自分基準でいないと不自由で不安。
比較的自由に話をできていた場で、有識者の方に
「それは絶対違う」「それじゃだめ」
と言われて、検討し直すことになり。
思わず、どこらへん選んだら正しいとされるだろうか、と考えてしまった。
と書くと、別に普通のことなんだけど。
指摘されて正しいことを言われて直すだけなのだけど。
なんていうか、答えがないはずの、みんなでまたは自分が考えて答えを決めるしかないような場で、その人の考えを答えに近いところとして合わせにいってしまう感を恐れたのだ。
この感覚苦手なんだよな、と思って。
自由に考えられなくなってしまう。
(この場合は合わせることを求められてるわけではないから問題ないのだけど、力のある人に否定されたりするとそこに思考寄せようとする自分の反応が私にとっての問題。)
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不自由さ、というものが、私はすごく苦手でいやだ。
たいていの人がそうだと思うけど。
中でも、自由に見せかけた中での不自由というのがほんとに苦手だと思う。
好きなように考えていいよ、と言いつつ、答えはこれだ、ここらへんに着地すべきだ、この範囲内で考えるべきだ、などが裏にあるようなもの。
それなら、最初から答えを提示して指示された方が楽だと思う。方向や枠など提示してもらった方が考えられると思う。
そういう場合は、その中でどうするか、に集中すればいいし、もしくはどうやって枠を外せるかと考えたらいい。
答えや枠を探りながらどうすべきか悩むのが1番不自由。
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他人を基準に考えるのはしんどい。
こうしたら間違いかもしれない。
どういう風にしたら正しいだろうか。
相手はどうするのを求めているだろう?
それを基準にして考えるときって、それと違うことをするのはめんどくさい、怖い、とかになっている。
合わせる方が楽だから合わせるんだけど、でもそれはそれでしんどい。
そうやって、正しそうだ、求められてそうだ、を探してしまうと、自分が考えたままに動けなくなる。
よくないかもしれない、求められてないかもしれない、といろいろ考えて、自分に制限かけてしまう。
何か正しくないことをしてしまわないか、間違えてしまわないか、ずっと気を張っているようなことになる。
思ったまま言えない行動できない。安心できない。
ここで書いた、安心できる場と対極だ。
逆にいうと、安心できる場って、自分が自由でいる場なんだなと思う。
顔色うかがったり合わせたり、自分に制限かけてなくて。
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合わせることを求めてくる、制限をかけてくるというような人自体苦手ではあるけども、そうでないかもしれないのに勝手に合わせた方がいいかもしれないと制限かけようとする自分の思考グセがいやだなぁと思う。
不自由で安心できないのがいやなのに、なんで自分で制限かけるのかな?っていうところ。
なので、冒頭のシーンで、合わせそうになってるな、やだな、って思えたのはよかったなって思っておこう。
そういうときのもやっと感放置してると、しんどさに無感覚になってしまうので。
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