の3DO発売の際には勢いが増すに違いない。そう期待を込めて3DO REALは出荷されていった。
松下が異変に気がついたのは発売後すぐだった。順調に出荷され、店頭にならんだ北米の3DO REALが、在庫のまま売れ残りつつあったからである。
止まった「REAL」 目指すは再起動
北米に出荷された3DO REALは6万台であり、本来ならばもっと出荷される予定であった。ところがあまりに店頭在庫が多すぎ、松下は出荷ストップを余儀なくされた。
原因はいくつか考えられるが、とにかくソフトラインナップの貧弱さが第一だ。EAがメインを張ってラインナップを揃えたといっても、そもそもそのタイトルはマルチタイトル、GENESISやSNESやPCにも発売されているものだった。
3DO特有のタイトルはほとんどなく、わざわざ今自分の有しているハードでも発売されているゲーム目当てに3DOを買おう、という消費者は少数派だった。ビデオCDもMCAやワーナーが精力的に揃えたとは言い難く、アリバイ作りのために月に数タイトル出すくらい。発売予定表の貧弱さは明らかだった。それにそもそも画質があまり上等ではなかった。せっかくオプションのビデオCDアダプターを接続しても、肝心要の画質はVHSと同等だった。ならば、VHSでいいのでは?
それに明らかに価格設定を間違えていた。3DOが700ドルの一方、GENESISとSNESは150ドル以下で価格競争を行っていて、さらには買うとソフトが一つ、二つ無料でバンドルされていた。3DOはGENESISとSNESと、マリオとソニックを全部買うよりも高く、消費者はそちらの方を選んだ。マリオもソニックも出ないハードを買うためには財布の紐を切断する必要があった。
松下と3DO社は目論見が外れたことを見せつけられた。両社は甘い夢を見ることには成功したが、その夢を消費者に見せることには失敗したのである。
甘い夢を見ていた寝床は今や現実という大雨でびしょ濡れだ。松下と3DO社はずぶ濡れで震えながらこれからどうするかを協議しなければならなかった。もはや暖かな寝床はどこにも存在していない。
松下と3DO社は必死に走り出した。このまま震えたままでは、風邪を引くだけなのだから。
日本の発売前には本体価格を訂正した。79800円から54800円へ(北米では700ドルから500ドルへ)。前代未聞の発売前値引きだった。
しかしハードとプラットフォーマーが分離している3DOでは、ハードの値下げというのは困難な構造だった。任天堂やセガがハードを値引き出来るのは、その後ソフト会社からロイヤリティを徴収できるからである。3DO REALをいくら売っても松下には直接はロイヤリティは入ってこない。あくまで3DO社にロイヤリティが行く。どうすればハードを生産している会社が低価格で出せるようになるのか。3DO社は考え、「94年9月末までの3DOハード製造分に関して、我が社の株を1台あたり2株提供する」という指針を松下に伝えた。3DO社株は93年3月に公開され、10月の北米発売前には48ドルを達成していた。それと松下の自主努力によって3DO REALの値下げは実現された。
それに3DO社も、「自身ではソフトを制作しない」という方針を撤回する羽目になった。「スタジオ3DO」を立ち上げ、3DO独自のオリジナルタイトルを用意することになった。本来であれば発売前にやっていなければならないことだが、今更言っても仕方がない。せめて日本での発売をスムースな立ち上げにしなければならないのだった。
敵か味方か? 互換ハード出現
日本国内の発売に前後して、朗報があった。松下と縁の深い三洋電機(三洋電器の創設者、井植歳男氏の姉は松下の創設者、松下幸之助の妻であり、親戚関係であった)が3DOに参戦してくれるというのだ。三洋も独自にハードを設計し、それを流通する。三洋流通で3DOの取扱があれば、より3DOの販売に弾みがつくことは間違いなかった。それに松下系列の一部ソフトを三洋に流す形が取れたのだから、ソフト売上も上がるはずだ。
よく「互換ハード同士で競争になってしまって足の引っ張り合いになった」と評される3DOのハード事情だが、実際のところはそう簡単ではない。3DOのハード製造に手を挙げた松下と三洋、そして韓国勢の金星(現在のLGエレクトロニクスである)とで3DO部品のやりくりを行って、全体的なコストダウンを図っていた。世界の半導体工場たる松下でも、全ての部材を自社で調達するのは困難であり、CD-ROMのピックアンプレンズ部分は三洋から、メモリチップは金星から調達していた。彼らに特価で3DOの部材を売るかわりに、こちらも部材を特価で買う契約を行える。これで全体の3DOハードの出荷量は伸ばせ、同時に松下のコストも減らせる。その上日本では松下が実質的なプラットフォーマーなのだから、市場が活発化すれば自社の儲けに直結するのだ。むしろ松下は積極的にハード会社を誘致して回った。その結果の三洋の参戦であり、この後には金星も3DO ALIVEというハードを発売した。
そしてこの三洋の3DO TRYが発売されるにあたって面白い取り組みがあった。三洋ルートの家電流通の他、あの「初心会」にも卸すことを三洋が決めたのだった。
松下はあくまで情報家電の一種として3DO REALを売り出した。しかし三洋はゲーム機として売り出す。こうした違いはむしろ3DO側としてはメリットといえた。同じ規格のハードがアプローチを変えて競合せずに違う方面で売り込みにかかった、ということなのだから。
三洋側はいきなり初心会へとアクセスしたわけではなく、以前も子ども向け家電の一種として「ROBO」というおもちゃ家電を売り出し、その一環で玩具ルートにこの商材を流した経緯があった。つまり初心会から見て三洋はお得意様の一人であったのだ。
初心会が三洋の3DO TRYを扱った理由がもう一つある。それは当時の任天堂社長山内の姿勢だった。
本来であれば初心会は任天堂と取引がある問屋の集まりである。あまり任天堂のライバルに肩入れをしては、メインの任天堂商材を扱いにくくなる側面を持つ。しかしこの頃の任天堂はNEC、セガ両者とも「敵ではない」というスタンスだったので、大手を振って初心会は非任天堂商材を取り扱えた。
そして山内社長は3DOに対しても辛辣な言葉を投げつける。有名な言葉であるが、引用する。
興奮しながら語ってくれた、とこのインタビュアー(著者の相田洋氏か、NHK取材班の大墻 敦氏かのどちらかはわからない)は記述している。
この任天堂のスタンスは初心会の間では有名であったので、「山内社長が問題視していないのなら、ウチが扱ったところでおとがめはない」と判断した初心会問屋が多かった。3DO TRYは無事初心会経由で全国のゲームショップに出荷されていったのである。
ところが、話がおかしくなってくる。家電の松下、玩具の三洋という区分けで2ルート戦略を行っていくはずだったのに、松下側の3DO REALも初心会が取り扱うことになったからだ。
3DO REALの日本での売上は小売価格訂正のおかげもあり、北米のような悲惨な状況ではなかった。かといって松下が大喜びできるほどのものでもなかった。出荷台数は94年内で35万。当初こそは品切れが各地で多発したが、じきにそれも沈静化した。
再度のテコ入れが必要だった。松下はもう一度ソフトメーカーを回る。5000本の買取保証策の他、自社でソフトメーカーのタイトルをIPごとそのまま買い取る施策も打ち出した。この場合は開発費の半分を松下が補填する形となる。著作権的には松下とソフトメーカーのダブルブランドだ。
そうした施策を打ち出す一方、どうしても3DOはゲーム機としての色合いが強くなっていく。「なんにでもできる夢のマルチメディアマシン」は「新世代32bitゲーム機」以外何物でもない……現実が次第に色濃くなってきた。消費者は「夢のマルチメディアマシン」なる、得体の知れないものに金を払おうとは思わなかった。「高性能ゲーム機」ならば買ってもいいか、と思ったのだ。そして3DOはその需要に耐えられるほどの能力を有していたのである。
松下は現実を直視しはじめた。3DOはゲーム機として延命させねばならない。マルチメディア端末として活用されるのはその先の未来であるべきではないのか。そしてゲーム機として流通させるのならば、初心会がもっとも相応しいビジネスパートナーであった。
こうした経緯もあり、3DO REALも初心会流通に乗り、各地ゲーム屋に出回ることになったのである。新型(3DO REAL2 FZ-10)発売にあたってさらに価格を下げた。
結果的に三洋の3DO TRYと、松下の3DO REAL2は競合商品となってしまったが、これが3DO全体の足を引っ張ることになってしまったか、というと疑問符がつく。1994年の年末商戦で、REAL2は十数万台の出荷がなされたが、TRYは一万台程度でしかなかった。競合というより、TRYはREALの補佐役を務める程度で留まる。
ここで三洋側もソフトの重要さを認識する。三洋としてのソフトがなければ3DOに参戦した意味がない。三洋は松下を見習い、開発支援と開発委託に乗り出した。
こうした松下と三洋の取り組みは一部で混乱を起こした。三洋のカタログに一部載っていない松下系のソフトが登場したり、松下側のカタログにも載ってない三洋系のソフトがある、といった具合に。
一部小売店は「このソフトを仕入れる場合には、どの販路を使ったら良いのか?」と悩む羽目になった。
しかしこの二社の熱意は、小さくない奇跡を後に引き起こす。
亀裂
松下・三洋の取り組み具合の一方、3DO社もさらなるてこ入れを模索し続けていた。ところが3DO社の方針は、松下・三洋の取り組みとはまた別のベクトルだったのである。
「将来的にはマルチメディア機。しかし現状はゲーム機で」
という見識は一致している。松下・三洋はそのゲーム機としてのクオリティをソフトを拡充させることでどんどん上げていこうというものだ。3DO社もそれは認識し、自らゲームを提供することでクオリティを上げにかかった。
3DO社はその上で「ハードの価格を下げることでさらなる普及軌道に乗せよう」と企んだ。しかしもう松下も三洋も、これ以上の値引きができないところに追い込まれていた。これ以上の値下げとなると、いよいよもって赤字路線に進まなければならない。
卸価格を上げてしまう、という方法もあるが、家電ルートでも初心会ルートでも、当然問屋や小売店の取り分を含まねばならない。掛け率を悪化させれば今度は小売での取扱が雑になる。どの方面も無理があった。
3DO社の株を再び補填の材料にすべきだろうか。しかし3DO社は94年の大赤字決算を受け、絶賛株価低迷中であり、上がる様子は見られなかった。あまりに資金難であったため、ホーキンス自身が1500万ドルの自己資金をつぎ込むことになった。これがなければ3DO社はとっくに倒産に至るほどだった。株券をつけたところで補填する材料にはなりえなかった。
そこで3DO社が打ち出した施策はマーケティング・デベロッピング・ファンド(MDF)構想である。これはどういうものかというと、3DOソフトを作ろうとするソフトメーカーに対し、1タイトルに対して1ドル(95年以降は3ドル)を広告料名義で追加で徴収し、それを3DOハードメーカーに対してシェア別に割り振って補填させよう、という作戦である。3DO社的には「これでハードメーカーに安くハードを売ってもらうことができるぞ」ということだ。
ゲーム屋では3DO REALとTRYはゲーム機として並び、隣にはプレイステーションとサターンの棚がある(しかもREALやTRYよりも安い)。なんとかこの状況を打破せねばならない。そのためのMDF構想だった。
これにたいして松下と三洋は反発した。「なぜここでソフトメーカーに負担をかけるような真似をするのか」ということである。
3DO社的には「いずれ軌道にのったときにソフトメーカーからさらに徴収する仕組みをつくっておけば松下・三洋にも有利だろう」という親切心から出た目論みだったが、松下・三洋側から見たら「今復活しかけている日本市場に氷水を注ぐ愚行」だった。こちらが頭を下げてソフトメーカーを誘致して回ってるのに、何をやっているのか。
しかも3DO社は米国流のやり方を日本に押しつけた。何の事前準備もなく、ソフトメーカーに対して手紙で「何月何日より条件を変更します」と通達しただけ。根回し文化の日本においてそれは反発を生むのに十分だった。そもそも松下からお願いを受けてゲームをつくっているソフトメーカーからしたら、いきなり条件を変えられてはいったいどういうことか、話が違うぞ、と言われかねない。松下は対応に苦慮した。
この時の松下側の不信感は如実に表れている。日経BP社が発売した「新世代ゲームビジネス」において、松下電器産業インタラクティブメディア事業部長の立花博之氏がインタビューに応えているが、MDF構想についてこう語っている。
また、三洋電機側も、情報機器事業本部本部室3DO推進室長の福沢俊栄氏がMDF構想についてこう語っている。
要約すると「必要なことをしないでいらんことしやがって」だ。3DO社と、松下・三洋連合に亀裂が生じているのは明らかだった。松下は3DO社に日本へのMDF適応外を承認させた後、ソフトメーカーを回って頭を下げた。
3DOの売り文句である「オープンプラットフォーム」がここにきて何なのか、疑問符がつきはじめた。松下や三洋は技術を提供する。3DOは規格を制定する。なるほど、それは大事だ。しかし値下げ努力のためのハードの改善は? キラーソフトの作成は? それは主に松下や、松下の協力を得たソフトメーカーがしていることであって、3DO社自身ではなかった。ビデオCDのラインナップは一向に増えず、モデムやセットトップボックスアダプタの開発は一向に進んでいなかった。3DOスタジオがキラーソフトを提供していれば批判もなかっただろうが、そういうわけでもなかった。いったい3DO社は何をしているのだ?
3DOは当初マスコミから絶賛を受け、任天堂社長山内を不愉快にさせることに成功した。しかし正式な価格発表から批判が増え始め、94年の年末商戦、プレイステーションやサターンといったライバルが並びきった後には3DOを褒め称えるマスコミは絶滅したといってよかった。このあたりからホーキンスの手腕を疑問視し、詐欺師と呼ぶマスコミも出始めた。3DOという規格自体が、暗礁に乗り上げているのは明らかだった。
そんなときだった。3DOに二人の天才が舞い降りたのである。
-続く-
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