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別に恋人じゃなくてもいいんだけど。

昨日の雑にポエミーな記事を振り返ったら、なんとなく今の素直な気持ちも書き残しておきたくなったので、痛々しい恥部をここに置いておこうと思う。

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突然自分語りをはじめて申し訳ないが、長くお付き合いしていた恋人と別れたのが今年のはじめ。
ひとりで過ごす時間が増えて、大好きな夏を超えて、かれこれ半年以上が過ぎた。

別れを決めたそのときは、怒りも悲しみも通り越し、ただただ20代の半分を無駄にしたんだと嘆く自分がいたけれど、2~3日も経てば別にどうでもよくなって、その間会えていなかった友人各所を訪ねることに多忙を極めるなどしていた。

過去を懐かしむことも、頓挫した未来の計画に耽ることもなく、おかげで自分の人生に生かされていることを実感する日々。なんなら、ひとりで映画館に行ったり、美術館に行ったり、仕事に熱中したり、友達と終電までお喋りしてくるような時間が再び味わえるようになって、少しばかり嬉しくなったというのが本音。

ただ、長く付き合っていた分、わたしと、わたしの恋人だった人との"共通の友達"になってくれた人もたくさんいて、そんな彼/彼女らには、なんだか申し訳ない気持ちになった。
「ちょっと話があって…」と、わたしが訪ねたとき、結婚報告だと思って洒落た店をチョイスしてくれたり、テンション高く「おめでとう〜!」と言う準備をしていたらしい友人たちには、本当に悪いことをした。

せめてもう少し、ウケの1つでも狙える別れ方だったら…なんてなことも思うけど、残念ながらそこまでのセンスは持ち合わせていなかった。それでも、別れた報告をしたところで、これまでの付き合いが変わることはなかったし、そもそも人様の色恋沙汰に首を突っ込んでくる奴もおらず、まったく優しい友人たちに囲まれているなぁとしみじみ。
別れ話なんてそっちのけに、「これでまた、ひろを遊びに誘っていいんだね!」と、嬉々としてスケジュール帳を開いてくれた友人には、心底救われた。

しかし、ふとした時に「やっぱり恋人の存在っていいな」と思うことがある。
いや、別に恋人じゃなくてもいいんだけど、世間一般に"恋人"という枠に収まる人が、その対象になりやすいという話だ。

そう、つまり、綺麗な空を見たときとか、美味しいごはんを食べたときとか、今日の髪型が上手く決まったときとか、ぱっと見たデジタル時計が8月8日の8時8分を指していたときとか‥‥そういう小さすぎる幸せを、ただ報告して、共有して、雑に返されたり、スルーされたり、一緒に喜んだりできる人、そんな人の存在が当たり前にあってくれたらなと、思うのである。

わたしにとって恋人とは、そんな一瞬の喜びをモンタージュのようにして繋ぎ合わせ、瞬間と永遠を共存し続けられるような人の存在であって欲しいんだと思う。その先で夫婦になっても、家族になっても、その恋心だけは忘れたくないし、忘れない努力をしたい。
ベタだけど、かけがえのない、唯一無二の相手から得られる圧倒的な"安心感"、というやつなのだろう。

大人になると、途端に自分のことを棚に上げて、やれ理想の条件だ、仕事だ、お金だ、体の相性だと知ったような口を利く人が増えるけれど、そんな"大人ごっこ"な恋愛は要らないから、ただ一緒にいて心地の良い人と、他愛もない会話に喜んで、受け取った幸せを2人で共有して、際限なく互いの愛を表現して、片方が泣いたらもう片方が笑わせて、また片方が笑ったらもう片方は大笑いして、この限られた時間と空間を最大限に悩んだり楽しんだりできる日常を、わたしは望みたいと思ってしまう。

もちろんその実現には、兄弟だって、両親だって、友人だって、仕事仲間だって、誰でもなり得る可能性があるんだけど、その特別枠のような位置づけで"恋人"って存在があるのかなぁと思ったりする。

じゃあ恋人なら誰でもいいのか!というと、もちろんそんなことはないから難しいんだけど、それはまた別のお話。

流行りのマッチングアプリに勤しむ気は(現状)起きないし、ナンパに精を出す予定も(今のところ)ないんだけど、「恋人」という存在の尊さにはやっぱり惹かれるところがある。今は楽しい惚気話を聞かせてくれる友人や、街ですれ違う素敵なカップルに、心からのエールを送れたら充分だけど、あんまり遠過ぎない未来で、わたしのこのやかましい愛を、適当にあしらってくれる人が現れたらいいなと思う。

結局のところ、愛じゃよ、ハリー。愛じゃ。と、いうことに尽きるわけだ(?)

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