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人生で一番自己肯定感が上がった瞬間、私は自分の無意識に恐怖を覚えた

ある程度大人になると、TPOをわきまえた服装をする必要が出て来る。
それを面倒だと思っていた時期もあったのだけれど、気が付いたら常識として身に付き、当然のこととして何の感情もなく自然と「そう」するようになる。

例えば、仕事中はスーツを着るかビジネスカジュアルに纏めるし。
例えば、ちょっと良いレストランに行く時は綺麗目で好印象を与える服装を意識するし。

お高いホテルを利用する際に、ラフなTシャツやジーンズだと気恥ずかしさを覚えたり、気が付いたら「シーン別 ファッション」で検索して恥をかかないよう勉強したりしていたり。

なんならちょっとさかのぼれば、高校生の時は校則通りに制服を着ていたし。

そうやって学んでいくうちに、年相応という言葉も覚えて、単に場をわきまえるためだけではなく「今の自分の年齢に最も似合う服はなんだろう、化粧は何だろう、ブランドは何が人気なんだろう」と年齢別のファッションを検索してみたりして、世間に順応する術を身に着ける。

意識せずとも、生きているうちに、そんな風になっている。

まあそれは当たり前というか悪いことでも何でもない。というか良いも悪いもない、現代社会を生きていくうえでは必要なことだ。そうじゃなきゃ世の中にドレスコードなんてものは存在しない。
外見を常識に合わせるという行為は、波風立てず楽に生きることの役に立つのだ。


じゃあ、「好きなファッション」っていつするんだろう?

私は所謂サブカル系のファッションが好きだ。
メンズライクだと尚良い。

ビックシルエットのシャツに細身のパンツを合わせて、厚底のスニーカーを履いて。
髪の毛には派手目のインナーカラーを入れて、ピアスは両耳に10個以上。
ブルーやブラックのカラコンを着けて、血色を良くする工夫はせず、目周りや唇にはダークでくすんだ赤っぽい色を使い、濃い化粧をする。

流行りも何も全部気にしないで、そんなファッションをしている時が一番楽しい。

ナチュラル系やカジュアル系が嫌いなわけではないし、流行に背きたいわけでもない。
というかむしろどんなファッションも実際にしてみれば普通に楽しいのだけれど、準備の段階からウキウキして外出が嬉しくなるのは、そんな恰好を選んでいる時だった。


でも。まあ。
正直に言えば、いつまでもこの格好が出来るわけではないよな、と思ってもいる。
サブカル系が本当に似合うのは、10代から20歳くらいまでの遊び盛りの若い子で、それを過ぎたら徐々に落ち着いた服装をしなければならない。

柄が少ないシンプルな色合いのシャツとか、綺麗目のワンピースとか、清潔感のある髪型とかナチュラルメイクとか。
世間から求められる服装がそういうものになる日が来る。

口では「別に服装なんて好きな時に好きな風にすればいい」と言いつつも、頭のどこかにはそんな「常識的」な考えがいつもあったことは誤魔化せない。

だって私は大人になったのだから。


だから、一人で出かけていたその日は、いつもの一番楽しい服装をしていた。
オーバーサイズの総柄のシャツを着て、チョーカーと大振りのピアスを着けて、いつも通りの派手目のインナーカラー。赤黒い色を沢山使った化粧をしてふらふらと歩いていた。

空腹を覚える。そういえば朝食をとっていない。
軽く食事でもとろうと思って飲食店に入り席に着くと、近くにはとあるご家族が座っていた。

お父さんとお母さん、それから小学校に上がる前であろう幼い娘さん。

当然だがお互いがお互いの存在を気にすることなど一切無く、坦々と注文して食事をとっていた。


しばらくすると、ふと視線を感じた。
顔を上げる。例のご家族の幼い娘さんが、じっと私を見詰めていた。

体をひねって首を後ろに向けないと私のことが見えない位置に座っていらっしゃったので、確実に「私を」見詰めていた。勿論視線がばっちりと合う。
お母さんがちゃんと食べなさいと諫めるとまた食事に戻るが、しばらくするとまた視線を感じる。

私何かしたか。

ただでさえ人付き合いが頗る苦手で陰キャな私は、無意識下で自分が何かをしてしまったのではないかと戸惑った。正直食事もしにくい。それとも子供特有の何の意味もないけれど何かをじっと見つめ続けてしまうアレなだけだろうか。

色々な考えが頭を巡っていた時。
その答えがあっさりと少女から返って来た。

「ママ見て、あの子可愛い!」

あのこかわいい?

「髪の毛も可愛い!」

何が?
ああ、私を見て言っているな。じゃあこの髪色のことを言っているのか。

少女の笑顔と、人を勝手に見ちゃいけませんと注意するお母さんの声と、自分が置かれた状況を理解した瞬間に、私はちょっと笑えるくらいに浮かれていた。

だって彼女は服屋の店員じゃない。
職場の同僚や上司でもないし、久しぶりに会う親戚でもない。

私の数分の一しか生きていないであろう幼い少女の、何気ない素直な一言で、私は人生で一番自己肯定感が上がった。


そして直後に、ぞっとした。


私はいつの間に自分の中で話題をすり替えていたんだ?
ある程度大人になると、TPOをわきまえた服装をする必要が出て来る。
それはTPOという言葉の通り、あくまで時間と場所と場面をわきまえ、社会を円滑に回すために必要なものだったはずだろう。

それを、私はいつの間に、年齢だとか周りの目だとかそういった話にしていた?

「だって私は大人になったのだから」

自分でも気が付かないうちに染まっていたこの考え方は、自分で選択したはずの一番楽しい恰好への後ろめたさを、頭のどこかに植え付けていたのだろう。

そんなことにも私は気が付いていなかった。
そのくらい、私は年相応になっていた。

それはきっと全くの悪いことでは無い。
無難に生きるために必要なことがあるのだと大なり小なり学ぶくらい私は生きてきた。そのくらいの年月を生き延びてきた。世間を学ぶということが出来た。
それはきっと、誇っていい。

でも、自分で選択したはずのものを、いつか捨てようとしていたこともまた事実だった。


今回私は、名も知らぬ少女の言葉で、自己肯定感と無意識に持っていた偏見への気づきを得た。
そして改めて思う。
他人の意見を気にしなくても良い時間と場所と場面は存在する。
他人の影響で自分を変えるということが、不要なシーンもあるはずだ。

よく考えたらそれだってまた「当たり前」のことだった。


いつかこの格好がしっくり来なくなる日がくるかもしれない。
そもそも趣味が変わるかもしれないし、単純に飽きる日が来るかもしれない。
いよいよ居た堪れなくなってしまう可能性だって否定できない。

でも、その時までは。

今のままでいても良いかなと、そう思った。



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