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一周忌:記すことのできなかった最後の日々

本日、7月11日はミイの四十九日です。

あっという間のようで、とても長かった。ミイがいない。なんだか日々が物足りない。姿、音、におい、感触、空気、すべてが何か足りない。

四十九日の今日記すのは、ミイの最後の数日間の話。

……と書いていたのは昨年のこと。

写真を見ては泣き、動画を見ては泣き、先生とのLINEのやり取りを振りかえっては泣き…で、結局書き上げられずにおりました。

そうこうしているうちに、5月24日。ミイの一周忌です。1年、本当にあっという間。昨年書き途中であげることのできていなかったnoteを今日書き上げたいと思います。

それでは、昨年5月の今頃のことを振り返ります。​

ふらふら、ふらふら…。

2020年5月13日がミイの通院最後の日となりました。静脈点滴もできないとなると、これ以上何もしてあげられることはない。それが先生のご判断でした。してあげられることがないのに、負担のかかる移動をしてまでクリニックに来なくていいと。お家でゆっくりすごさせてあげてくださいと。

2月に自宅に戻ってきたとき、そして4月に少しごはんが食べられるようになったとき、もしかしたらミイは8月に我が家での丸5年記念、6年目を迎えられるかもしれない。そんなふうに思っていました。

だけど、このときのミイはいつ急変してもおかしくない状況でした。だからこそ、慣れ親しんだお家でゆっくり最後の時間を過ごさせてあげたい。私の想いでもあり、ずっと見てくださっていた先生の想いでもあったように思います。

そして、13日の診察以降、ミイはほとんど食事を口にしなくなりました。それまでは抱っこされれば多少は口にし、なめていたごはんも、最初から一切口を開こうとせず、何とか口に入れてものみこまずに出してしまう。先生からは無理に食べさせなくてもいい、そういわれていました。そして、食べられなくなったミイはどんどんやせ細り、足取りも弱弱しくなっていました。

この時のミイは、おそらく私には想像もつかないくらいの気持ち悪さに襲われていたのだろうと思います。ミイに無理はさせたくない、そう思う一方で、どんどんふらふらになっていく、薄くなっていくミイを見て、何とか食べてほしい、そうも思いました。まだいなくならないでほしい。ただそれだけが願いでした。

人間って勝手だなぁ…そんなふうに思いました。正直、今やっていることが、もはやミイのためなのか、私のためなのか、よくわからなくなっていました。

どこまでも優しい子。

そんな人間の想いとは裏腹に、一番つらいはずのミイはどこまでもやさしく、あたたかい子でした。私がどうしようもなく不安になって暗い顔をしていたり、泣きそうな顔でミイのごつごつ骨ばった体をなでていると、目を細め、喉をゴロゴロならし、気持ち悪いはずなのに手を舐め、頭をすりよせてくるのです。

就寝時間になればいつものように、ふらふらと倒れそうになりながら歩いてきて、わたしの枕元で私にぴったりくっついて寝始めるのです。

私がミイを支えなければならないのに、結局またも私が救われていました。

それでも、本当にどうしようもなく体調の悪いときは、ミイは一人で部屋の隅にうずくまり、じっと動かず、一人苦しさに耐えようとしました。その姿がまた切なくて、苦しくて。

日に日にミイの足取りはふらふらになり、立ち上がる時間が短くなっていきました。立ち上がっても後ろ足はがくがく震えていました。

流れでる、よだれとごはん。

この時期もうひとつミイに変化がありました。それまでは週1の通院の際に歯肉炎などの炎症を抑えるために、先生が抗生剤を打ってくださっていたのですが、これ以上ミイのからだに何かを施さないほうがいいだろうということで、最後の13日の診察の際には注射をしませんでした。

すると、数日経ったころからよだれが止まらなくなりました。免疫力が下がっていた故に、菌が増殖し、歯肉炎が急速に炎症を起こしたのだろうという先生のご判断でした。よだれはその痛みと、気持ち悪さからくるものだろうと。

こうなってくると、本当にいよいよまったくごはんは食べられませんでした。口を触るだけで痛がり、すき間からご飯をいれても、力なくよだれとともに流れ出てくる。そんな状況です。

この頃、私はミイからひと時も離れまいと、思いながら過ごしていました。お手洗いに行くときなどは、代わりに夫にミイのそばにいてもらいました。そして、先生から流動食(完全な液体のもの)と吐き気止めを取りに来てくださいと言われた時には、夫がクリニックまで一人で出向いてくれました。預かりボランティアをすることを、よくは思わず、動物と暮らすことだって心からは賛成していなかった夫が、自分から申し出てくれたのです。この5年の月日が、そしてミイの愛くるしさが、夫にとってもミイを「家族」にしたのだなと嬉しく思いました。

動きたい、でも動けない。

ミイの呼吸はどんどん荒くなっていました。少しでも楽になるよう、毎日一定時間は酸素室の中で過ごさせていました。酸素室の扉は、ミイが自分で出たいと思ったときに、出られるようにしていました。

5月21日。朝からミイの様子はおかしかったと思います。前日まではふらふらしつつも、多少の段差を上がったりしていましたが、この日は私が起床すると、ミイは床に力なく横たわっていました。

それでも午後まではトイレや隣の部屋まで自力でふらふらと歩いていき、酸素室に入れたときも、酸素室の中で立ち上がったり、うろうろしたりしていました。

ところが、

私が仕事の打ち合わせを終え、酸素室を置いている寝室兼夫の仕事部屋をのぞくと、ミイが酸素室から出て力なく手足を投げ出し、横たわっていました。その時夫は、イヤホンをして打ち合わせ中。

声をかけ、慌てて抱き上げると顔はあげるものの、手足はだらんとします。そして、お尻を支えて抱き上げようとした時、気づきました。下半身がびしょびしょなのです。おしっこでした。漏らしていたのです。そして、漏らしたままその場所で横たわっていました。

なんで、仕事なんてしていたのだろう…いつからミイはこの状態だったのか…1時間前?30分前?ついさっき?ミイ、本当にごめん。

そんなことを思いながらミイのからだを温めたタオルで拭きました。そして、この時を境に、ミイは自力で立ち上がらなくなりました。

痙攣。

ミイを拭き終わった後、体が冷えないようにペット用のヒートマットとタオルを数枚敷き、その上にペットシーツを敷き、ミイを寝かせました。起き上がれないものの、しばらくはなでると反応をしてくれていました。

しかし、それは突然起こりました。

ミイの目がカッと見開き、白黒しはじめ、口は半開き、だんだんと体全体に力が入り、ひっくり返るのではと思うくらいにのけぞり、口から泡を吹き、膠着して痙攣しはじめたのです。

あまりの光景にパニックでした。どうしたらいいのかわからず、のけぞってひっくり返るミイが、とにかく頭だけは打たないように頭を支え、痙攣が終わるまで泣きながら見守るしかできない。本当に無力でした。

1回目がおさまったと思ったら、またすぐに2回目、3回目。3回目は失禁もしました。あわてて先生に連絡し、状況を伝えました。アンモニアの毒素が体中にまわっているのだろう、つまり尿毒症の症状ということでした。あまりにひどい痙攣が続くようなら座薬をいれて鎮静することはできるから、取りに来ますか?とのことだったので、夫が再度クリニックに行ってくれました。夜20時くらいのことでした。

夫が座薬を取りに行ってくれている間も、数回2~3分ほどの痙攣が起こりました。この時、ミイは呼び掛けても反応はなく、肺の動きも心臓と同じくらいの速さで動いていました。

22時頃夫が帰宅し、しばらく経ったときに再度痙攣。先生からは座薬を入れる余裕があるくらい長い時間痙攣していたら、座薬を入れてくださいと言われていたので、様子を見て座薬を入れました。

そこからは翌お昼頃まで痙攣もなく、ミイは落ち着きながらも、意識は朦朧としていました。

お願い、どうかもう頑張らないで…。

21日の夕方に初めての痙攣を起こし、一切自力で立てなくなってからも、ミイはすごく頑張ってくれていました。シリンジで口元に水を近づけるとペロペロと舐め、流動食も時折ほんの少し舐めてくれていました。横たわったままおしっこもし、時折立ち上がりたそうに足を動かします。声をかければこちらを見、耳を動かし、ちゃんと応えてくれているようでした。

ただ、23日になるとお水も流動食も舐めてはくれなくなりました。声をかけてもほとんど反応もなくなっていました。肺の動きは明らかにおかしく、呼吸も浅い呼吸を「ふっ、ふっ」としている状況。

「よく頑張っているね。ありがとう。でも、もう無理をしないでいいからね。」

そんな思いでいっぱいでした。ミイの苦しさを思うと心が張り裂けそうで、苦しそうなミイを見ていることに耐えられなくて、ミイをなでながら、何度も何度もそんなことを思いました。

そして、お別れの日

5月24日の朝は、数日続いていた雨が上がり、久々に朝日が差した朝でした。ミイは本当に日向ぼっこが好きで、あまり日当たりのよくない我が家で唯一日の当たる朝の時間に、窓辺にピッタリとくっついて日光浴をすることがとても好きでした。

24日の朝、朝日が差しこむのを見て、最後の日向ぼっこになるかもしれない、そう思いミイに朝日を見せてあげたくなりました。全く力の入らないミイのからだを、そっと酸素室の中から抱き上げ、窓辺へ。

「ミイちゃん、久々におひさまが出たよ」

そう言ったとき、前日声をかけても一切反応がなく目を見開いたままだったミイが、ゆっくりと瞬きをしたのです。その時、「まだ、生きたい」そう言われた気がしたのです。何でそう感じたのか、よくわかりません。でも、なぜか強くそう感じたのです。

その瞬間までの私は、正直もうミイの命をあきらめかけていました。もう苦しまないでほしい、もう安らかに眠ってほしい、そう思ってさえいました。でも、ミイはまだ朝日を感じ、生きている。それなら、少しでもミイの苦しさが和らぐように、私にできることを最大限しよう、そう思ったのです。

そこから慌てて団体の病院と代表に連絡をし、病院に向かいました。一度はうまく血管に入れられず、だめで諦めていた留置針を、別の先生にもう一度試してもらうことにしました。それがうまく入れば、そして安定すれば、少なくとも今のミイの気持ち悪さや苦しさは少しでも緩和できるかもしれない。その一心でした。

病院につき、先生と代表がすぐに処置をしてくれました。そして、無事に留置針を入れることに成功。そのおかげか、ミイの苦しそうな表情は少し和らぎ、ミイはお昼寝を始めました。そのようすを確認し、夕方に再度お迎えの予定で、私と夫は一度病院を出ました。それでも、何かあったらすぐ駆け付けられるように、病院の近くをうろうろしていました。

朝から食事をとっていなかったので、夫と近くのファミレスに入った時、スマホが鳴りました。病院からでした。慌てて見ると

「ミイちゃんが排泄をしてから呼吸が不安定。すぐに戻ってきてほしい。」

との代表からのメッセージ。注文をキャンセルして、夫とダッシュで病院に戻りました。そこには先生と代表に囲まれ、心拍が乱れ、弱くなっているミイ。そこから先生と代表は、ミイと私と夫の3人だけにしてくれました。

「ミイちゃん、ありがとう。いっぱいいっぱい楽しかったよ。本当にありがとう。」

そう何度も声をかけながらずっとミイをなでていると、しばらくしてミイの心臓はゆっくりと動きを止めました。

5月24日13時頃、久々におひさまが差したその日、ミイは旅立ちました。


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