西條玲奈 『芸術作品の存在論における曖昧なタイプ説の批判的検討』

ここ最近は毎日2〜3本、分析美学(特に音楽美学)の論文を読んでいます。この自粛期間を最大限に生かして、半年分くらいの勉強をするつもりでいる。

と、いうわけで今回はこの論文のまとめ。

簡単なまとめ

ジュリアン・ドッドの「曖昧なタイプ説」が、作品帰属の曖昧さの問題を解消できるかわりに、タイプ説の持つ利点である異なる上演の質的類似性の説明ができなくなるという問題点を指摘する。

はじめに


 音楽や演技のように、芸術ジャンルの中には同一作品が複数の異なる仕方で上演されることがある。上演の特徴が大いに異なるにもかかわらず、それらが同じ作品のものであることを観客は理解する。同じ作品の違う上演とわかるからこそ、その演出や演奏に対して、斬新である、古典的であるという評価や比較が可能になる。このように、一つの作品が同時に複数の上演を持ちう同時にもちうる、という特徴は反復可能性と呼ばれる⇔局所性


反復可能性という特徴を有する芸術作品の存在論的身分を分析する議論では、大きくタイプ説と唯名論という二つの立場がある。タイプ説とは、作品と上演の関係をタイプ・トークン関係で分析する立場であり(Currie,Dodd,Kivy,Levinson,Woterstorff)、唯名論は作品を反復可能な対象とみなさない立場の総称である。唯名論の代表的立場では、作品は個々の上演の集まりだと考えられる(Goodman,Caplan&matheson)。


 本稿では芸術作品のタイプ説の中でもとりわけ有力なジュリアン・ドッドの曖昧なタイプ説が、タイプ説の欠陥を補う代わりに本来備えていた利点を失うことを明らかにする。


 1 タイプ説の利点


 芸術作品に関わる以下の4つの現象を容易に説明できる。

 ⑴作品の反復可能性
 ⑵異なる上演の質的類似性
→演奏家や演出家が違っても同じ作品の上演であれは互いに共通の要素を持つ
⑶作品と上演の存在依存の関係
→作品は上演より存在論的に優位。 作品がなければ上演は存在し得ない。
⑷芸術ジャンルの自然な分類
→唯一性を特徴とするジャンルと反復可能性を特徴とするジャンル
→ある上演が何らかの作品に帰属するのは、当該作品の持つ性質をその上演が持つから。この意味で、タイプの持つ性質はそのトークンとなるための規範である。もし、演奏のミスやセリフの言い間違いなどによってタイプの持つ性質を満たさなければ、それは当該作品のトークンとしては失敗ないし不正確なのであるこの意味で、反復可能な芸術作品は規範タイプとして理解される。


2 タイプ説の欠点⑴創造のパズルとその克服


⑸創造のパズル

とは、タイプ説の含意する主張は、作品が作者によって生み出されるという事実と両立不可能になってしまう、というもの。
なぜなら、抽象的なものは時空的位置を持たず、因果関係を持たず、人が影響を及ぼすことはできない。そうだとすれば抽象的なものを新たに人が作り出すことはできないからである。しかし、作品が作者によって創造されるものならば作品は抽象的タイプではない

この議論を簡略化すると次のような流れになる。

 ⑺人は反復可能な芸術作品を創造することができる

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⑻反復可能な芸術作品はタイプである

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⑼タイプは抽象的である

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 ⑽人は抽象的なものを創造することができない

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(11)人は反復可能な芸術作品を創造することができない


 本稿では⑺を否定し、反復可能な芸術作品は創造不可能であるという主張を擁護したジュリアン・ドッドの路線を踏襲している。


「作者aが作品bを制作する」ことは「aがbを発見する」ことだと考えられる。つまり、創造を発見の一種と捉える。作品が創造されるのではなく発見されるとすれば、作曲家や劇作家、演出家が作品を制作する行為は定理を証明する数学者や、自然の中に成立する事柄を発見する自然科学者のそれと類似したものとして理解できる。

これはキヴィの主張とも重なる。どっちが先なんだろう?年代的にはキヴィ?

 創造を発見の一種とみなすと創造性が失われるという批判に対してドッドは、発見もまた創造でありうると反論する


 創造的思考とは多くの人にはつかみ取れない命題を把握し、理解できない命題間のつながりを見いだすことである。同じことはおそらく音楽の領域における創造性にも当てはまる。作曲家が創造的なのは、作品を存在させるからではなく、作品を編み出す際に想像力を発揮する必要があるからなのだ。(Dodd,2000,p.428)


タイプ説において、創造とは発見のことに他ならず、困難な発見において作者の創造性は発揮される


 3 タイプ説の欠点⑵ 様相的柔軟さの問題とその応答


もしも作品がタイプならば、作品が実際と異なっていた可能性を排除してしまうという批判がある。何かが実際とは異なる可能的性質を持つことを当該の事物が様相的に柔軟であるという(Rohrbaugh 2003)。そして芸術作品も可能的性質を持つ

しかし、タイプ説は作品が様相的に柔軟であることを許容できないタイプは実際とは違う性質をもちえないからだ。

4 タイプ説の欠点3 作品帰属の曖昧さの問題とドッドの解決策


 作品帰属の曖昧さの問題に対応しようとすると、タイプ説は⑵の利点を損なう。これは看過できない。


 作品帰属の曖昧さとは、ある上演が特定の作品の上演であるために満たすべき条件は曖昧だということ。

つまり、ある上演が特定の作品のトークンであるための必要十分条件である性質が一意に定まらないことを意味する。


 タイプ説にとって、作品帰属の曖昧さの問題は次のような構造を持つ議論である。

 (12)xは作品タイプTのトークンである
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(13)任意の上演xがタイプTのトークンならば、Tの持つ性質P1〜Pnをxは持つ

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(14)xはP1〜Pnのうち少なくともひとつを欠く、または別の性質Qを持つことがある

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 (15)xは作品タイプTのトークンではない


 演劇や音楽作品の上演ごとの違いをどのように許容するかがタイプ説の課題


また、これは様相的柔軟さの問題とも類似する。タイプがトークンに課する条件が厳格すぎて実際の芸術作品のあり方に、適合しないという指摘だから。


 5 曖昧なタイプ説による応答とその問題点


 曖昧なタイプとはタイプの持つ構造的性質、すなわちそのタイプであるための必要十分条件が曖昧なものである。つまり、作品タイプTのもつ性質P1〜Pnは確定したものではなく、曖昧だと考える。

 曖昧なタイプ説は、(14)のタイプとトークンの性質の不一致を否定することで作品帰属の曖昧さの問題を解消できる
しかし、⑵の利点が失われる。

この指摘が正しければ曖昧なタイプ説は困難を解決する代わりに、その利点を失うことになり、タイプ説の改善案としてはあまり魅力的ではない。

感想

著者は唯名論的立場をとっている。これまでに読んできた論文の多くはタイプ説を擁護するものがほとんどであり、唯名論的立場からの論考を読むのは新鮮だった。直観的には、タイプ説を個人的には支持したいが、それにはいくらか問題点がある。その問題点を理解することが重要だ。著者の論文は読みやすくわかりやすいので、他の論文も読み進めようと思う。

おそれいります、がんばります。