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発情期よ明け暮れなれ。映画『憐れみの3章』が映すもの。


ヨルゴス・ランティモス監督の新作『憐れみの3章』を鑑賞してきた。

これが今やディズニー配給って、まだ面白い。


前作『哀れなる者たち』と、ほぼ同じキャスト。
なんなら伝えようとしているメッセージまでも限りなく近いところにある、と思ったのだが、わたしは圧倒的に本作『憐れみの3章』のほうが好みの映画だった。

ひとえにそれは、作品ジャンルが「ダークファンタジー」であるか、「ダークコメディ」であるかの違いに収束すると思っている(言わずもがな『哀れなる者たち』がダークファンタジーで、『憐れみの3章』がダークコメディね)のだが、そんな好みの映画ジャンルであるかどうかはさておいても、ランティモス監督が描きたい、描こうとしている"人間の滑稽さ"をぜひ読み解いてみたいと思う。

彼の作品を考える糸口は無数にあると思うが、やはり触れるべきは「性」の描写だろう。
おそらく多くの観客がタブー視して、なんとなく言葉を濁すトピックだが、ここに触れてこそランティモス作品の面白さは花開くと、わたしは感じている。

つまりは人の根源であり、究極の快楽であり、永遠の謎。
本作ではそれを、皮肉めいた3章仕立てのおとぎ話でまとめあげているわけだが、そこに乱れる"憐れみ"の数々は、きっと多くの観客に様々な問いかけをしてくれると思うのだ。


***


本作を鑑賞して、改めて思い知らされたことなのだが。
確かに人間は、常に発情期の渦中にある動物なのだと思った。

冷静に考えてみると、人間以外の多くの動物には「発情期」なる性の解放に特定の期間が存在し、種の繁栄は非常に厳格で限定的なものに見える。
対して人間は(それによってカーストのトップに君臨する生き物となっているわけでもあるが)限定的な発情の期間というものはなく、言うなれば常に、明け暮れて発情期だ。

下ネタは世界共通の言語であり、アダルトコンテンツはいつの時代も大きな経済循環をもたらす。いや、そんな下世話な話に持って行かずとも、今日も、今この瞬間も、神秘的な新たな生命の誕生に向き合っている者が何千、何万といるのである。
そんな人間にとっての"当たり前の営み"を、本作では1人1人の役者に様々なキャラクター性を与えながら、能動的、また受動的に絡み合い、流されゆくさまが映し出されている。そのどれもがとんでもなく情けない姿であるのに、容易に目を背けられないというのが、さすがのヨルゴス・ランティモスといったところだろう。


とはいえランティモス監督作品に、過剰な"解説"や"考察"を目論むのは非常に野暮である。が、それでも過去作と比べ、非常に"分かりやすい"表現をしてくれた本作には、ある程度鑑賞者の"読み解き"を求めても良いのではないかと、わたしは感じている。

映画はというと、「R.M.F.の死」「R.M.F.は飛ぶ」「R.M.F.サンドイッチを食べる」という3つのタイトル(R.M.F.という名の男がマクガフィン的に登場する)が付いた3章仕立てのオムニバス形式となっており、それぞれに「服従の恐ろしさ」や「夫婦間の疑心暗鬼」「カルト宗教とその家族」といった具合に、現代に蔓延る社会問題とスレスレのところを描くブラックユーモアの詰め合わせと見て取れる。

おそらく今後、多くの映画考察者によって「R.M.F.とはなんだったのか」「あのシーンはどういう意味だったのか」といった類いの"読み解き"がネット上にも溢れると思うが‥‥
その上で、わたしはそうした謎を含め、これらすべての物語の根底には、様々な角度から見る「性」の在り方、人間特有の"明け暮れ発情期"の弊害が、面白いスパイスになっていると言いたいのだ。


つまり、動物的な本能による「発情」の目的は、種の繁栄、子孫を残すということだけに尽きる。それ以上も、それ以下もない。
しかし、その特定の期間を失った、こと人間生物においては、それが単なる動物的な目的ではなく、それに伴う「信頼」「愛」「服従」「トキメキ」「嘘」「真実」「生」「死」「無」‥‥さまざまな要素を成り立たせる"裏付け"として機能することに一役買い過ぎており、結局のところ"ソレ"でしかないのに、"ソレ"に抗えないという、まさに"憐れみ"が実に面白おかしく描写されていると思うのだ。

いや映画くらい、綺麗な世界を見せてくれよ、、、と言いたくなる気分のときもあるが。
映画だからこそ、綺麗ごとじゃなくその本質をえぐり出してくれよ、と思いたくなるときもある。

そんな後者のような気分に陥ったとき、本映画は、まさに"ソレ"と匹敵するくらい、美しい興奮と快感を与えてくれるだろう。
「映画の可能性を更に押し広げる」と、本作の日本版プロモーションではそんな謳い文句が付けられていたが、それは映像表現の新奇性、脚本の前衛性ということ以上に、妙なハイテンションさと、ピロートークのようなローテンションさが織りなす、まったく不可思議な時間を体感できるということに尽きる。こんなに心地良い疲れを感じられる映画は久しぶりだ。


ところで、3章に渡るそれぞれの独特なおとぎ話の中でも、わたしが特に気に入った作品が第2章「R.M.F.は飛ぶ」のエピソードである。

第1章、第3章は、それぞれ絶対的なボス、ないし教祖が君臨し、その前に横たわる「服従」や「忠誠」といった側面と「性」の在り方とが描写され、総じて理解しやすい構造になっている。

一方、映画の真ん中にあたる第2章はというと、警察官の夫と、海洋学者の妻という夫婦を主人公に据え、海洋研究に出た先から奇跡の生還を果たした妻と、その変わり果てた姿に「本物の妻ではない」と疑心暗鬼に陥る夫との、トラウマ級の探り合いサスペンスが物語の基盤となっている。

もちろんここでも、人間特有の「発情」が、おそらく本作の中でも最も色濃く描かれ、役者の凄まじい演技、ひいては「子どもは見ちゃダメ!」の真骨頂が映し出されるわけなのだが、興味深いのは「色欲」と「食欲」がニコイチであること。またその満たされ具合が、互いの「信頼」と結びついているように見て取れることだ。

これは四字熟語、また孟子の言葉に起因する「食色性也(食欲と性欲は、人が生まれつき持つ基本的な欲求であり、これを取り除くことはできないという意)」を地でいく物語だともいえるだろうが、妻の安否を不安がる夫は、彼女の発情した姿と食卓を囲む姿を思い返しては安堵し、反対に生還した妻の様相を疑い始めると、彼女の誘いを断り一切の食事に手を付けない態度を取る。
「色欲」も「食欲」も、動物的な意味でいえば、生物の単なる自然的な行動に過ぎないというのに、人間という生き物はそこに多大な意味を見出し、それによって創造されたり、破壊される「信頼」に右往左往し続ける。
その「憐れさ」こそが、第2章では最も純朴に描かれており、つまるところ本作最大の見どころではないかと、わたしは思うのだ。

だからといって、「これだから人間はだめなんだ」「人間は残念な生き物なんだ」「馬鹿な生き物なんだ」と、自分たちを貶めるような不快さがないのが、売れっ子監督の所以だろう。
何を肯定するわけでも、何を否定するわけでもなく、人間の救いようのない、抗いようのない「欲」だけを見事に抽出した作りだからこそ、その満足度は高いのだと思う。

つまり、本作を鑑賞したとて、悩める子羊の道しるべとなるようなことがなければ、おそらく自分の人生と照らし合わせて「共感」できるような作品にもなっていない。そんな甘っちょろい映画ではないのだ。

しかし、誰の心にも、誰の心の奥底にも、この映画の血なまぐさい「真実」が流れていて、いつでも発情できてしまうという憐れな才からは逃れられない。時たまその能力の使い方を誤り、不埒で不道徳な行いに走る人間もいるのが事実だが、総じてそんな人間をも、人間同士で愛さずにどうしろと言うのかと、それくらいのことを、この映画からは読み取ることができるのかもしれない。

明け暮れ発情期に生かされ続ける我々人間。
近頃はそれに蓋をしたと見せかけて、実際には街にもネットにも、価値と信頼を引き換えに、非常に気持ちの悪い姿で表出しまくっているではないか。
そんな憐れなる前章を思い起こしながら、続く我々の次章はどんな物語になっていくのだろうと想像してしまうが、それはいささか想像が過ぎるだろうか。

それでもわたしは、この続きが「あわれ」から「をかし」に変わる瞬間を見届けたい。その意味で、この映画は「人間らしさの美しさ」を感じられるまであると思うのだが、本作を観た皆さんはどんな感想を抱くだろう。

『憐れみの3章』は、不条理がうごめく2024年の写し鏡になり得ている、のかもしれない。

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