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他者を介在することで自分を見る

他者から見た自分が自分

「主観が多い」
私が文章を書くと、いつも指摘を受ける言葉である。
主観が多いということは、客観性がないということになるのだろう。
そう思って自分を俯瞰してみると、そうでもなかった、いや、それよりも私は「客観的に見ることでしか自分を見ることができなかった」とわかってきた。

私は何かに没頭することができない。
一人のときはできる。他者が存在しない場所でなら、それに集中することができる。ここでいうところの“他者”とは、自分に面識のない相手である。
見知った人がいるところでは、自分の世界に入り込むことができない。
しかし、他者がいる場面では、何かに集中したり、没頭することができない。常に「他者からはどのように見られているか」と考えてしまう。

カフェでこのブログを書いている。
自宅では、気が散って集中できない。
近しい他人がいるところでは、集中できない。
だから、カフェの店員とは見知った仲になりたくない。
集中するところでは、まったく知らない赤の他人が溢れた場所が良い。

他者がいると、「自分の姿を他者に見る」ことができる。
遊んでいても、学んでいても、“それ”に集中することができず、常に自分の姿がそこにはある。
いつも、“自分を見ている自分”が存在する。
何かをしたくて、したくて、たまらない。
そんな衝動的なことに、流されたことがない。
そもそも自我が無いのかもしれない。
「私はこれがやりたい! なんとしても!」
等ということがない。
「これをしたら、自分はどのように映るだろうか」
「これをすることによって、目の前の相手は喜ぶだろうか」
このような考えが、先行する。

私が好きなことは読書だ。
本はいい。
理由は、読書には、本と自分しかいないからだ。
私は、本と自分との対話を愉しむことができる。
本と自分だけの世界なら、誰にも邪魔されずに、自分をさらけ出すことができるのだ。
他人も他者もない。自分と本だけ。
それによって、自分がゆがめられることが無いと信じてきた。
他者によって、他者から見た自分の姿が、変えられてしまう。
自分の姿が、自分の姿ではないように感じることもある。
好きな自分ではない時もある。
それなのに、そんな自分を演じ続けるのは、目の前の人が笑顔になるからだ。他人が喜んでくれることで、自分は満たされる。自分の存在価値が、目の前の人の笑顔によって証明される。だから続けている。

このような呪縛から、解き放ってくれるのが本だった。
「こんな本を読んだら、誰かが喜んでくれる」
このような動機で読んだ本は、とてもつまらない。
「この本をよんでいるなんて、人には言いたくない」
このような本が、自分を自分のありのままの姿を残してくれる。

いびつな形の自分を、キレイに整えて、他人の前に出す。
ずっとそうしてきた。
キレイに整えて、キレイな部分だけを見せる。
汚い部分や、未完成な部分は見せない。無かったことにすることもある。
経歴も、人に自慢できるものがあることだけを、見せてきた。
人から馬鹿にされることは、見せない。
人から後ろ指をさされるかも知れないと思ったとき、“後ろ指をさされている自分”を想像する。そんな自分が好きになれるか、自問自答する。
「好きになれない」
そう判断した瞬間、私はその事実を、過去のものとして抹消する。
友人にはこの事を「グレートリセット」と揶揄された。どうやら、この言葉は友人の造語ではなく、誰か有名人が使っているらしい。
グレートリセットを繰り返して生きてきた。
そんな私は、振り返ってみると、自分の過去が無くなっていることに気が付いた。
過去がない。

思い出せる内容も、思い出を共有する相手もいない。
他者によって自分を見てきた結果、私は自分を失っている。
他者がいても、自分の意見があることは、それだけで十分に素晴らしい。
自慢できることだ。
他者の目が、自分の目になることは、結果的に不幸を生み、自分の存在を消してしまう。

人は他者がいないと存在できない。
他人がいるから、名前なんてものがある。
「尾崎コスモスです」と自己紹介するのは、尾崎コスモス以外の人間に対してだ。尾崎コスモスしか、この世に存在しなかったら、尾崎コスモスなんて名前には何の意味もない。

自分のことを好きになるのは、自分の事よりも嫌いな他人がいるからだ。
他人が、自分よりも好きな人だらけになった時、自分は自分のことを嫌いになる。他人が好きであることは、自分のことを嫌いになることとイコールだった。

他者の存在が、自分の存在であることが間違いないのなら、他者の目から見た自分の姿は、他者によって変化する。
他者は自分ではないが、他の他者からは自分は他の自分になる。

他者を介して自分を見ることが、私にとっての自分だった。
しかしそれは、同時に「誰と付き合うか」ということに直結する。
自分が、“誰の目を通して自分を見るか”ということが、自分の答えになった。

私は、私が好きになれる自分を映してくれる他人を、好きなるだろう。

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