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人生の恩師

 十五歳のある日、私は学校に行くのをやめた。もちろん思い立ったが吉日みたいな感じであっさりとやめたわけではない。ちゃんとした理由はあった。少なくとも十五歳の私には。

 南米に住んで四年目の私は現地校に通っていた。高校生(南米での高校は十五歳から十八歳まで)になったこともあり、前年と違って授業の難易度がグッと上がったのだ。今まで聞いたことのない小難しい単語も増えてきて、家に帰って辞書を引いて調べたり、グーグル先生で検索をかけたりなどして頑張ったものの、悲しいかな、私の記憶力と理解力では授業に追いつくことはなかった。唯一、世界共通語の数学だけはできたので、自尊心はある程度保つことはできた。
そんな中、当時一番仲の良かった子が転校して、遠い街へ引っ越しすることになった。この出来事により、私の「学校行きたくない病」は次第に悪化していく。

 親しい友人を失った私に残された友達は、日本にいる父から送られてくるゲームとアニメ、漫画であった。
学校から帰宅してご飯を食べたら、私はすぐさま自分の部屋に引きこもる。母国語である日本語に溢れている空間は、いわば私を守ってくれる避難所であった。そして、当時高速インターネットといわれていた「ADSL」が、ついに我が家にやってくることになった。そこで私は運命的ともいえる出会いを、インターネット上で果たすことになる。二次創作の活動を行なっている数々のウェブサイトに辿り着いたのだ。
ネット上には私と同じく作品を愛する人々の手によって、キャラクターや原作が忠実に再現された絵や小説などが、溢れていた。私はついに、自分とっての楽園がネット上にあることを確信したのだ。

 そしてある日、自分が築き上げた楽園から出たくない気持ちが積もりに積もって、文字通り爆発したのだ。私がずっと秘めていた「学校に行きたくない病」を、やっと母親に告白することによって、現実味を増したのだ。
そこからはもう大変な日々だった。朝から始まる母親との口論、涙と鼻水を垂らしながら学校にいった日もあれば、仮病を装って行きたくてもいけない大根役者と化して、まんまと許される日もあった。当時を振り返ると、母親には本当にいろんなことで迷惑をかけてきたが、この時がおそらく一番彼女を悩ませた出来事だったのかもしれない。

 そんな親子喧嘩が数週間も続いて、ようやく勝利を収めたのは私だった。これ以上何を言っても、怒鳴っても、諭しても、結局自分の娘は「学校に行きたくない」しか言わなくなったのだ。そして我が母はこの争いに終止符を打つしか、選択肢が残されなかっていなかったのだろう。
いつか私が人の親になって、子供が学校に行きたくないと言い始めたら、私もきっと当時の母みたいに、修羅の如く心を鬼にしながら子供を責め立てるだろう。だが私にはそんな資格はないのだ。私は自分の意思で学校を辞めた、親不孝者なのだから。

 私の築き上げた楽園は、天国へとレベルアップした。嫌な授業と、仲のよくない友達とも関わることなく、平和に過ごせる日々が続いた。私は言葉の通りどっぷりと二次創作の世界にハマり、自分なりにサイトを立ち上げ、小説などを書き始めていた。人生における幸せの頂点に達したかの思いだった。書いた小説をネット上に掲載することで、「日本にいる人たち」との交流が増えたことがとても嬉しかった。名前も顔も知らない人が私の作品を読んで感想をくれることは、この上ない喜びであった。

 しかしずっと部屋にこもり、ノートパソコンの前でひたすら何かをしている娘の姿を見て、不安でない母親なんてこの世にいるわけがない。まさか自分の娘が自らの意思で同人の沼に溺れているとは、想像もつかないだろう。
ある日、母親が新聞紙の切り端を寄越してきた。二次創作に勤しむ私は邪魔をされたため、しかめっ面をしながら母親のそれを受け取る。まじまじと読んでみると、それは「英会話スクール」の広告だった。

「あんた、英語を勉強しなさい」

 学校は行かずとも、言語を話せることはきっと将来的に娘の力になるのだろうと、母なりに考えたのだろう。きっとその英会話の広告にすがる思いで、娘に提案をしてきたのだろう。
当の本人といえば、「ふむ、英語か。悪くないな」と能天気な考えであった。学校でも英語は算数と同様、得意科目の一つだったので、拒否反応を起こさなかったのだ。

「引きこもり生活を始めて約一年経った。そろそろ下界との接点を戻す時がきたようだ」

 きっとそんな厨二病のフレーズを、当時はいけしゃあしゃあと思っていたはずに違いない。「親の心子知らず」とはまさに私のために生まれてきたことわざである。親不孝者の気持ちが変わらないうちに、母親は早速英会話スクールに電話をしてアポを取っていた。

 英会話スクールに行った時の日のことは、まるで昨日だったかのように覚えている。
私の英会話の先生は、パプアニューギニア出身の、一八〇センチもある黒人女性だった。彼女は元々オーストラリアで働いていたが、その時に知り合った南米の男と出会い、わざわざはるばる遠い国までついてきたのだ。なんとも罪深い男である。

 南米に来て間もない先生はスペイン語が全く話せなかった。私も中学生レベルの英語しか話せなかったので、お互いいい勝負であった。言葉も思い通りに交わせない二人だけの英会話レッスンは一週間に二、三回行われた。初めはジェスチャーや翻訳機を使って、意思疎通ができるようにお互い頑張ってきた。久しぶりの学びは大変であった。英語の発音や文法もそうだが、人に何かを伝えたいのに、思い通りに話せない悔しさをずっと抱えていた時期もあった。
当時の私は捻くれ者だったので、自分の思い通りに結果が出せないとすぐやる気を失う、面倒くさい子供だった。それでも先生は根気よく付き合ってくれて、結局彼女との英会話は約二年間続いたのだ。二年経った自分の英語はだいぶ成長しており、日常会話までできるようになっていて、改めて学びの楽しさが身に沁みたのであった。

 ある日先生は、私にこんなことを言ってきたのだ。

「あなた、学校に行くべきよ。少なくとも、大学はちゃんと出ておきなさい」

 私は学校が嫌いだから不登校になったため、大学に行けという先生の言葉に、自分がすごく否定されている気分になった。ただ「このままではいけない」ということに、私が薄々気づき始めていたのも、事実である。
ネット上で二次創作に勤しむ毎日は充実はしていたが、この生活をもう一年、また一年は続けることはできないと分かっていた。一方で、自分は高校も出ておらず、ましてや大学に進学するための学力も知識も、言語力も持ち合わせていない。結局のところ、進学することなんて考えて無駄なのだと思い込んで、諦めていたのだ。

 家に帰って、先生の言葉を反芻していた。私なんかが大学に行っても、意味なんてないんじゃないか。学力がないことは明らかだし、一度不登校を決めた自分にとって、なんとも図々しい話であるとも思っていた。諦めはついていたはずなのに、どうしてか諦めきれなかった自分がそこにいた。
二次創作で経験した、作品を作り上げることの楽しさと、それを誰かに見てもらう達成感を超えるものは当時にはなかった。だからこそ、もっと自分の可能性を広げたい信念が、先生の言葉で形になっていくのを感じたのだ。私はパソコンを立ち上げて、いつもの徘徊をせず、「大学 進学 日本」で検索をかけたのであった。

 私に勉強を続けろといってきた人は、後にも先にも先生一人だった。そして彼女の言葉は確かに、私のスイッチを入れてくれたのであった。
人と関わるのが怖かった日々も、好きなものに溢れて楽園を築き上げた日々も、決して無駄ではなかったと思いたい。そんな日々があったからこそ、先生という人生の恩師に出会い、人一倍に大学へ行きたいという気持ちが強くなったと感じた。大学に行くことで自分の人生が変わるとまでは思わなかった。けれど、少なくとも今の自分より、もっと自分を好きになれるような気がした。

 数年後、二〇一一年の冬に高卒認定試験を受けるために、私は日本へ帰国した。試験会場は大井町線の大岡山駅にある、「東京工業大学」のキャンパス。すっかりイチョウの葉が枯れ落ちた木々に迎えられながら、試験会場へと向かう学生たちの中に、私もいた。ここから、私の人生がようやく始まったと、未だ捨てられない厨二病を心に抱きしめながら、その第一歩を踏み出したのだ。

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