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母がいなくなった12月に

 バーチャル孫ら、ちょっと聞いて。
 SYNDIばーちゃんが縁起でもない墓標にちまちま刻んでおきたいことと、実際に刻んどいて「意味がある」ことには隔たりがあるんだよね。
 だから、どうしよっかなあ、きちんと賢く編集するって大変じゃな、とか、そういうこと考えていたら、それだけで頭が沸騰して具合が悪くなっちゃったの。
 
 あと、ご存命の関係者のプライバシーとかに気を使っちゃう性格なもんで、(無駄な気遣いと言われているけどもな!)そういうところに見えない気疲れあるんよ。しかし!

人間は大切なことをいつの間にか忘れる

 人間がどのぐらい忘れるか、忘れたことを都合よく頭の中で編集するか、本当は思い出したほうが幸せなことであっても、容量オーバーにより、すみっこに追いやってしまっている思い出がどのぐらいあるか、ばーちゃんは身にしみちゃってるんで、やっぱ刻んでおくことにするわ。

 母が亡くなった3年前のことを。
 正確には、2017年に母が亡くなったあとに、まだいろんなことを覚えていたばーちゃんが書きつけたものを、少々整えて紹介します。

 Facebookのノート機能にアーカイブされてる原稿の一部ですわ。せっかく掘り起こしたので、また見えるようにここに置くんで、孫らもお墓まいりのつもりで読んでやって。
 ばーちゃんのおかあちゃんは、亡くなる直前、こんなだったんよ。

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写真は、既に取り壊されて無くなっている母の家の、グランドピアノがあった『音楽室』の、一角に設えてあった『お仏壇』に、飾ってあったかつての愛犬タロの肖像オブジェです。(←センテンスがなげーよ)
SYNDIの友達の木工作家にオーダーした品で、タロにクリソツです。

母がいなくなった12月に

 2か月半の入院を経て、12月早々に母が亡くなり、あたしはなんとも言い難い落ち着かない宙ぶらりんの気分の中で「終わってしまったこと」を咀嚼しています。

 咀嚼しながら気持ちを休めているのだろうとは思うけど、でもまだ日常に戻ったとはとても言い難い。悲しいってことは止めようがないし、だからといって命のありように対して個々の人間なんてほんっとに無力ですしね。
 いわゆる諦観ってやつが熟して来るのを待つしかないんでしょう。89歳でした。立派な長生きの域ではあります。


 母についてなんか書くことが「クスリ」になるかなあ、とも考え、ちょっとやってみます。

 考えてみたらあたしは2005年ぐらいにかなりの量、母との関わりを書き起こしており、今となっては書いておいてよかったなあと思うんですよ。なぜなら、それをやるにあたって、当時改めて、母があたしが子供の頃に語り聞かせてくれていたことを、本人に質問したんですよね。
 記憶違いがけっこうありました。

 それが12年後のついこの間、病院の母のそばでおしゃべりをする時には、なかなかふさわしい「ネタ」として機能してくれたような気がするからです。

台所で語られたフォークテールズ


 母が子供の頃のことをあたしに語っていたのは、主に台所で、あたしは多分洗い物かなんかをお手伝いしていたんじゃないかと思います。小学生から中学生にかけて。もっとあとになってもおんなじような話を飽かずに聴いていたかもしれません。


 母親が子供に、自分が子供の頃のことを語るのが普通の事かどうかあたしは知りません。うちではそうだったってことです。
 同じ話が繰り返し語られましたが、あたしはあまり「その話はもうきいたよ」とか言いませんでした。「きいてあげている」という意識もありませんでした。ただ、「大人って同じことを何回も言うんだなあ」と思っていただけです。


 北海道の田舎で育った母の話の中には、カラスが語るとか、蛇は人語を解するとか、ヒトダマをみたとか、炭鉱に生き埋めになったおじさんがスズメに乗り移ってやってきたとか、いわゆるフォークテールズのようなものがたくさん含まれていたし、母の夭折した兄のエピソードも、今はもういない人の話であるだけに、何か本当に物語の中のような色合いをしていました。
 
たとえ実体験だとしても、繰り返し語られる話は、そのようにフォークテールズの仲間に溶けてゆくものなのかもしれません。


 母の意識は2か月半の間、ずっと明晰であったわけではないのですが、最期までさしたる混濁も混乱もなく、疼痛をコントロールするための医療系麻薬の影響でぼんやりしている時間の間に間に、いつも通りの明晰な彼女を垣間見ることができていました。

 しゃべることが億劫になってゆき、何か観ることも、考えることも難しくなってゆく中で、あたしが昔話を思い出して語ると、時には「そうだったそうだった」と受け答えをしていました。時にはもう疲れていて無反応でした。

 だけど何だかそういう話こそが、もうベッドの上から動けなくなった彼女にはふさわしいような気がして、あたしはいくつか見繕って語ったり、母があたしにそうした話を聴かせていた頃にあたしが家で歌っていた歌なども歌いました。

 新しい刺激などもう要らないでしょう。考えなければ理解できない事ももう要らないでしょう。だけどきっとお話は必要だからと思っていました。

 母はいちど私に、「ヨシコは子供の頃に戻してくれるのねえ」と言っていました。

つづく→「どんな子だったの?」https://note.com/syndi/n/ncf9cecec0b09?magazine_key=mb9e492a9f4bf


おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。