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食べる赤ずきん Edible Red Riding Hood


昔話の「食べる」はカロリーの摂取ではない

『赤ずきんちゃん』の話が、もともと昔話を元にしており、他の昔話同様に、非常に象徴的なものだ、というのは、みんな「言われてみれば」と膝を打つことじゃないかと思う。
 込められた象徴は数多いけれども、ここでは「食べる」って話をしたい。

 「食べる」とか「食べられる」というモチーフがかなり興味深い形で出てきているのはご存知の通り。赤ずきんもおばあちゃんもオオカミに食べられるんだが、なんとその後、まるで生まれ直すかのように、オオカミのお腹から出てきちゃう。不思議で一番心惹かれるディテールじゃないかと思う。

 これに限らず、昔話の「食べる」はそんなに悪いこととは限らない。食べる、という行為が何を象徴するか、といったら、殺人のような犯罪や、勝ち負けや、淘汰ばかりではないからだ。

失敗は残酷ではない

 たとえば『3匹のこぶた』というお話があって、あれのもとになる昔話では、ワラで家を作った一番上のお兄さんブタも、木で家を建てた次のお兄さんブタも、オオカミに食べられてしまうのだ。ところがレンガの家を建てた末っ子のこぶたは家の頑丈さに守られて食べられずに助かる。用心して努力して大変な思いをして建てたレンガの家だからそうなる。これは昔話によくある、知恵と努力を礼賛する物語だという一面があるわけだ。
さらにオオカミはエントツから家に侵入しようとして、鍋の熱湯(煮えたぎった油というバージョンもあったかと思う)に落下し、死んでしまう、ということになっている。末っ子はあくまでも賢く、賢いものは強いのだ。だから怠惰なものは食われ、敵は倒される。

 ここではオオカミはぜひちゃんと死んでもらわないとお話が終わらないので、あたしとしては、やけどをしたオオカミが「アチチチ」とかのんきなことを言って逃げてゆき、懲りて来なくなった、なんていう結末が「めでたしめでたし」だなんて全然思えない。熱湯に落ちたのにまだ生きているだなんて、それじゃオオカミは不死身のモンスターではないか。また腹をすかせるに決まっている。こんなに絶望的な結末ってないだろう。

 だから鍋に落ちてお陀仏になってくれなかったら、レンガの家を建てる努力は無駄でした、ってことになってしまう。
同様に、お兄さんたちが家を吹き飛ばされたあとにレンガの家に逃げて来て助かるなんてアレンジも、とんでもないと思っている。だったら利口で真面目な弟がいれば人生安泰だ、という教訓にしかならないではないか。「自分は楽な家を建てていざとなったら賢者を頼ろう」という話じゃないはずだ。
 オオカミが迫っているのにドアをあけて兄さんたちを中に入れていたら、いかにレンガの家だとて、めっちゃリスキーなのは言うまでもない。

 昔話を「とかく残酷だ」として、へんなアレンジをすると、かえって、どんどん怖くて理不尽な話になってしまう。もちろん、弱いものを助けるべきだという教訓を含む昔話だってあるけど、これが言っているのはソコじゃないと思う。

オオカミだって食べられる

 そもそもなんで末っ子はこんなに頭がよくて努力家なのだろうか?そりゃ、上の兄弟を見てなにかと学んで来たからに決まっている。ひとりで最初っからあったまいいー、というわけじゃないはずだ。
 あるいは、上のお兄さんたちは文字通りのお兄さんではなく、ひとりの人間の「失敗」や試行錯誤の象徴だと見ることもできる、と、ものの本で読んだ。つまりこの3匹はひとつの人格だっていう解釈も可能だという説だ。

 さあて。オオカミはなぜ「鍋」に落ちるのか。それはオオカミがこぶたに料理され、最後には逆に食べられるからなんだよね。
このお話は、お兄さんたちを食べたオオカミをさらに食べる、というところがものすごく面白いところで、こうして末の弟は最高の知恵と教訓と強靭さを得る、というのが“キモ”なんだと思う。

 だから、「食べる」というのは、ここでは文字通り知恵をからだに取り込むという意味なのだ。食べられるということも、「一体化」「統合」することの象徴だろう。人生2回ぐらいは失敗するけど、3回目には強くなれる、ということでもある。上のお兄さん2匹は失敗するが、それは食べられて血肉にかわり、末っ子の中で生き続けるのだ。

おばあちゃんを食べる赤ずきん

 ちなみに『赤ずきん』の原型とされる昔話でも、女の子はおばあちゃんを食べることになっている。
ここではオオカミはおばあちゃんを「丸呑み」になんかしない。食べ残して、血を瓶につめ、肉は調理して戸棚にいれておく。
 そして、やってきた赤ずきんに、「ぶどう酒があるからお飲み。戸棚には肉があるからお食べ」というのだ。

 おばあちゃんのからだを飲み食いした女の子は、にわかに賢くなり、これがオオカミであっておばあちゃんじゃないことに気がつくのだ、とあたしは思う。

#エッセイ
#赤ずきん
#食べる

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このnoteは下記の恩田好子の個展と連動しています。


おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。