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タバコバニラと琥珀窓

都心では10年に一度の大寒波が到来すると、社内の会話も青い鳥のつぶやきも、この話題で持ちきりだ。
今朝はクローゼットの中でひときわ幅をきかせるロングのダウンコートを手に取った。5年前、私の人生初となる海外経験、真冬のニューヨークで世話になったダウンコートだ。

私は高校を卒業するまで、一度たりとも日本を出たことがなかった。海外、ことアメリカという国に対して強い憧れを抱いていたものの、20年近く、その存在はテレビやスマホの小さな画面の中の出来事でしかなかった。大学の進学も決まったちょうど今頃の季節である。何かに突き動かされるように、学ラン姿の私は学校から真っ直ぐ旅行代理店に足を運び、今からいちばん安くアメリカに行ける旅程を教えて欲しいと頼みにいった。少し驚いた表情を見せながらも、真摯に向き合ってくれたあの店長を忘れない。

さて、真冬のニューヨークはというと、日本の大寒波なんぞと比べ物にならない、まさに極寒である。摩天楼の端の小さなホテルで見た天気予報では、それを"ウィンターストーム"と呼んでいた。雪は降るものではなく、横から叩き付けるものなのだと、観光客にも容赦なかった。しかし、あの街の匂い、あの街の人、あの街の空気は、今でも私の心の支えとして確かに機能している。

記憶に焼き付いて離れない、夕方18:00のグランドセントラル駅。ライオンが逃げ出したり、宇宙人との闘いに備えたり、毎日世界中の人たちが往来したりするのだから、本当に忙しない場所である。だが、駅構内の照明でぼんやりと琥珀色の輝きを見せる窓に、ポイ捨てされた無数の煙草、海外特有のバニラのような甘い香りが立ち込めた、そのすべてが絶妙にマッチした瞬間だった、憧れの場所に私はいま、自分の足で立っているのだとはっきり自覚し、この光景が私の思い出として今後の人生で語り継いでいけることに、並々ならぬ感動を覚えた。

残念ながら、そんな経験のあとに薔薇色の人生が待っているわけはなく、残酷な時の流れは、針だけでなく、私の夢やプライドに深い傷を刻み残していくことも少なくなかった。言い知れぬ閉塞感、漠然とした不安感、大寒波の到来と頬を裂くような冷たい風に、愛の鞭を感じることはできない。だが、ひとり歩く帰り道、目の前に広がる家々の温かな灯りが、時としてあの日の琥珀窓と重なる瞬間がある。タバコバニラと名の付く香水を愛してやまないのは、怪しくも魅惑的なあの街をまるっと詰め込んだような奥深さを感じられるからかもしれない。

かつての憧れが、今はひとつの思い出として、明日を支える糧になる。雪解けは、きっともうすぐである。

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