中島敦【文字禍】
文字の霊という存在について
文字を覚える代償?
ナブ・アへ・エリバは、ニネヴェの街中を歩き廻って、最近に文字を覚えた人々をつかまえては、根気よく一々尋ねた。
文字を知る以前に比べて、何か変わったような所はないかと。
之によって文字の霊の人間に対する作用(はたらき)を明らかにしようというのである。
老博士ナブ・アへ・エリバを召して、未知の精霊に就いての研究を命じたのです。
未知の精霊とは、文字の霊のことです。
冒頭の質問をもって、得たおかしな統計というものはどういうものだったのか。以下の者が圧倒的に多くなったと言われてます。
文字を覚えてから急に蝨(シラミ)を捕るのが下手になった者
目に埃が余計に入るようになった者
今迄良く見えた空の鷲の姿が見えなくなった者
空の色が以前程碧くなくなったという者
咳が出始めたという者
くしゃみが出るようになって困るという者
しゃっくりが度々出るようになった者
下痢をするようになった者
俄かに頭髪が薄くなった者
足の弱くなった者
手足の顫える(ふるえる)ようになった者
顎がはずれ易くなった者
職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損なうことが多くなった。女を抱いても一向楽しゅうなくなったという訴えもあった。
「え?ちょっと待って。文字を覚えてから、こんなデメリットばかりあるなんて、聞いたことがないです!」
そんな人は多いかも知れません。
では、これは何を表しているのでしょうか。
それは、文字によってどれだけの視野が広がるのか。
文字によってどれだけの理解が深まるのか。
といったことを言われいるのです。
つまり、文字を覚えたことによって、
『実際にそこに行って見なくてはわからなかったことが、文字として表わされたことで理解できるようになった』
体験しなくてはわからなかったことが、文字によって理解できるようになったという事を表されているのです。
これは、現実でも読書をする理由としても上げらえていることです。
「自分の人生だけでは経験するには時間が足りない」
「本を読むと著者が経験したことを、疑似体験することができる」
「まるで自分が体験したように話すことができる」
こうして考えていくと、『文字を覚えることによってできることの大きさ』というものをとても明確でありながら、ユニークに表現されていると感じますね。(文字を覚えて、しゃっくりが出るのは笑ってしまう)
粘土板の文字が歴史である
『文字を知っているから、そのものを知っていることになる』
という理論の元、話が進められていく本作品は、歴史自体も同じだと言っていることがとても面白い表現だと思います。
『獅子』という文字を知っているから、『獅子』を知っている。
ナブ・アへ・エリバ博士は、埃及人(エジプト人)は、ある物の影を、其の物の魂の一部と見做しているようだが、文字はその影のようなものではないのか、と考えたのです。
ですから、文字として粘土板に残された文字が歴史であり、そこに刻まれた文字の一つ一つが歴史なのだと言っているのがとても面白いです。
もっと面白いのは、
「書き洩らしは?」
と歴史家が聞いたところ、
「書き洩らし?冗談ではない、書かれなかった事は、無かったことじゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ」
そう老博士は言い放つんですよね。
これは面白い発想ですが、当然と言えば当然ですよね。
歴史とは、残っている書物に書かれたことだということは、皆が知っている事実であるのに、その中に書き洩らしがあるなんて、考えたこともなかったからです。
恐らく、多くの人はそうなのではないでしょうか。
文字によって、私たちは数多くの恩恵をいただいていますが、文字というものがもたらしたのは、先人たちにとっては決していいことだけでなかったのかも知れませんね。
文字によって、書いていくことで、もちろん知ることができることの幅が広がったということは、言えるのだと思います。
しかし、それと同時に、文字の情報として得られたことは、そのことについて本気で調べている者が実際に自分の足で見に行くという機会を失わせたのかも知れません。
今迄なら、わからないことは自分の目で見に行くということが主流だった時代からの、変換機になったのだろうと容易に想像できますね。
今でいうところの、SNSとリアルでの関係の違いに似ているのだと感じたのは私だけではないかも知れません。
因みにこんなに恩恵をもらった、文字に、物語の最後には押しつぶされて亡くなるという最期を迎えられているあたり、文字のすばらしさと、恐ろしさというものを、明確に映し出していると感じました。
中島敦の作品の中では、大好きな作品である、『文字禍』をお届けしました。
今のSNSに、押しつぶされて亡くならないように、注意して取り扱っていきたいものですね。
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