田邉健太郎『「指し示されたタイプ」的存在者としての音楽作品ージェラルド・レヴィンソンの音楽作品の存在論に関する一考察ー』まとめ

読んだのでまとめる。

ざっくりした内容

ジェラルド・レヴィンソンが提唱する、音楽作品は「指し示されたタイプ」であるという説の概説と、それに向けられた批判の検討。

はじめに

分析美学における音楽作品の存在論では、音楽作品はどのような存在論的カテゴリーに属するものとみなすべきか、が論争の一つになってきた。

例えば、


・演奏の融合体と考える立場
・作曲家の作曲行為と考える立場

など。

レヴィンソンは、音楽作品の反復可能性と聴取可能性に着目し、基本的にはウォルハイムなどが主張する「タイプ説」を支持。さらに、レヴィンソンは創造可能性と文脈依存性も重視。


しかしこれでは、抽象的存在であり想像されることが不可能なタイプとして音楽作品を理解できない。


そこで、レヴィンソンは「指し示されたタイプ説」を提起する。

第1節 「音の構造」説に対するレヴィンソンの批判

レヴィンソンは、ウォルハイムなどが主張した「音楽作品は構造的なタイプ的存在者である」とする考え方を基本的には認める。


ではなぜレヴィンソンは、音楽作品は構造的なタイプ的存在者であるとする考え方を認めるのか。

それは、タイプ的存在者として音楽作品をみなすことにより、

・タイプの事例は個々の作品の演奏のうちに見出すことができるという点において、音楽作品の反復可能性を説明することができる

・タイプはその事例を通して聴くことが可能であるという点において、音楽作品の聴取可能性を説明できる

からだ。


では、音楽作品はどのような種類のものか。音楽作品を音の構造それ自体に同定する立場を音の構造説という。


音の構造説


・音の構造は、あらゆる時点で存在する純粋な種類のタイプである


・音の構造とは、「音高や音色、持続といった音の要素の集合の連なり」であり、事実上の数学的対象である


・音の構造は、音高やリズムのみならず、音色やダイナミクス、アクセントなども含むーーすなわち、音が所有する全ての純粋な聴覚的性質を含む


この音の構造説をレヴィンソンは批判する。


1 音楽作品の創造可能性の観点から


音の構造説によれば、特定の楽曲は特定の音の構造に同定される。であれば、その作品における特定の音の構造は、その作品が作曲される以前にすでに存在していた、ということが言える。元から存在していたのだから、作曲家が作品を創造する(存在へともたらす)ことは不可能だ。

だがこれは直感に反する。レヴィンソンは、作曲家などの芸術家が制作活動以前に存在していなかったものを存在へともたらすと考えることは正しいし、われわれが作曲行為に付与するステータスや重要性、価値などはそのような「以前には存在していなかったものを存在へともたらす」という信念から派生している側面もあるとした上で、音の構造は作曲家によって創造されることは不可能だが、音楽作品は作曲家により創造されるものであるという。よって、音楽作品と音の構造を同一視することはできない。


2 文脈依存性の観点から


レヴィンソンは、音楽作品が作曲された「音楽的ー歴史的文脈」に依存すると考える。音楽作品が作曲された文脈に依存するとは、「異なる文脈において作曲された作品は、たとえ音の構造が同一であっても異なる作品となる」ということであり、それを「細かな個別化」と表現する。


ではなぜ音楽作品は音の構造よりも細かな個別化を要求されるのか。


1 われわれの日常的な音楽作品についての語りは、現に作品を音の構造よりも細かく個別化(作品に関する実践や語りex.批評など)しているから。

レヴィンソンは、「音楽作品はわれわれがそれらに付与する美的属性や芸術的属性を担うことが出来るほどに、十分特定されたものでなければならない」と考える。そしてその実践や語りが作品の美的属性や芸術的属性を付与するのであれば、その実践や語りが基づく特定の文脈に作品も依らなければならない。


美的性質は、高階の、典型的にゲシュタルトのような知覚可能な性質のことであり、例として優雅さ、均整が取れていること、悲しさ、威厳など。そしてこれらは音楽的ー歴史的文脈に依存するとレヴィンソンは述べる。


芸術的性質は、芸術的背景に依存するのではなく、内属的にその関係性に関わる事柄。独創性、腕がいいこと、影響力を持つこと、視点の特有性など。芸術的性質は作品(絵画)それ自体のうちに知覚できるものではない。


2 音楽作品が所有する美的性質・芸術的性質は作曲家や作曲された時点の音楽的ー歴史的文脈に依存するから。

音楽作品を音の構造とみなせば、異なる作曲家が異なる年代において同一の音の構造を作曲したと仮定したとき、それは同一の音楽作品を作曲したということになる。しかし、同一の音の構造を持つにしても、異なる作曲家、異なる年代であればその作品同士がもつ美的性質・芸術的性質は異なる。よって、同一の音の構造を持っていたとしても、同一の作品であるとは言えない。であれば、音楽作品は音の構造それ自体ではない


レヴィンソンは、音楽作品は確定した美的性質・芸術的性質をもつと考える。それは正しく知覚、あるいは注意を向けられる時に持つと思われる性質を真に所有するという。そして、作品が作曲された音楽的ー歴史的文脈を背景として聴くことが正しい知覚であるとレヴィンソンは考える。それは、芸術作品は、本質的に歴史の中に埋め込まれた対象であり、それが現れた生成的文脈から離れては、芸術の地位も、確定した同一性も、明確な美的性質も、一定の美的意味も持たないものになるからである。

第2節 「指し示されたタイプ」的存在者としての音楽作品


これらの考察を踏まえ、レヴィンソンは音楽作品を次のような存在者として提案する。


t時ーにおいてーXーによってー指し示されたものーとしてのー音/演奏手段の構造(S/PM structure-as-indicated-by-X-at-t)


Xは特定の人物(作曲家)であり、tは作曲された時点を表す。作曲家は楽譜を創造することによって、音/演奏手段の構造を指し示す(固定する、決定する、選択する)ことが一般的である(これについて説明は省略)。

このように、音楽作品は指し示されたタイプであると考えることによって、音の構造に同定することではすくいとることができない特性を充足することが可能になる、とレヴィンソンは考える。


第3節 「指し示されたタイプ」説に対する批判とそれに対する応答


批判1 指し示されたタイプは、レヴィンソンが望むような存在論的特徴を備えてはいない(Kim,Jaegwonの見解によれば特定の時点を構成要素としてもつものはタイプではなく出来事であるから、タイプが充足しうる反復可能性と聴取可能性を指し示されたタイプは充足し得ない)


1への応答 既存の存在論に無理やり指し示されたタイプに当てはめる必要はないし、構成要素として特定の時点と個人を持つにしても、ウォルハイムがいうところの類的存在者=事例を持つことが可能であり、具体的な仕方で例化されうるものとして射止めるべきである。(これはレヴィンソン自身ではなく著者か検討した応答)


ここに、音楽作品を既存の存在論に当てはめることと新しいカテゴリーに同定すべきだという方法論上の対立が見て取れる。


2 作曲家が音の構造を指し示すことによって、新しい対象が存在し始めるのか、という疑問(一般的な指し示し関係とは異なる特徴は何か)


2への応答 まだ反論し得ないが、応答の示唆はできる

以下が批判の検討。


アンダーソンのタイプ分類:規範タイプと記述タイプ


規範タイプとは、不適切に形成された事例を持ちうるタイプ(ライオンと、片足を失ったライオン)


記述タイプとは、規範タイプと同一の性質によって定義されるものの、その性質を規範的なものとして持たないタイプのこと


アンダーソンによれば、作曲家が音の構造を指し示すということは、記述タイプ的存在者である音の構造を規範的なものとすることによって、規範タイプ的存在者である音楽作品へと変化させることである。音の構造を規範的なものにするということは、その音の構造がもつある特性を、適切に形成された演奏(事例)が生じるために要求されるものとして宣言することである。


単純な指し示しと芸術的指し示し


単純な指し示し:特定の対象に注意を向けることが目的であり、それは純粋に束の間のものである


芸術的指し示し:作曲家は可能的な音の量やとしての音の領域の中から特定の音の連なりを選択している。それにより、作曲家はその音の連なりと専有関係に入る。芸術的指し示しは、熟考された選択、専有の行為、是認の態度、そして規則ないし規範の確立を通常は含んでいる。

課題

指し示されたタイプ的存在者である音楽作品が存在へともたらされるのは、選択、専有、是認、規則の確立のどの過程なのか。また、音の構造を規範的にするのは、どの過程においてか。音の構造を規範的にすることと、音の構造を占有することはいかなる関係にあるのか。そして、芸術的指し示しを通じて存在へともたらされた指し示されたタイプとは、いかなる存在論的特徴を持つのか。

これらに答えることで、第2の批判について応答できるようになる。そして、これらの考察は音楽作品だけでなく、人工物の存在論についても意義を持つだろうと著者は考えている。

感想

指し示されたタイプ説について分かりやすく説明されていて、レヴィンソンへの理解が進んだ。音楽作品が歴史的文脈に依存する、という文脈依存性については全面的に同意。

ふと思ったのが、歴史の不安定性を考慮するとどうなるか、ということ。例えば、歴史は様々な史料などから推測されるものであり、新しい発見があれば歴史は変化していく(例えば鎌倉幕府はもう1192年ではないとする説もある)だろう。

であれば、もし現段階で正しいと思われている歴史的文脈によって聴かれ、感じられていた「正しい」美的性質や美的経験は歴史の変化によって変わりうるだろう。何せ、文脈に依存しているのだから。そうだとすると、どこまでいっても歴史的に確実性のない作品関して言えば「正しいと思われる」という範囲を出ないのではないか、と思った。これについて論じている文献ってあったりするんだろうか。気になるところ。

ただ、全面的にはレヴィンソンの音楽観には賛成。まぁこれは楽譜があるクラシック音楽が前提になっている話題ではあるけど。

時間あったら原文にも当たってみよう。

おそれいります、がんばります。