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ブレーズ・パスカル

パンセ

パスカルの定理

ブレーズ・パスカルといえば?
という問いに対して、どのような答えをお持ちですか?

数学者?
物理学者?
哲学者?
どれも正解です!

パスカルの父は、人生をかけてパスカルの教育に力を注ぎます。
そのおかげで幼少のころから数学で力を発揮したパスカルは、まだ10歳にもならない頃に、三角形の内角の和が二直角である事や、1からnまでの和が(1+n)n/2である事を自力で証明して見せます。
パスカルが16歳のとき『円錐曲線試論』を発表。
17歳の時には、機械式計算機の構想・設計・製作に着手し、それを見事に2年後に完成させた。これによって、父親の徴税官の(計算の)仕事を楽にしようとしたのだ、とも言われている。またこの計算機の設計・製作に過度に没頭したことが、パスカルの肉体を傷め、病弱となり、寿命を縮める原因のひとつとなった、とも言われています。
パスカルの定理(パスカルのていり)は、ブレーズ・パスカルが16歳のときに発見した円錐曲線に関する定理である。
パスカルの原理(パスカルのげんり、英語:Pascal's principle)は、ブレーズ・パスカルによる「密閉容器中の流体は、その容器の形に関係なく、ある一点に受けた単位面積当りの圧力をそのままの強さで、流体の他のすべての部分に伝える」という流体静力学における基本原理も発見している。


哲学に目覚める

パスカルが28歳の時に父が亡くなり、それ以降、哲学に目覚めることになります。
科学研究でも業績を上げるなどしたパスカルは後年、『プロヴァンシアル』の名で知られる書簡を通して、イエズス会を批判します。
1662年に39歳で亡くなるまで、主力を注いだ著作『護教論』は完成を見ることなく、残されたその準備ノートが死後、『パンセ』として親族によって出版されました。
パンセとは、フランス語で思考、思索のことですから、パンセとは、思索の断章の塊と言えるのです。

パンセ『気ばらし』

あらゆる大掛かりな気ばらしは、キリスト者の生活にとっては危険である。
しかしこの世が発明したすべての気ばらしの中でも、演劇ほど恐るべきものはない。それは情念の実に自然で微妙な演出であるから、情念をかきたて、われわれの心のなかにそれを起こさせる。特に恋愛の感情を。ことにその恋愛がきわめて純潔でまじめなものとして演じられていれば特にそうである。
なぜなら、それが潔白な魂に潔白に映ればうつるほど、それによって動かされやすくなるからである。
その恋愛の激しさが、われわれの自愛心を喜ばせる。
その自愛心は、目の前でこんなに巧みに演じられているのと同じ効果をひきおこそうとする欲望をただちにいだく。それと同時にそこに見られる感情のまじめさに基づいた一種の自覚がつくられ、その自覚が純な魂の懸念を取り除き、あのようにつつましく見える愛で愛することが純潔を傷つけられることにはならないという気になるのである。

パンセ「精神と文体とに関する思想」原一二三 ラ五八一(二ノ二三)より

人生において気ばらしというものが必要であるが、気ばらしの中でも特に演劇ほど恐ろしいものは無いと言っています。
そしてその演劇によって、心を動かされるものの中に、恋愛がある。
その恋愛感情は、潔白で純潔であるほど心が動かされやすくなり、まじめな恋愛ほど純潔を傷つけられることがない、恋愛の純白さを信じることができると説いているのです。

確信の無いもの

エピクテトスは、もっと力をこめて問うている。
「われわれは、人に頭が痛いでしょうと言われても怒らないのに、われわれが推理を誤っているとか、選択を誤っていると言われると怒るのはなぜだろうか」

パンセ「神なき人間の惨めさ」八〇

その理由はこうである。
われわれは、頭が痛くないということや、びっこでないということは確信しているが、われわれが真なるものを選んでいるということについては、それと同じ程度の確信は持てない。
したがって、そのことについての確信は、われわれがそれをわれわれの全力で見ているということ以外に根拠がないのであるから、他の人がその全力で正反対のことを見るならば、われわれは宙に迷わされ、困惑させられる。
まして千人もの人たちがわれわれの選択をあざける場合は、なおさらのことである。
なぜなら、こうなるとわれわれは、われわれの理性の光のほうを、かくも多くの人たちの光よりも優先しなければならないことになるが、それは断端で困難なことであるからである。
びっこに関する感覚については、このような矛盾が決してない。

パンセ「神なき人間の惨めさ」八〇

私たちは、確信の無いものを、他人から言われると頭にくるのです。
確信の無いものというのは、推理や選択に見られるような、『自分自身が自信のないもの』ということになります。
自信が無いため、指摘されると、急所を突かれた動物のような反応をしてしまう為、本能的に条件反射として怒ってしまうのです。
頭が痛いとか、びっこではないということは、自分自身で『そうではない』という自信があるため、頭にこないのです。「何を言っているのだ」というように、自分の中でも相手を軽くあしらうことができるのです。
これには納得ですね。

気を紛らすこと

人間は、死と不幸と無知とを癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことについて考えないことにした。

パンセ「神なき人間の惨めさ」一六九

これは、疑いようのない事実ではないでしょうか。
死と不幸と無知に関しては、考えないようにしている人が、現代社会においても多く見受けられます。
これら『死』『不幸』『無知』だけではなく、答えのないもの全般に言えることですが、考えないようにすることは、日々を幸せに生きるためには簡単にできる最善の方法で得あるかのように、皆が考えない日々を過ごしています。
しかし本当に、考えないことが幸せなのでしょうか。
少なくとも私はそうは思いません。
なぜなら考えないことは、考えていないだけで、事態や選択や判断を先送りにしているだけに過ぎないと思うからです。
何れは考えないといけない事なのに、考えないようにしている。
それは本当の幸せではありません。
何れやってくる未来の自分が、考えなかったことを後悔するだろうということを、知っているのに考えていないのです。

問題がたとえ、考えてもわからない事であっても、考えることを放棄してはいけません。
それは、自分自身の人生を放棄していることになるのです。

無神論

無神論は精神の力のしるしである。しかしある程度までだけである。

パンセ「賭の必要性について」二二五

私たち日本人は無神論者というのが多く存在するかもしれません。
子供のころから、親がキリスト教だったということでキリスト教になったり、お寺の子供だったということで仏教に色濃く染まることはあることでしょう。
しかし、多くの人は信仰心を持たない家庭で育っています。
それは、日本の家庭においては珍しくもなく、友達の家に遊びに行ったら、大きな神棚があってびっくりしたなんて経験がある人は少ないでしょう。

パンセではこの無神論者に対して、精神の力のしるしと言っています。
これは、無神論者として生きていくには、とても「強い精神力が必要だろう」とパスカルは考えたのです。
それほどまで、神という存在は、人が生きていく上で絶対的な精神的支柱であると言っているのですね。ですから、神の無い世界、無神論者が生きていくことができるのも、「ある程度まで」と言っているわけです。

日本で暮らしていると、神を信じていないのに初詣や神社仏閣に手を合わせに行きますし、「日本人は信心深い」といわれますよね。
これは、とても疑問点として私の中にあるため、この点を深く読める本をいま、模索中です。
おそらく、日本に古くから伝わる神話や諸外国から入ってきた宗教の乱立によって、お祭り好きな日本人が何でも楽しめるようにアレンジしたものではないかと、私は考えています。


人間は考える葦である

考えが人間の偉大さをつくる。

人間はひとくきの葦にすぎない。
自然のなかで最も弱いものである。
だが、それは考える葦である。
彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
だから、われわれの尊敬のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。
だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。

考える葦。
私が私の尊厳を求めなければならないのは、空間からではなく、私の考えの規整からである。私は多くの土地を所有したところで、優ることにならないだろう。空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ。

パンセ『哲学者たち』三四六、三四七、三四八

お分かりになるでしょうか。
「人間は考える葦である」
等という言葉は、言っていません。
これらの言葉を要約して(?)このような言葉が生み出されたと考えられます。
人間は考えることができるからすごいんだとか、偉いんだとか言っているわけではないことがわかると思います。
ですが、「人間は考える葦である」というと、そんな解釈が独り歩きしてしまいそうです。


パスカルのパンセについて

全てのページで700ページを超える超大作のこの作品を全て振り返ることはできません。
しかし、巻末で小林秀雄はこう語っています。

人間は葦だ、という言葉は、あまり有名になりすぎた。
気の利いた洒落だと思ったからである。
或る者は、人間は、自然の威力には葦のように一たまりもないものだが、考える力がある、と受け取った。どちらにしても洒落を出ない。
パスカルは、人間は恰も脆弱な葦が考えるように考えなばならぬと言ったのである。
人間に考えるという能力があるお陰で、人間が葦でなくなる筈はない。したがって考えを進めていくにつれて、人間がだんだん葦でなくなってくるような気がしてくる、そういう考え方は、全く不正であり、愚鈍である、パスカルはそう言ったのだ。
そう受け取られていさえすれば、あんなに有名な言葉となるのは難しかったであろう。

パンセ『パスカルの「パンセ」について』


パスカルが言いたかったのは、人間は葦のように弱いものだということです。
ひとくきの葦は、蒸気や一滴の水でも死んでしまう、それくらい弱いものだと言っているのです。
しかし、考えることによって、尊厳を得ることができるとも言っています。考えることによって、私が宇宙をつつむ。
つまり、たとえ葦のように弱い人間を殺しても、人間の尊厳は殺せないという意味です。
なぜならよく考えることを努めることで、人としての道徳の原理を得るために立ち上がるのです。
それこそが、人間の偉大さをつくるのだとパスカルは力強く説いています。

このように、パンセをはじめとする、古典文学というのは解釈が他人によって様々です。
そこが面白いところであるのですが、答えがない=難しいと受け止める方が少なくありません。
もっと、この時のパスカルはどんなことを考えていたのだろう、この時のパスカルの気持ちはどんな気持ちだっただろう、この時のパスカルの言いたかったことは結局なんだったのだろう。
そんなことを考えながら読んでいくことが、創造力を膨らませ、自分のなかの考えられる範囲を超えていくものとなっていくのです。
古典文学を読んでみて、感じたことを感じたままに感想として残してみましょう。
きっとそこには、あなたしか気づけなかった感想が眠っている、、、、、かも知れません。

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