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【003】「冷めた飯が好き」2022年6月の日記①

Amazonプライムで「トップガン」を観た。トム・クルーズが主演やってるやつ。

最近、続編の「トップガン マーヴェリック」が劇場公開されており、大変な人気を博しているらしい。普段映画を観ない人たちも観に行ったと言っているので、これは本当に人気なのであろう。

前作の「トップガン」の公開は1986年だ。実に36年ぶりの続編であり、ストーリー的にも繋がっている、いわゆる正当続編らしい。36年越しに物語の続きが描かれるというのは大変なことだ。アマプラで観た前作も面白かった。来週あたりには映画館に足を運びたい。

少し前に仕事で小倉の方に行った際に、てきとうに入ったうどん屋が忘れられない。

ごぼうおろしぶっかけうどん。いわゆるクソデカなごぼうの天麩羅が乗っている。

麺が特徴的だった。平べったくて、やや細麺で、それが上品さを演出している。しかしコシがしっかりとあるので、食べ応えがあった。大量のカツオブシを醤油出汁に絡めて食べると絶品である。特徴的な麺だったので流派があるのかと思ったけど、調べてみるとどうやら我流らしい。店舗は小倉にしかない。惜しい。また食べたいけど、流石にただうどんを食べに行くには小倉は遠いのだ。

東京にいたころは「おにやんま」という立ちうどん屋に嵌まっていた。東京に数店舗を構えており、仕事場の近くの駅にも店があったので、ひとりで外出した際はよく帰りに寄っていた。トッピングのとり天が柔らかくてジューシーで絶品なのである。

ふといま調べてみたけど、福岡に支店はないらしい。悲しい。

なぁ、この悲しみは生まれる必要のあった悲しみなのか? ブログをやらなければこんな気持ちにはならなかった。ブログなんて始めなければ良かった……。

食で思い出しけど、福岡に来てから最も変化したことと言えば、ちゃんと・・・・昼飯を食べるようになったことかもしれない。東京にいたころは毎日コンビニ飯か、近くの料理屋で弁当を買うかの二択だった。5対1くらいで前者が多かったので、実質コンビニ人間である。夕飯も同様だった。

料理屋で飯を食うということは、温かい飯を食べるということを意味する。麺類ならば湯気がもくもくと立ち昇るし、揚げ物ならばさくさくと気持ちのいい音がする。これはとても健康的なことである。

しかしながら、(人言うと不快に捉えられる場合があるのであまり口にしないようにしているけれど)私は食に拘りのない人間である。美味しいものを食べるのは好きだけど、好きなものを食べるために遠出をするヤル気は一切ない。

しかし一つ拘りがあるとすれば、私は冷めた飯が好きだ。これは「冷たい料理が好き」という意味ではない。ごぼうおろしぶっかけうどんは冷たくて美味しかったけど、あれは冷たかったから好きなわけではない。

私は「かつて熱かった料理」が冷たくなった後が好きなのである。

・アツアツの揚げ物が冷めてサクサク感を失った後。アツアツのラーメンが冷めて温くぬるくなったあと。コンビニ飯や料理屋の弁当は、かつて熱かった料理の代表格であり、だからこそ好きだった。コンビニ弁当もレンチンをせずに食べることが多かった。

温かい料理は健康的な印象を与える。冷めた料理は、その対向に位置する。数学的には対偶に位置する。冷めた料理は不健康な印象を与えるものだとされている。

たとえば、家のテーブルにラップをかけて置かれている料理。「温めて食べてください」というメモ書きが添えられている。意地の悪い表現を付けるならば、それは食卓が失われた空間である。団欒のない空間。

一方、温かい食事は和気あいあいとした食卓を想起させる。温かい食事、というワードを与えられたとき、私の脳内には湯気をまとった料理と、テーブルに座る家族の姿が思い浮かぶ。

冷めた飯、というワードには「孤独」がタグ付けされている。人によってはそれが暗い過去を思い起こさせるものなのだろう。

でも、僕はそれでも「冷めた飯」が好きだ。なぜなら僕の脳内では「冷めた飯」というワードに、「孤独」はタグ付けされていないから。

僕は料理にラップが掛けられている姿を見たことがほとんどない。そこに「温めて食べてください」というメモが添えられている場面に遭遇したことがないに等しい。

つまり、僕の実家には食卓が失われた日がほとんどなかったのだ。僕が「冷めた飯が好き」と無責任に言えるのは、きっと単なる食の好みではないんだろうな。

「冷めた飯が好き」ってのは、幸せな人間だけが言える台詞だってことだ。

この結論にはブログを書いてる最中に気づいた。ブログをやらなければこんな気持ちにはならなかったかもしれない。ブログを書くのも悪くないってことだ。

(おわり)

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