源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか-音楽美学と心の哲学-』読書ノート⑦
前回。
第7章 環境音から音楽知覚へ
環境音と音楽は何が違うのだろうか。
音楽とは何か
芸術としての音楽
音楽と音楽でないものはどこで区別されるのだろうか。
芸術家は既存の「芸術」概念から逸脱した新しいものを作ろうとする傾向にある。例えば現代アートなど。(デュシャンの泉なんかは典型的だ)だから、音楽と音楽でないものに明確な境界線は引けないのではないか。
→二つのカテゴリーのうちどちらに属するのか判定しがたい境界事例があること自体は、その二つの区別が全くないという考えを支持する理由にはならない。そして音楽にも同様のことが言える。
合目的性の鑑賞
ケージは4:33によって、音はどこにでも存在し、そこから音楽はどこにでも存在すると主張した。
しかし、これには問題がある。それは、「音楽」というカテゴリーが不要になってしまうこと、そしてわざわざ「音楽」という言葉を使う必要がなくなってしまうことだ。
また、仮にこの主張を認めたとしても、その中でも「より音楽らしいもの」というカテゴリーはできるだろう。
では、環境音と典型的な音楽の違いは、何によって区別されるのだろうか。
その一つは、人が介入するかどうかである。
芸術作品は、自然物とは異なり、人工物だ。
聴取に関しても、環境音と音楽には違いがある。セオドア・グレイシックは、カントの「合目的性の鑑賞」を引用して、人は他人の行為及び行為の所産に非常に敏感であることを説明する。
まとめると、音楽は環境音とは異なり、人による行為の所産であり、他人の行為の所産として鑑賞されるものだ。芸術としての音楽と自然物である環境音はこの点で異なる。
音楽パフォーマンス
音楽とマルチモーダル知覚はどのように関わるのか。
まず、音は物体の振動だ。しかし、どこまでを音源として含めるべきか。フィリップ・アルパーソンは楽器だけでなく、演奏者の身体も音楽の一部であるという。これを踏まえれば、音楽と同一視される出来事は、演奏者が楽器を使って行うパフォーマンス全体だ、ということになる。
ちなみに、デイヴィッド・ディヴィスによれば、パフォーマンスは、鑑賞者から評価されることを意図し、そして、その意図によって導かれている行為である。ここで重要なのは、鑑賞者の評価が重視されている点だ。
このパフォーマンスの鑑賞は少なくとも二種類に分けられる。それが
①生演奏の鑑賞
②録音物の鑑賞
である。
この両者の違いは、生演奏がマルチモーダルに知覚されるのに対して、録音物はそうではない、というものだ。(谷口文和は、レコード音楽とライヴ音楽は異なる芸術だ、といっている)
芸術作品の形式が違うのであれば、鑑賞方法も異なってくるだろう。そして、マルチモーダル知覚はライヴ音楽の鑑賞に関わるものだ。
マルチモーダルな音楽鑑賞
マルチモーダル知覚という観点からすると、視覚情報がライヴパフォーマンスの美的性質に緊密に関わってくる。
指揮者の身振り、視覚に影響を与える奏法(ウィンドミル奏法)などの視覚情報は、聴覚情報に影響を与える(マガーク効果のように)。
演奏された音楽がもつ美的性質を適切に捉えるためには、それがもつ非美的性質をすべて正しく捉えなければならない。そして、パフォーマンスがもつ非美的性質には視覚的特徴も含まれる。そうすると、視覚的特徴を見落として下された音楽についての美的判断は、絵の一部を見落として下された美的判断と同じく、音楽が持つ美的性質を捉えそこなっている誤った判断だということになるだろうpp.133-134
このことから、パフォーマンスを行う側は人間の知覚のあり方に気を使わなければならない、ということが言えるだろう(そして映像と音源を切り離したものがレコード音楽である)。
おそれいります、がんばります。