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評価基準のない、自由な私の「音」

私は、日本の琴と横笛が好きで、
かつては、山田流箏曲と、一噌流能管を、習っていました。
短歌を嗜み、能楽の謡・舞・囃子を習い、舞台に立つこともありました。

そんな機会も久しく絶えていた、六年ほど前、
伊勢神宮に参った際に偶然、勾玉型の琴を抱いた人に遭遇し、
もともと勾玉に惹かれていた私は、その製作者を訪ね、すぐに同じ琴を個人発注で製作していただく決断をしました。

東日本大震災の悲しみと、放射能汚染による悲劇をきっかけに、
世の中を宇宙規模で調律し、響きで清め、癒やすための祈りとして、生み出されたという、
宇宙楽器真琴”との、運命的出会いでした。

この出会いの直後から、不思議な流れにより、
即興で琴を弾きながら、即興で和歌をおろし、
ご神前ご奉納や、演奏会、物語り会などの機会に恵まれるようになりました。

この琴は、既存の曲を奏でるのではなく、素朴なまでに、美しい音の響きを発するためのもの。
考えたり整えたりせず、ただ、感性と指に任せて、自由に奏でればいい。

音楽は、音を楽しむもの。
その原点を追求したような琴です。

そうして無心に奏でるうち、
自然と、和歌の言葉があふれてきて、自由な調べで歌うようになっていて。

それまでの経験と実績のすべてが、
ここにより活かし、表せる。
自分では想像もしていなかった流れでした。

スピリチュアル的にいえば、紆余曲折と嵐を経て、ようやく、
「天のつとめ」に、たどり着けた感じでしょうか。


私はもともと、楽器も歌うことも大好きだったけれど、
誰もが知る楽器で、誰もが知る曲を演奏することに、コンプレックスがありました。

上手下手、優れているか否かで評価されることで、
奏でたり歌ったりすることを、楽しいとか嬉しいと感じるより先に、
下手くそだと貶された記憶が蘇ってしまうから。

はじめから巧みな人などいないのに、
練習段階から、笑われ罵倒され。
好きだという気持ちすらも否定されたようで、音も声も、発するのが怖くなっていました。

自分の声も、悪声だと思っていたから、人前で歌うなど、恥そのもの、他者迷惑だとしか思えなかった。

その私が、今は、歌で呼ばれ、琴で招かれるつとめができている。

ようやく「好き」を、自由に表せるようになりました。

規定の法則のない、自由音階での自由奏が叶う、
自由な琴のおかげで、「個性」を表せるようになったのだと思います。

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