伊藤 るみ子『演奏に関する一考察 キーヴィの音楽美学に於ける演奏論を中心として』まとめ

読んだのでまとめ。

ざっくりしたまとめ

キヴィの音楽作品の存在論(特に演奏)の概説と、そのほかの論者の論の概説から、作曲家、演奏家、聴衆の三者が一体となるような演奏のあり方を考察する。

以下、各節ごとのまとめ。

1 キヴィの音楽美学における演奏論について


キヴィは演奏について論じるにあたって、音楽作品と演奏の間の関係を、普遍性を持った作品とその様々な演奏として捉える。

マゴーリスの批判とキヴィの応答

マゴーリス「様々な演奏も一つの作品に還元されるべきものではなく、おのおの別個のものである」

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キヴィ「作品の特質として聴かれ、その作品の演奏には還元され得ない作品の特質が存在する。」

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マゴーリス「芸術作品は創造されているので普遍的ではあり得ない」

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キヴィ「作曲を創造や発明と解釈するよりも発見と解釈した方が良い」「発見とは、それを見つけることのできる才能や創造的イマジネーションを持った人が今までまだ全然存在しなかったものを、明らかにすることである」

顕在化されていないものを発見し顕在化すること。この意味で芸術作品は普遍的であるとキヴィは言う。

演奏されたものにも良い演奏とよくない演奏がある=理想的な演奏がある

楽譜は絶対的なものか?


ウォルターシュトルフ「楽譜は、演奏のために演奏者が忠実に従うべき唯一絶対的なレシピである(即興演奏を記譜したような楽譜はそのようなものとしては認められない)


キヴィ「理想とする演奏像は認めるが、楽譜は演奏者が従うべき唯一絶対的なものではない」「バロックは演奏の仕方が自由だったし、ある作品の演奏は、数多の演奏のうちのひとつである」「そしてそれは、頭の中を走っていたもの、記譜される以前に存在していたものである」


演奏家によってなされる演奏とは、プラトン的普遍的な演奏の映しであり、楽譜もその映しの一つであると考える。よって、現実に実演される演奏には、適切な映しもあれば不適切な映しもある。

ここで訳されてる映し=今でいう現れ?

音楽におけるプラトニズム


キヴィは民謡や現代の電気音楽や偶然性の音楽にはプラトニズムが妥当しないことを認めつつも、記譜された西洋音楽の場合には、作品はタイプでありその演奏はトークンであるとする立場をとる


プラトニズム的な見解によれば、音楽作品とは音の構造である。しかし、歴史的文脈によって音楽作品の聴き方は異なるとレヴィンソンは批判する

レヴィンソンの音の構造批判はこの論文のまとめを参考に。

そしてキヴィはその批判を認めつつも、それらの作品は同一性を保ち、その同一性は作品の構造に基づき、われわれはそれを直感で把握しうると考える。


音構造を発見したという観点からキヴィは普遍的なものの存在を音楽作品に認めようとする。


演奏楽器と作品の関係におけるプラトニズム


レヴィンソンは、楽器が異なることによって、作品自体も異なってしまうという立場をとる。


キヴィは、それに対して、時代とともに楽器も変化していっているという例をあげる。西洋音楽には作品と演奏の区別があり、それらは、普遍的な存在としての作品と、その様々なヴァージョンとしての演奏として関係すると主張する。真正性の問題は「もっとも禁欲的で理屈っぽい種類の形而上学的良心の呵責」であるとし、実際の音楽的直観はその傾向にはないとする。 

演奏における作者の意図について


キヴィは、基本的には作曲者の意図はなるべく守られるべきであるという立場をとる。


ビアズリーは作曲者の意図には到達しづらいし、作曲者の意図は後から推論しているのであって演奏する前から作曲者の意図がわかっているわけではないということから、作曲者の意図を守る必要はないと考える。


キヴィは、作曲者の意図について、確実でなくとも、合理的な推論は可能だという立場をとる。また、作曲家の意図どおりに演奏することが最善の演奏方法だとは限らないが、それが作曲者の意図を無視していいということにはならないし、基本的には作曲家が意図していた演奏方法は良いものであると考えて良い


ディパートは

a.作曲家への倫理的義務 

b.作曲家が属していた時代を適切に理解するには、その時代精神を具現している芸術作品の演奏法も知らねばならないため

c.作曲家の意図に従った方が芸術的な価値を持った演奏であるように思えるため 

という点から演奏家が作曲家の意図に従おうとする理由を指摘する。

キヴィもこの指摘を肯定的に捉える。そしてキヴィはたとえ美的によくないものになっても、作曲家の意図に従った方が良いという立場をとる。

演奏の正当性について


もし音楽作品の歴史的に正当な意味に文字通りこだわるなら、現代の演奏家が、その楽器が用いられていた時代に演奏したどの人よりもうまく古楽器を例え演奏できるとしても、その当時の最も上手な演奏家と同じレヴェルでしか、演奏してはならないということになる


また、聴き手も違えば、聴き方も異なる。


「いわゆる正当な音楽の演奏は、人の手仕事という生きた道具を用いて作られた生き生きとしたものをもたらすよりも、むしろ死んだ楽器による死んだ伝統を復元しようとする無駄な努力である」


キヴィは、物理的な側面だけでなく、鑑賞者の感情という側面からも音楽の正当性を捉え、両者をすり合わせながら、感動を与える演奏をすべきであると考える


演奏についてーーキヴィ以外の学者における演奏論も含めて


キヴィは、プラトン的に作品をイデア界の理想像の映しであると考える。従って、作曲家は作品を創造するのではなく、発見するのである。作曲家が発見した作品も、演奏家が音化(例化と今はいいそう)した演奏も、普遍的なるものの映しである。よって、演奏家は、普遍的なるものを根源としている作曲家の意図を知らねばならないし、作品に勝手に手を加えて編曲したりしてはいけない。


キヴィが求めている正当化とは、作曲家、演奏家、聴衆と言う三者の一体化としての正当化である。そのため、時代が移り変わり、演奏の形態が諸々の事情で異なろうとも、理想像の写しとしての三者の一体化は図られうる。つまり、作曲家がその当時、自ら指揮した、あるいは演奏していた演奏自体も理想像の映しであるのだから、その当時の演奏と異なろうとも、理想的な演奏像を目指している演奏は全て、三者を一体化しうる正当性を持った演奏なのである。

フィンシャー:歴史的に忠実な演奏の実現は困難だが、演奏には作品に歴史的に充実な解釈が必要である


ゲンネンヴァイン:作品を現代的に再解釈して、現代に適合する演奏を探すべきである


福田達夫:音楽作品は一つの具体的な実在の対象ではなく、現実化の可能の束とでも言うべきもの


福田とキヴィの相違点は、キヴィが普遍的な作品を想定しているのに対し、福田は、学問的、分析的、論理的、そしてスタティックに聴衆の反応を見て演奏しなければならないとする点。キヴィの方が、理想的で普遍的な演奏を目指せば、真の意味での作者の意図に添うことができると楽観的に考えている。


佐々木健一:演劇(オペラ)に関して指摘している特質

a.鑑賞者の人種、性別などによって、同じ芝居でも受け取り方が異なる

b.同じ鑑賞者でも、状況、年齢によって、同じ芝居に対して異なった感じ方をする

よって、劇場においてはこのような共感によって、芸術家たちだけでなく観客とも共同体を成しうる。


絶対音楽において、演奏者と聴衆の共体験を追求するには、キヴィの演奏論は有効であると著者は結論づける。自分自身が作曲者の意図を見つけて正しく演奏したものによって心動かされるように演奏家は努力しなければならない、と言うレオポルド・モーツァルトの言葉の中に、三者一体の関係が見て取れる。

感想

著者の結論自体は目新しいものではないし(まぁ書かれた年代も古いから仕方ないが)、訳文もちょっと古いけど、キヴィの存在論とその周りの議論について知るにはちょうどいい文献かも。ただ、訳文がいまいちピンとこないので原文をしっかり読みたくなるなー。

おそれいります、がんばります。