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人生なんてあっという間…と言わない人になりたい。

もう月曜日かよ?
もうすぐで1年経つの?
もう人生なんてあっという間だよ?
…と、日常生活でそんな台詞を聞くことが増えたし、言うことも増えた。

それこそもう1ヶ月経つことに驚くが、わたしも25歳の誕生日を迎え、いよいよ語尾の上がらない「大人」という言葉の重みを感じている。
SNSを開けば、明らかに第一次結婚ブームが巻き起こっており、久しぶりに会った友人とも、「この間読んだ漫画がさ〜」ではなく、「お金」や「健康」や「キュンキュンしない恋愛話」の比重が大きくなっていることを自覚し、やっぱり「大人(⤵)」になってしまったのだなと実感している。

中でも、時が進むのは早いね、という会話は最近の常套句だ。
天気の話より、ごはんの話より、面白かった映画の話よりまず先に、"時の流れ"について話し始めることが、面白いくらいに増えた。

わたしも決してこれに抗うつもりはない。
事実として、日ごと時計の針はその進みを早くしているのではないか?と、原子時計の仕組みを調べてしまうほどには疑っているし、気付けばあっという間に、冷凍庫のパルムは最後の1本になっている。

だが、だからといって「人生はあっという間だよ」とは言いたくない。
全然、まったくもって、あっという間なわけがない。あっという間なんかであってたまるかと思っている。

***

先日、東京の母(と呼ぶにはちょっと失礼な気がするが)と、ちょっと深そうな話をしたとき、その最後に「人生は長いよ!長い長い!あっという間じゃないよ。悔いがないようにして!とは思うけど、あっという間なんて言ってる人には「あほか!」って言ってあげたほうが良い。」と言ってもらえて、とても嬉しい気持ちになった。

わたしはどこか捻くれたところがあるので、「人生はあっという間だよ!好きなことやりな!」と嬉々として話す先人を、どこか信用し切れない節がある。
逆に、「人生は長いよ。辛いことも楽しいこともたくさんある。」と淡々と話してくれるような先人に、いつも心救われているし、ちゃんと生きているような気がしてとても好感を持ってしまう。

要するに、何事も丁寧に生きている人が良い、という話だ。

いつか読んだ何かの本には、大人になって時間の進みが早く感じるのは、新奇性が薄れるから、と書かれていた。
子供の頃はまだ色んなことを知らないから、些細なことでも新しい発見とカウントされるため、同じ24時間の中でもインプットする量が多く、それと時間の量というものが比例するようにできている、とのことらしい。
だが大人になるにつれ、多少なりとも知っているものが増え、ある程度の予測をして日々暮らしていくと、当たり前に新奇性は薄れ、相対的な時間の量というのも少なく感じてしまうらしいのだ。

そしてきっと、そういう恐れを無理やりにでも突っぱねる手段として、何か変わったことに手を出してみるとか、誰も行ったことがないような国や地域に足を運んでみる、みたいなことを、時たま実行に移す"すごい人"がいるわけなのだろうけど、そこまでのお金と時間と決断力を費やさずとも、日々の生活をちょっと丁寧に生きてみるだけで、自分の時間はぐっと深みを増すのだろうなと、最近感じている。

もちろん、見たい景色、聴きたい音、知りたいことなど、溢れ出る知的探究心に蓋をするという話ではない。あくまで平凡な日々におけるスパイス程度の"心得"である。

サカナクションではないけれど、丁寧、丁寧、丁寧に描くことって、シンプルだけど大切なことだよなと思うのだ。

***

ちなみに、そんな素敵な言葉を投げかけてくれた東京の"お姉さま"は、ここでわたしが言うところの丁寧な生き方が本当に上手い。
その証拠に、いつも何かを面白がっている様子なのである。

失礼な言い方かもしれないが、嘘でしょ?と思ってしまうほど、どうでもいい、くだらない話題に心から笑っているようで、「本当に面白かったね!」とケタケタ笑いながら話してくる。たぶん珍しいタイプの「大人」だと思う。

だけど、それはある意味誰よりもすごい努力だなと思うし、誰よりも日々の時間を大切にしている裏返しのようで、何か特別な仕事術とか、処世術というわけではまったくないけれど、ひとつの目指すべき、好きな「大人」の形だなと思うのである。

わたしは酒が飲めないし、妻夫木聡の代わりを頼まれる世界線なんて、どこを探しても見つからないけれど、サッポロビールの「大人エレベーター」のCMオファーが来たら、わたしは彼女の年齢の階を選択したいなと思う。

そこにいる大人は、人生なんてあっという間…と言わない人だから。


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