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映画「ダンサー・インザ・ダーク」の見方

昨日、twitterで懐かしい映画が話題となっていた。



これ何故か当時劇場で2回も見てるんですよね。

好き嫌いでいうと嫌いな部類だけど悪い映画だとは思わない。

でも、未だにこの救いようのない映画を糞味噌にこき下ろす人たちの気持ちもよくわかる。

言わずと知れた「胸糞映画」の名作である。

おそらくだけど

ほとんどの人はセルマを当たり前のように物語のヒロインとして見ようとするから感情移入出来ず、苛立ちと重苦しさの谷底に叩き落されてしまうのだろう。

僕はこの映画にはもっとこう・・・正しいとまでは言わないが「最適な見方」があると思ってて、それは「鑑賞」ではなく「傍観」のスタンスで見るぐらいがちょうどいいのではなかろうか。

例えば、あなたがセルマと同じ工場で働く従業員のつもりでも良いし、コンテナハウスに住まう近所の住民のつもりでも良い。

僕が上記のような立場にあった時、おそらくセルマのような人間に対して距離を保つだろう。
(邪険にはしない程度に)

そう、いずれにしても彼女のことを認識はしているが、そこまであなたとは親しくない間柄だ。


映画を見た数年後に社会に出、世間様のお世話になる過程で、とことん生き方の下手糞な人を目の当たりにした。
損をする型の人とでも言うのだろうか。

ろくすっぽ器用でもない自分から見ても不器用な生き方、そのくせ頑固で他人の助言に耳を傾けない。

おまけに夢想家で注意力も散漫ときたらこの上ないタチの悪さである。

まさに冒頭で表現した「救いようのない」タイプの人。


いくら仕事だからといっても、或いは旧知の仲だからといっても

実生活においてそのような人がいたら、余程特別な感情でもない限り視界に入れたくはないだろう。


さて、セルマが「割とどうでもいい人」に見えてきた所で映画を「傍観」する話に戻そう。

未見の人にとって簡単ではないかもしれないが、映画とのこの「適当な距離感」は、そんな彼女にも要領が悪いなりに何よりも、自分の命よりも大事にしている存在があるということをシンプルに教えてくれる。


もちろん僕たちには感情という厄介なものがあるので、安全圏かつ「適当な距離」で「傍観」していてもイラっとすることはあるかもしれない。

が、他人の生き方や価値観をとやかく言う権利など僕たちには元からないワケで、従業員でもご近所さんでも良いので社会規範を守る一市民の感じで見守ってあげよう。


なお、劇場の座席予約の際は、最前列はオススメできない。
手振れ感のあるカメラワークで酔ってしまうかもしれないので。
傍観者は後列の端っこが最適なのだ。


最後に、ここまで書いててふと思ったこと


僕が(あなたが)何よりも大事にしているものは何だろうか。
時として、他者を傷つけることになったとしても大事にしなければならないものは何だろうか。

大事なもののために、がむしゃらに命を刻む自分の姿。

異なる人生を歩む周りの人から見れば、それはきっと時に滑稽で時に「胸糞」に映っているのかも知れない。



それでは。



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