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自己肯定感というBuzzWord:その9

●もしもお勉強がもっとできない子だったら(前編)

 その8 「うちにはピアノが二台あった」の続きです。柱のふたつめ。「フツーのお勉強」について。

 自分の肯定感を支える1つ目の柱であった「音楽」について、もしもこれがもっともっと「できない子」だったら、父はどんなふうだったろう?と想像することもあります。できないってのは、標準より下手クソって意味ね。

 ちょっと不満だったかもしれないです。とはいえ、父はプロの音楽家とかではなかったから、子供の肯定感を傷つけるほどの不満じゃなかった可能性のほうが高いです。そんなものかなと諦めて、それでも一緒に音楽をやることを楽しむことができたなら、きっとそれなりに満足してくれたでしょう。失望まではしない。そのことで、子どもの肯定感は保証されます。それなりっていう価値観は、ほんとーーーーーに大事なんですよ。
 あんなにいい先生につけて、お金をじゃぶじゃぶ使ったわりには、父のフルートのピアノ伴奏をするぐらいにしかならなかった(ごめんよ!)わけですが、これ以下だったとしてもまあいいじゃん?

 そもそも、なんだけど、自分を肯定するにあたって「優れている」必要なんかないわけです。これについてはあとでまたゆっくり考察しますが、これは自分の親がどうだったかって話であって「こうあるべき」って話ではないんですわ。父はなるべく「優れたわが子」を望んだ。その当たり前にも見えるネイチャーが、非常に強かったってことです。

 それで。柱の2つ目であるところの「フツーのお勉強」に関しては、音楽のようにはいかない。正直に言うと、自分が何らかの理由で勉強が好きでない子供だったら、と想像するとぞっとします。父はそれには1ミリも妥協しなかっただろうからです。

 フツーのお勉強(何度もいいますが学問とか、研究などのインテリが関わるモノではなくて、単なる学校の学科ね)は、大変相対化しやすい事柄で、音楽とちがってだれもがやらねばならないネタで、しかも教師であった父にとっては「専門分野」だったので、子供たちは逃げ場がありませんでした。

●教師の子供は広告塔?

 
 教師の子供はかなりの確率でグレます。これはホントです。その理由をあたしは肌でわかります。教師は自分の子供が「優れて」ないと安心しないのですわ。簡単なことができないとピリピリとそのへんの空気にトゲが生じました。そのピリピリは、「子供のため」とかではなく、「親のメンツ」が痛むピリピリなのです。全然正義でも愛でもないっす。

 タチが悪いことには、フツーの勉強なんてものは、そんなにどえらい難しいことなどなく、子供が真面目であるぐらいのことでなんとかなることが多いという事実があります(単なるバカ真面目でOK。勉強嫌いでも無問題。)。地頭が特別良ければ、その真面目すら不要です。勉強なんかしたことないけど困ったこともない、という子が義務教育相当のときには数%いるでしょう?さらに、関わる教師の質が良ければ、ある程度健康的なところに届きます。少なくとも何か特殊な事情がある場合を除けば「勉強が不得意な子」とかにはならないはずです。

 となると、わが子が「できない」ってことは、教師にとっては「大恥」なんでしょうね。だからそのピリピリには、自己嫌悪成分が含まれています。自己嫌悪成分があんまり高まると、親は無理に押し付けてでも成果を出させようとするでしょう。
 押し付けたらやれるものもやりたくなくなる、ってのがコドモというものですが、そのへんのコントロール力には優れたところがあるはずの「教師」が、やっちゃあいけない「押し付け」に走ってしまいかねないのが、わが子のケースなわけです。感情が入って、ききーっと目がつりあがるからです。

 そもそも「もしも」ってなことを考えたって無駄な話かもしれません。親だとて、どんな子供を持つにしろ、親業は初めての経験だし、どんなに才能のある教師でも、試行錯誤しながら自分も成長しているのです。この人生は一度ですから、仮定と現実を比べることはできません。子供に発達障害(この言葉は当時の日本で一般的ではありませんでした)があったとしたら、など、仮定そのものは無限に可能であるにしろ。

 しかし、「もしも」がどうあれ、実際教師の子が「できない」と、そのピリピリがやってくるのは避けられません。場合によっては「できても」もっともっとを望まれる場合もあり、これは教師の子供の宿命なんでしょう。
 塾の子供はいわば「広告塔」ですから。ある程度できてくれないと困るのです。そんなの知ったこっちゃない・・・・って風にはならないです。ほとんどの子供は親を喜ばせたいと思うはずだから。

 それだけにちょっとでもボタンのかけちがえがあると、教師の子供はピリピリの毒にやられて傷つき、苦しみます。それが自己肯定感を刈り取る事になりかねないし、そうでなくてもグレるリスクは高いと考えます。
 教師の子供で、すごく頭がいいのに、自己肯定感が損なわれている人もいます。できて当たり前で、ほめてももらえない、もっと上を要求される、ということを繰り返した結果かもしれません。理不尽なことです。
 
 グレるってのは、つまり、理不尽への警報であり、子供にとっては安全装置だと考えます。親の欲望が間違っていることを知らせて、子供が自分の心が壊れないように、わが身を守るための手段のひとつだと、あたしは解釈しているのです。命を守るために家出する子もおります。

 わが家ではきょうだいふたりとも、グレてはおりません。そういうことにならずに済んだのは、単なるラッキーではないでしょうか?ピリピリが子供を壊すことがないぐらいにはできて、教師としての父のウデも確かで、子供らをみっともない状態にしないで、義務教育期間に限り、なんちゃって秀才に擬態させておくことぐらいできたからです。それは要するに幸運ってやつでしょう。
 あたしは「もしも」できなかったら、という仮定の中の自分の危機を想像して、自分の子供時代が本当にただのラッキー寄りかかっていたことに戦慄するわけです。あたしなんかよりうんと頭がよくたって、違うレベルのピリピリにやられてポテンシャルごと壊されてしまったコドモなんか、全国にいくらでもいるだろうとも思っています。

 父も母も地頭には恵まれていましたが、大秀才とかじゃないです。その子供がちゃんとDNAを受け継ぐとは限らず、父のきょうだいで言うなら秀才だったのは父だけのようですから、確率がけっこうヤバめ。父の兄のひとりは超ド級の困ったちゃんで、今の言葉で言うならおそらく発達障害です。そういうものに生まれる可能性は誰にだって、あたしにだってあったのです。
 

 教師としての父には大変な「気迫」があり、生徒よりもその生徒ができるということを信じているのでした。問題のある生徒もたくさん預かっていたし、成果もあげていました。だから基本「ボクなんかどうせ」と言って逃げることはできません。これは誰ひとり、生徒になったら最後、絶対逃げらんないのです。父の生徒はみんなほんとにポテンシャルを伸ばし、成績が上がってゆきました。死んだときにはそのようにして成績をあげてもらった”恩義”?を感じている、もと教え子のお坊さんにお経を上げてもらったんですよ。冗談みたいだが。まして実の子供ですから、逃げるとか無理。

●君の良さは僕がわかっているから

 さて。あたしは逃げる必要が、結果的にはなかったけれども、もしも逃げないとアブナイぞ、ってぐらいにピリピリの毒が高まる可能性だってゼロではなかったと思います。父との関わりのなかには、大変トラウマティックな事件がいくつかあるのです。

 あたしは最初の子供で、父の塾が軌道に乗っている時に小中学生時代をくぐることになったので、「広告」たる自分の立ち場はわかっていました。それで、前にも書いたように、怖いとしか言えないあの父の家の中でサバイバルを実現するために、必死でした。反抗してグレるという安全装置を使うのは最後の手段で、わが家の場合は反抗したら潰されるかもしれんというぐらいに父が強すぎたので、そんなリスクを犯したいとは思ったこともありません。

 そうやって、お勉強が好きでピアノが弾ける父好みの(だけどちょっと肥満していて見かけがダサめの)娘をやっていた頃のことです。父の親友とされる同業者(つまり別の塾の塾長)があたしに言いました。
「君のお父さんより、ボクの方が君の良さをわかっていると思うよ。いつかもしすごく苦しくなったら、ボクのところに来なさい。ボクがお父さんを諭してあげるから」
 あたしはその時小学校の中学年だったかと思います。

 つづく。

おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。