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源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか-音楽美学と心の哲学-』読書ノート④

悲しい曲

源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか-音楽美学と心の哲学-』

これまでのまとめはこちら。





第4章 心が動く鑑賞


本章では、情動が美的経験の重要な構成要素となっているという見解を提示している。


それというのも、情動を抱かず曲を聴いている場合、単に曲を知覚しているだけであって、曲を鑑賞しているとは言い難いように思われるからだ。人が何かを美的に経験し、それを美的に判断するときには、それを知覚するだけでなく、心を動かしていなければならないと考えられる
このような考えは「情動主義emotivism/sentimentalism」と呼ばれる。フランシス・ハチスンやディヴィッド・ヒューム、最近ではジェシー・プリンツがこの論を展開している。


情動とは何か


情動には、次の3つの特徴がある。


①身体反応の感じ(bodily feeling)
②感情価(valence)
③評価(appraisal/evaluation)


それぞれについて、見ていこう。


身体反応の感じ

「頭に血がのぼる」「足がすくむ」といった表現からわかるように、情動の感じは身体反応と密接に関わっている。情動を経験するときには、それに伴う身体反応が感じられているのだ。


この情動の身体反応を重視する説として一番有名なのは、「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」という言葉で有名なジェームズ=ランゲ説だろう。これは一般的に考えられている順序とは逆に思われる。これについてジェームズは、情動経験から身体反応を取り去ると何も残らないように思われる、と言う。


具体的な説明は省くが、この説で重要なのは、情動が感じられているときに感じられているのは身体状態である、ということだ。


感情価


情動には、ポジティヴなものとネガティヴなものがある。こうした、ポジティヴ/ネガティヴという特徴が感情価である。


ポジティヴ/ネガティヴの違いは、それぞれが促す行動の違いから特徴付けられる。ポジティヴな情動はそれを引き起こした原因との関わりを持続・増大させる行動を促す。逆にネガティヴな情動は、それを引き起こした原因との関わりを減らす行動を促す。(ただ、行動を促すのであって、必ずその行動が生じるわけではない)


評価


情動とは、主体が置かれた状況が持つ価値を捉える反応である。言い換えれば、情動は、主体を取り巻く状況の評価である。例えば、クマと遭遇したと想像してみよう。そのときに感じる恐怖は、「自分の身に迫った危険」を捉えているだろう。また、他人に侮辱されたときの怒りは、「自分に対する侵害」を捉えている。


そして、この「情動の対象」には以下の2つの意味がある。


①個別的対象particular object:情動を引き起こした個々の原因(誰かとの別れや死)
②形式的対象formal object:個別対象が共通にもつ特徴(悲しみの場合は「喪失」)


このうち、形式的対象はどの情動が生じているかを決定するものである。
しかし、何が喪失で何が侵害か、というような形式的特徴は、何に価値をおいてくるかに応じて変化する。そしてその価値は、主体と状況の関係によって決まるものだ。言い換えれば、関係的性質によって決まる。そしてこれらの関係的な価値は個人的な考えで変化するものではない。


注 p.73 の16行目 社的に決定されている価値も、は、社会的に決定されている価値も、の誤植だろう。


このように、価値に客観性(間主観性)があるなら、そうした客観的な価値に基づいた情動は、主観的な反応ではない。もちろん、全ての情動が主観的ではないとはいえないが、情動が全て主観的なものであるという考えは誤っているだろう。


そして、これら身体反応の感じ、感情価、評価といった情動の3つの要素は、次のような関係がある。評価→感情価→身体反応の感じ、といった順序である。


熊に遭遇し、恐怖を抱く場合をもう一度考えてみよう。まず、自分の身に危険が迫っているという評価が下され、その回避を促すネガティヴな感情価が生じる。そして回避行動を取るための身体反応が生じる、という流れになるだろう。


では次に、このような情動が美的判断とどのように関わるかをみていこう。


情動なしに「鑑賞」できない


美的経験にとって、情動が不可欠であるという情動主義は、日常的な考えとも合致する。芸術作品や自然風景を前にして心を動かされる経験が美的経験だと考えられるだろう。もし、心が動かないなら、作品や自然風景を単に知覚しているだけで、美的経験を持っていないと考えられるのではないか。

また、日常的な面だけでなく、理論的な観点からも情動主義は支持できる。先ほどの議論で、情動は評価→感情価→身体反応という順序を辿ることがわかった。そして、ポジティヴな感情価はその原因の行動を促すし、ネガティヴであればその原因の行動を避けようとする。


このことから、素晴らしいと思った曲は、なるべく聴き続けたくなるし、ひどい曲だと思ったら聴くのをやめたくなる、ということを説明できる。
さらに、情動を引き合いに出すことで、「感受性の洗練」の一部を具体化できる。

感受性の学習


これまでにみてきたように、美的経験には感受性を洗練させる学習が必要だとよく言われる。しかし、その学習がどのようなものか、明確に説明される事はない。では、その学習とは一体どのようなものだろうか。


その前に考えなくてはいけないのは、学習の種類だ。大きく分けて、知覚的な学習と美的経験のための学習がある。


例えば、作風を理解するだけなら、絵画の場合は色や輪郭線、音楽の場合は音程の上下などの非美的性質(要素)のパターンを手掛かりにすることができる。しかしこのような要素やパターンを捉えるための学習は、純粋に知覚的なものであって感受性の学習ではないだろう。


では、知覚的な学習と美的経験のための学習の違いはなんだろうか。それは、学習が進むことで、その経験や知覚が変化するか変化しないか、という違いである。


単に知覚的なものを考えてみよう。○や△、□をそれぞれ丸、三角、四角と知覚する枠組みが学習によって身についたあとで、なんらかの学習をした結果、○が□に見える、というような大きな変化は起こりそうにない。


それとは逆に、以前はクラシックが好きだったが、ジャズを聴くうちにジャズが好きになり、それによって、以前好きだったクラシックがつまらないものに感じるようになる、というような変化は十分ありうる。逆に、さらにクラシックをよく感じられるようになる、ということもあるだろう。このように、感受性については、生涯を通して変化していく可能性がある


このような感受性の学習が何であるかを理解するためには、知覚的学習と別のものとして特徴づけ、感受性の可変性を説明する必要がある。そしてそれは、情動を引き合いに出すことによって解決すると考えられる。


①情動に訴えることで、両者を区別できる。知覚によるただの識別であれば情動を持つ必要はないし、感受性を獲得するためには情動が必要になると言える。あるタイプの対象に接した時にはネガティヴな情動を、また別のタイプに接した時にはポジティヴな情動を抱くようになる、ということが可能になるのが、感受性の学習だと考えられる。


②情動反応は学習によって変化することがある。これは先ほどの音楽の例からみてもわかるだろう。また、ある共同体に馴染むことによって、以前いた文化では当たり前だったことにいちいち違和感を覚えてしまうかもしれない(関東人が関西文化に触れることで、関東文化は冷たい、という印象を持ってしまうような現象もこれだろう)。そして、この点は、情動が捉えている価値が関係的性質だということとも関わっている。


③情動学習の一部は、「単純接触効果 mere exposure effect」で説明できるかもしれない。単純接触効果とは、簡単にいえば、人はよく目にする機会があるものを好きになる、という現象だ。その文化や芸術に触れることが多いから、その文化や芸術を好きになる、ということは確かに考えやすいだろう。慣れ親しんでいるかそうでないか、というのは当たり前のようで大きなポイントだ。


ここからわかるのは、理想的な感受性に近づくためには、そのジャンルの曲に慣れ親しむことがまず第一歩になる、ということだ。そして、その多くの聴取経験を通して、ポジティヴな情動を抱くようになるための学習が必要になる。どのようにすれば、ポジティヴな情動を抱くことができるようになるのか。それは本書では具体的には触れられていない(たくさん聴くということ以外は)。


ここで、視点を移してみよう。学校教育における鑑賞教育では、聴くポイントだけ提示して、実際に聴く時間は非常に限られたものである、という授業形態が多いのではないだろうか。授業時間数の制限という問題はもちろんあるが、様々な音楽をたくさん聴く機会を設けることが、今後求められるだろう。しかし、それはICT機器の導入により、授業時間外で聴くことも可能になるだろう。授業前に音源を配布し、何度か聴いてもらい、曲に慣れ親しんでから授業で聴くポイントを説明し、改めて聴くことで改めて曲の良さに気づくことができる、という授業がイメージできそうだ。


次章では、美的経験における知覚的側面と評価的側面が、どのようにして結びついているのかが説明される。



おそれいります、がんばります。