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BD発売記念 #天気の子 裏テーマ解説

意外と、天気の子のテーマは理解されていないことに私は驚いた。
そしてその無理解が、脚本への悪評に繋がりがちなことが腹立たしい。

まず天気の子は、帆高と陽菜のラブストーリーである。
これは誰が見ても分かることだから、深くは語らない。
だが、天気の子のもう1つのテーマについてはあまり理解はされていない。

天気の子を酷い脚本と断言する人々は絵で分かることにしか言及していない傾向があるように思える。テーマに触れていない!テーマを理解せずにあの描写はクソ、とかを軽々しく言ってしまっている!

言うなとは言わないが、せめて正しく物語を理解してから批評しろよ!!

……というわけで、以下2千文字ぐらいで裏テーマ解説を行う。
実はこの内容は、ふせったー(Twitter連携ネタバレ防止用サービス)に以前投稿した記事を再編集したものである。既読者は、盗作ではなく当人による加筆引用なので、ご安心を。

さて、最初に結論から語ろう。天気の子のテーマ=主題は何か。
それは「犠牲者を容認し、ときに歓迎さえする社会の是非」である。

            ◆

天気の子には、作品テーマを大きくミスリードさせる台詞がある。
「大人になると大事なものの優先順位を変えられなくなる」という物だ。 
須賀という、家出少年の主人公・帆高を匿った成人男性に言及された。

さて、断言してしまうが、これは誤った意見である。
これは捻くれた大人の捨て台詞であり、ごまかしの一言でしかない。
なぜそう言い切れるのかと言うと、子供である主人公・帆高が作中全てを通して、優先順位を何一つ変えていないからである。

息苦しい故郷の島からの家出。
水商売に堕ちる危機から少女を救おうとして行った、チンピラとの対立。
自分を警察に引き渡そうとする須賀との対立。
そして、物語の象徴的な、陽菜をこの世に連れ戻すための全ての行動。

これら作中における帆高の行動は、全てが一貫した動機、より正確には動機の元となる一貫した欠落によって行われている。
それは個人の願いが社会によって阻まれるという不条理への怒りだ。

            ◆

天気の子には後半、頻出するワードがある。

「大人になれ」、「島へ帰れ」
「人1人の犠牲で世の中がマトモになるなら、みんな歓迎するでしょ」

これらは表現を変えてはいるが、結論としては全て同じことを言っている。
個人の願いよりも社会のほうが優先される、受け入れろという圧力だ。
そして、ヒロインである陽菜は、まさにこの社会の要請により消え失せる。

そもそもなのだが、実は陽菜は晴れ女ではなく、むしろ雨女である。
陽菜の力は雨を晴らす能力ではなく、「雨を降らせてしまう」能力なのだ。晴れを願ったはずが真逆の呪いを与えられ、終いにはあの世へ誘拐される。
実態としては完全に身売り詐欺にハメられたとしか言えない。鬼か??

帆高は個人の願いが社会によって阻まれる不条理によって家出をした。
そして陽菜は、世界のシステムによって破滅を運命づけられている
帆高と陽菜は、根本的な部分で同じ悲しみを抱えた存在なのだ。
それにも関わらず、帆高は陽菜を消滅させてしまう。

そう、実は全て、帆高の仕業なのだ。
晴れ女という金銭獲得手段の提案も、「晴れている方がいい(≒犠牲になれ)」と知らなかったとはいえ陽菜に言ってしまったのも帆高自身なのだ。
陽菜の消滅で号泣するのは、単に陽菜が消えて悲しいからではない。
誰かの願いを踏みにじって、社会のためになれと強制する、自らが最も嫌っていたはずの存在に自分が成ってしまっていたからこそ帆高は慟哭し、己の誤ちを正すために走り始めたのである。
帆高は陽菜を助けることを通して、自分自身をも救済しているのだ。

            ◆

さて、最初の話に戻ろう。
「大人になると大事なものの優先順位を変えられなくなる」という話だ。 これは真実ではない。帆高の存在自体が、この一言を否定している。

では、この虚偽を口走る須賀は、果たして帆高の敵なのだろうか。
答えは、否だ。

そもそも帆高と須賀はあの場で対立したが、立場が対立する存在ではない。
作中には、彼らが本質的には同じ存在なのだという描写が各所に存在する。

家出少年を拾う須賀と、野良猫を拾う帆高。
娘と面会が姑に阻まれる須賀と、陽菜を助ける願いが警察に阻まれる帆高。

こういった共通項は、帆高と陽菜の間にも存在する。
帆高は、陽菜を連れ去ろうとするチンピラに向かって銃を撃ってしまった。
陽菜も、帆高を連れ去ろうとする警察に対して雷を撃ってしまった。

これらの相似は一体なぜ描かれたのか。
それは帆高と陽菜、そして須賀が似た者同士だという暗示である。
彼らは本来対立するどころか、実質的な同類だと示しているのだ。
では、なぜ帆高と須賀はクライマックスにおいて対立したのだろうか?

さて、それを説明するにあたり、一つの誤解を晴らしておく必要がある。
あなたは、帆高を独善的な男だと見なしただろうか?
身勝手な理由で警察の拘束から逃れ、線路を走るヤベー奴と思ったか?

もしそうだったなら、非常に申し訳ないが、私はその見解を否定する。
あの物語、あの終盤において、あの世界にはエゴイストしかいなかった。
あの時世界で誰かのために行動していたのは、帆高1人だけだったのだ。

社会は人柱を許容し、時に歓迎する。なぜだ?
社会とは、個人の集まりである。
人柱を歓迎する社会とは、即ち、人柱を歓迎する個人によって成り立つ。
独善的な人間たちによって、この世の地獄が発生する。

警察につかまりそうになった帆高を見て、須賀は泣く。
警察とはなにか。彼らは社会の公僕である。社会の走狗である。
社会という地獄から逃げ出そうとするものを決して許さない鬼なのだ。

その鬼に自分が加担していたことに気付いたから、須賀は泣いた。
だからこそ、彼は自らの願いを捨てて、帆高を助ける側に回ったのだ。

願いの順序を変えられる存在などこの世には存在しない。
娘に会いたいという須賀の願いは十分に尊いものだ。
陽菜を助けたいという帆高の願いとの間に優劣を付けることは出来ない。
だけれど、須賀は帆高のほうが正しいと最後には判断した。
須賀は己の願いを叶えるために他人を犠牲にすることを悪と認識したのだ。

須賀は独善的な人間だった。地獄の一員だったのだ。
しかしあの時、彼はその地獄から、己の意思で這い出したのである。
警察から帆高を逃したあの行動は、須賀自身をも地獄から救済したのだ。

            ◆

ラストシーン、帆高は陽菜と再会し、僕たちは大丈夫だと語る。何がだ?
東京を海に沈めておいて、何が大丈夫なんだと思った人もいるだろう。

須賀は最後に言う。世界は元から狂っていると。
世界は独善的な人々によって形作られている。
少数の犠牲をもって、大多数を幸福にする社会が世界各地で築かれている。
それは狂気だ。狂気によって、我々の世界は作られているのである。

だが、帆高たちは、世界の形を決定的に変えてしまった
地獄は壊れ、地獄に支えられていた天国をも破壊してしまった。
雨に沈んだ東京では多くのものが消え失せてしまった。
そこには思い出のような、二度と戻らないものもあるだろう……。

だけれど、世界は破滅にまでは至らない
だから、そういう世界を望んでも「僕たちは大丈夫」なのだ。
天気の子は、新しく世界を作る全ての人間に向けられた応援の物語である。

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