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「今に生きる」とは悟性に他ならぬ

 おなじみのテーマです。
 以前の記事では私は今を生きるためには瞑想せよ!と強弁しましたが、今回の記事では「悟り」との関連性をピックアップしてみたいと思います。

 私が「今」に生きれない理由のひとつには、「不足に注目してしまっている」というものがあります

・休日に、仕事のことを考えてしまう。仕事中は休日のことを考えてしまう。
・映画館や美術館で他に来ているお客さんのおしゃべりが気になってしまう。
・布団で寝ようとしていると、頭が痒くなる。掻いたら次は足が痒くなる。次は外の音がうるさい。ノドが乾いてくる。お茶を飲んだら、今度は明日までにやっておきたいことがでてくる
・月に叢雲、花に風

だなんて笑い話もあるあるあるではないでしょうか。

 「今を生きれない」と、ちょっとした不満が本来あるはずの幸せを台無しにしてしまいます。しかし、そんなのもったいないし、つまらないし、損です。世の中に完璧なものなんてないわけですし、日常の幸福の中にあえて不足を探すだなんて、"いきすぎた潔癖症"のようなものです
 月収何十億と行くような人でさえ「死にたい」とつぶやくのです。(結局、「幸せな人」とは「幸せを感じている人」なんだ、だなんて論法です。)
 ともすれば、不足をいちいち潰していこうだなんて、永遠になくなるはずのないヨゴレやホコリを、必死にキレイにしようとしているうちに一日が終わっているような悲しさがあるわけです。

 「不足に注目してしまう」という考え方は、スピリチュアル・マインドフルネスといった思想でよく取り上げられます。私がこの記事で伝えたいことと趣旨がズレてしまいますので深くは触れませんが、「不足に注目してしまう」ことへのカウンターは「今が完璧だとする」「望みは既に全て叶っている」という考えを持つことになりますネ。

 ところで、「わざわざ自分から見出した/発明した不足」は「煩悩」と対応していると私は考えます(私は、こと瞑想においては「雑念」とも言い換えています)。そうして、かなり安直に言えば「煩悩がなくなれば悟りである」、と説明できます。

 そう、すなわち「今に生きる」ことへの試みこそ、「悟り」へ至るための道と同一視できるのでは、と、早合点気味ではありますが私は考えます。

 言い換えると、「今に生きる」のは悟り開くのと同様に難しいことだ、ともいえるかもしれません(笑)。
 私は、「今に生きる」なんて並大抵の人間にできることではないんじゃないか、という結論もありえると常々感じております。

 今回の私の気づきには以下のような大きな意味があります
 すなわち、これまで人類史上でされてきた「悟り」にまつわる議論を、そっくり私の「今にいきる」試みの文脈に引用できるワケです
 お釈迦様の教えは「今」に生きるために使えるワケです。(実際、お釈迦様の教えのひとつに、未来も過去も無い、あるのは今だけだ、だなんてモノもあります。)

 ともすれば、仏教を紐解くことに新たな意味を私は見出せそうです。ここで記事として扱うにはさすがにキリがなさすぎますが、どうしてもネタがなくなれば、仏教ネタも持ち込むかもしれません。(たはは)

 さて、以上で記事の本旨はオシマイですが、若干物足りない気がするので仏教関連で役に立ちそうな逸話をひとつだけ。

 ある人は、あるお坊さんに欲望・煩悩を消せないことを訴えたようです。「どうしたら無欲のための道なんて進めるのだ、あなたはどうしているのだ」、と。
 するとお坊さんは呵々と笑い飛ばしたようです。私がこの道に入ったのは欲しいものを何もかも得た後の話だ何もかも手に入れても、少しも私は"得て"いないと気づいた。"得る"とは何かを探しに来た。だから、欲望、煩悩を全て満たしてから仏門の入りなさいと。
 なかなか納得のいく話です。「無くても幸せ」とは、決して思い通りに行かない者の逃げとは限らないワケですね。自分の不足に納得できなければ、あえてカネでも名声でもなんでも手に入れて、「(これは自分が欲しかったものとは)違う」と自ら実感してから、仏門に入ればよい。
 なかなか豪快なワザですが、「今」の自分は別の何処かの自分が夢想してでもほしい「今」である、「今」こそが最高なのである、と気づくには、正統派なアプローチだとも思います。

 それでは今宵はここまで。また会いましょう~

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