薬剤師と研究者とホスト / 思考の言語化

薬剤師と研究者とホスト

「薬剤師と研究者とホストやってます」って自分でもなかなか変なことしてんなと思う。
実際お客さまからも「なんで薬剤師なのにホストなんかやってるの?」って聞いていただけることも多いけれど、ここでは特にその理由を長々と綴るのはやめとく。
なんか堅苦しくなっちゃいそうだし、書いてて面白くなさそうだし、なにより実際に会ったときに口で説明した方が絶対に早い。

ここでは普段考えてることとか、趣味の読書や短歌のことといった『ホストとしてのSyoki以外の部分』であったり、或いは『ホストとしてのSyokiの部分』であったりを形に残したいと思う。
まあ要するに自由にやっていきたい。


思考の言語化

コミュ障という言葉がある。

インターネット上でよく言われる「コミュ障」とは
コミュニケーション障害として、若い世代やインターネットを利用する者たちの中で、SNS(ソーシャルネットワーク)では「コミュ障」と略されて呼ばれています。この場合のコミュニケーション障害は、次のような特徴があります。                    重度の人見知りで人とまともに話せない
緊張して異性と話せない
目を見て話せない
言葉がどもってしまう
空気を読むことが苦手
一方的に話し、場に沿わない発言をする
少しでもネガティブなことを言われると怒り出す
会話が続かない、会話のキャッチボールができない
人との距離感をうまくはかれない
自信を持って話すことができない
このような特徴から、「人見知り」や「怒りっぽい」などと同じ線上で「コミュ障」という言葉は使われることが多いです。       https://osakamental.com/symptoms/communication.html

僕は別に自分のことをいわゆるコミュ障だとは思ってないし、きっと僕の周りの大多数の人たちも僕に対してこいつコミュ障だな〜とは思っていないと思う。


コミュニケーションの媒体としては大きく分けて聴覚的メッセージと視覚的メッセージがあるけれど、僕は視覚的メッセージが好きだ。もっといえば、視覚的メッセージが聴覚的メッセージの提供し得る情報量を凌駕する瞬間が好きだ。


国語の問題のテンプレートとして「〜のときの筆者の気持ちを述べよ」という記述を見たことがあると思うけれど(実際にそういった問題をみたことは不思議なことに僕も見たことがないような気はする)、このとき筆者の〈本当の〉気持ちなんてものは到底分かるはずもない。原稿終わんね〜だったかもしれないし、めちゃくちゃにエロいことを考えていたかもしれないし、ともすれば何も考えていなかったかもしれない。


視覚的メッセージとしての〈文を綴る〉とは〈思考の言語化〉に他ならなくて、そこには必ず意図が存在すると思ってる。だからこそ「筆者の気持ちを述べよ」という問いには筆者としての明確な答えが存在し得る。
僕たちは筆者の気持ちを思考しているとき、ディスコミュニケーションの状態(かなり大袈裟だけれど)から、自らが当事者になることによって筆者とのコミュニケーションを成立させている。コミュニケーションへの昇華ともいえるかもしれない。このとき僕たちは受け手として、筆者の意図する内包的な部分を<正解>として受け取ることに成功していると同時に、聴覚的メッセージの提供し得る情報量のキャパシティーの限界を凌駕する瞬間を目撃している。
だから僕は〈思考の言語化〉が好きだし、それに費やす労力や時間に対して苦痛は感じない。


じゃあ、この文章を書いている今の僕の気持ちはどうだろう?意図しているものは分かるだろうか?


まあ正直にいうと特に意味や意図はもっていなくて、「7月6日はサラダ記念日やな〜文章書くか〜」となって昼職の休憩時間に暇つぶしで書いてたくらいだったから、「なーにが僕は思考の言語化が好き~wやねん」とツッコまれそうではあるけれど、それでもあえてこれまでの文章にそれらを持たせるとするのなら、ここは僕にとってそういう場所で、そうありたいしそうしていきたいと思っているということを、これから読んでくれるみんなに知ってもらいたかったって感じっす。

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