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悲惨な記憶

頭の整理もつかず病院の側を散歩していると、来年まで生きられないのかとネガティブな想いが錯乱する。

「幼少期」

思い返すに自分の人生は幼少の頃から、やばい状況の連続でした。
幼い頃、外で遊んだ覚えがありません、友達のみんなが野球だの缶蹴り、鬼ごっこだと公園を走り回っていたとき、自分はいつも家でどこからか拾ってきた雑誌や漫画を読んでいました。

小学校に通い出すと突然、胸が苦しくなる、肺を針で刺されたよ うな痛みが続き、立っていることもできない。息を吸うと痛みが激し くなり我慢をすると目の前が真っ暗になってしまう。
当時は子供の医療費も控除などという制度はなく医者にも連れて行ってもらえませんでした。
「俺はあまり、永くは生きないな」そんなことを、いつも考えていたような気がします。

「小学生時代の悲惨な思い出」
昔に遡ると小学生時代に良い思い出はありません、それどころか、うち
の家は極貧生活を送っていました。
父親が脳の病気に罹り、入退院を繰り 返していたせいで、家計は常に火の車、毎日同じ服を着ていたため、服一つしかねえのかよとバカにされたし、悔しくて始めようとしたクラブの剣道も防具が買えずあきらめました。
子供六人を育てるには、母親だけでは、如何ともしがたい状況のなか、ある日父親の気が触れて、突然、表に走り出し道路に飛び出した為、車に跳ねられるという事が起きました。
そして命は助かったけれど、長期入院を余儀なくされました。
母は家の借金が重なり夜も働くことになりました、自分たち兄弟は寂しさから夜中までテレビにかじりつき、睡眠不足で学校を休むことが多かったです。
今でも、兄弟で作った「水団(小麦粉だけを溶かし固めたも の)」の味は忘れられません。

「妹の死」

うちは自分を筆頭に男四人女四人の八人兄弟でした
(一人死に一人養子に出したので現在は六人)最後に産まれた妹はマキと呼んでいました。
昭和四十五年頃だと思いますが家の経済事情は最悪で毎日水団か白飯に醤油か塩をかけて食べていました。
一番下の妹は、ベッド代わりに薄暗い押し入れに寝ていました、粉ミルクが買えず、ご飯を煮込んで、その白湯を飲ませていました。
日に日に痩せていく妹を心配し近所からもらったハチミツなどを、 溶かして重湯に混ぜたりしていたのを覚えています。

こんな、駄文を読んでくださり貴方は仏様ですか?