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あの頃オカ板に青春を捧げたオタク達が読むべきただ一つのホラー小説、「虚魚」

 八尺様、くねくね、きさらぎ駅、コトリバコ、ひとりかくれんぼ…今や「ネット怪談」として多くのインターネットユーザー達の間で知られるようになったこれらは、たらこ唇のお化けが運営するインターネット掲示板から生まれた。

 2000年代前半、2ちゃんねる、オカルト板。

 ニコニコ動画もまだ存在せず、YouTubeもまだまだマイナーだった時代に、インターネットの申し子(或いは忌み子)として生を受けた俺たちのもっぱらの遊び場と言えば「2ちゃんねる」だった。

 インターネットの掲示板文化全盛期、VIPやニュー速、ふたばなど、悪名高きネットの盛り場と並んで暗く怪しい輝きを放っていたのがオカルト板…中でも、洒落怖スレこと「死ぬほど洒落にならない怖い話を集めてみない?」の存在だ。

 そこでは日夜、怪談好き達が実話という体裁をとっては身の毛もよだつ恐ろしい話をこぞって投稿していた。くねくねやきさらぎ駅など、10年以上経った今も語り継がれるような名作怪談が生まれたが、名作の陰に隠れてひっそりと忘れ去られた怪談も数多く、その「クオリティ」は玉石混交というに相応しい。しかしそこには、ネット文化黎明期特有の、粗削りながらも、異常で異様な熱気が確かに渦巻いていた。液晶画面越しに、戯言ばかりが書き連ねられたスレッドにかじりつき、あの頃の俺たちは「何か」が起こるような高揚感と、そこが世界の中心であるかのような錯覚に陥っては、熱に浮かされたようにしてひとりかくれんぼを実況したり、自作の怪談を実体験と称して投稿していたのだ。

 やがてオカルト板の持つ求心力は徐々にその輝きを鈍らせていき、ニコニコ動画が登場したことによって掲示板文化は息をひそめる。インターネットキッズ達の遊び場はニコ動、そしてやがてはTwitterへと移っていき、オカルト板、洒落怖スレは過去の存在として忘れ去られようとしていた。かに見えた。

 或いは、オタクの世代交代があったからだろうか。Twitterユーザー達の中でも、かつての2ちゃんねるを知らない世代に、洒落こわのまとめサイトやニコニコ動画での怪談朗読動画などがリーチし、過去ログ倉庫の中でかびていくままに任されていた電子生まれの怪異達は、「インターネット怪談」として再びネットユーザーの間で語られるようになり始めた。今では「裏世界ピクニック」など、インターネット時代の怪異をテーマにした小説が商業ベースで出版されたり、ひとりかくれんぼを題材とした映画が撮影されたり、新たな文化として定着しつつある昨今。リアルタイムで「はすみ」の実況を追いかけ、「勇者」の一人としてひとりかくれんぼを「もしもし」から実況していた俺にとっては、「思えば遠くに来たもんだ」と思わず懐古厨してしまう程度には感慨深いものがある。

 そんな、インターネット文化が一周した頃になって、満を持して刊行されたのが今回紹介する「虚魚」である。因みに、虚魚と書いて「そらざかな」と読む。怪談師である主人公の三咲さんと、三咲さんが道端で拾った自殺志願者の少女カナちゃんのコンビが、「本当に人が死ぬ呪いの怪談」を探して怪談を収集、調査していく…という触れ込みで登場したこちらの作品は、あらすじだけ見ると「おや?自殺志願者と悲しい過去を持った女の子たちのホラーテイストな百合小説か?」なんて思えるが、ちょうど俺たちは裏世界ピクニックを観たばかりなのでそこは責めないで欲しい。だが、ふたを開けてみれば、そこにあったのは「怪談」と「その成立過程」に対して真摯なまでに向き合った作者の、「作者と怪談」との「対話の記録」だった。

 何故そのような怪談が生まれたのか。この怪談はあの怪談の類型に見えるが、そのオリジナルはどこにあるのか。そのオリジナルは、何をきっかけに生まれたのか。物語の大半は、怪談の発生からその伝播、拡散の過程を丹念に紐解いて追っていく様子を描くことに費やされている。仮に絵にしたとすれば地味なシーンが続いてしまうものだが、そこをテンポよく飽きさせずにどんどん魅せていくのは小説にしか出来ない芸当でとても良い。何より、その怪談を分析していく過程が、まさに「オカルト板に青春を捧げたオカルトオタクの15年後」といった趣で、非常に親近感を覚えてしまう。

 地方の怪談を収集する方法がまずGoogle検索。個人の心霊探訪ブログから、まとめサイトの過去ログ漁り、過去に出版された実話怪談系書籍を参照、等々…明らかに洒落こわスレの過去ログと思しき描写が出てきた時には、思わず「おまいとはうまい酒が飲めそうだ」と呟いてしまった。

 オタクというものは、作品の数を摂取すればするほどに、興味の対象が作品そのものからその成立過程や概念の追求へと移り変わっていくものだ。洒落こわまとめを読み漁り、「地方に伝わる怪異を見た主人公が、祖父祖母に『○○様を見たのか!』と言われて訳も分からぬままにお祓いを受ける」、というあらすじの話を100回読む事で、人はその話のあらすじよりも何故その話が生まれたのかを考え始めるようになる。その先には、消費するだけでは飽き足らず、怪談を研究対象として見るはてなき求道者の道が続いている。

 「師匠シリーズ」と呼ばれる、一連の作品群についても言及しておかなければならない。洒落こわスレが生み出した作品の中でも、群を抜いて人気が高かったこのシリーズは漫画化もされ、一時期はアニメ化やドラマ化などもされる予定だった。当初は他の洒落こわ作品と同じように、投稿者の実体験という体で投稿されていたこのシリーズだが、登場人物のキャラの立ちっぷりや、その独特の世界観、オカルト観から瞬く間に人気となり、連作短編小説のようにしてその世界を広げていった伝説的なネット創作シリーズだ。

 このシリーズの特徴は、何と言ってもその独特な「オカルト観」。「心霊スポットに行ったら幽霊が出て怖い目にあった」だけでは終わらない、怪現象そのものにメスを入れて解剖していくような語り口は、きっと多くのオカルトオタク達に多大な影響を与えた事だろう。怪談や、怪奇現象の根源を探求し、「何故人は怪談を語るのか」、「どのような時に怪談は生まれるのか」、「どのような時に怪談は人から人へ伝わるのか」、怪談という現象に対してある種メタ的な視点を持って語られるこの手法は、虚魚にも受け継がれているように思える。

 クトゥルフ神話がニコニコ動画から人気になり、インターネットのホラーシーンがクトゥルフ一色に染まって久しかった昨今。2021年ももう終わろうかという時期になって刊行された「虚魚」は、「怪談」そのものにスポットライトを当て、人の口から口へと語り継がれるミームとしての怪談の恐ろしさ、面白さを再構築した素晴らしい作品であり、全ての怪談好きに読んで欲しい一冊として間違いなくオススメなのであった。

 

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