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オーストラリアに行ったら、レ・クレドールのコンシェルジュになった


ロックダウン中のシドニーで、私の職場であるホテルは、影響をもろに食らっています。時間だけはいやというほどあるので、どうやって現在の自分が出来たのかを振り返ってみました。なんせ20年にわたるストーリーなので、分けて書いていきます。

まずは、ホテルに就職した理由から

そもそも、大学の専攻は歴史だったのでホテル業界とは全然関係がなかった。

いざ就活を、という際にどういう業界に就くべきか、と考えた。だいたい、文学部史学科卒なんて学歴は、普通の会社に勤めるに当たっては屁の役にも立たない。博物館の学芸員もどうかな、と考えたけど、そのような仕事はそもそも枠が少ないし、それほど研究心に燃えていたわけでもなかった。

さてどうすっか、と考えていて、漠然と、そしてかなり青くさい考え方なのだが、カネ勘定をするような仕事はしたくないなあ、とは思っていた。どうせなら誰かの役に立つ仕事をしたいと思い、接客業なんてどうだろうか、という目標が出来た。まあどんな仕事だって結局はカネ勘定しなきゃならないし、誰かの役に立ってはいるのだろうけど、それがダイレクトに分かるという点では接客業は分かりやすいかな、と考えたわけだ。

接客業にもいろいろあるが、どうせ接客業ならば、最高峰(もしくは一番難しい)と思われるホテルで働きたい、と思って業種を絞った。

いきなりホテルかよ、と思われるかもしれないが、実は小さい頃に、父親の仕事の関係でシンガポールに住んでいた。今から考えると嫌なガキだなあ、と思うが、一流ホテルの玄関をくぐるのに気後れすることがなくて、街なかでトイレに行きたくなればホテルが一番いい!ということを知っていたし、実行していた(ますますヤなガキだ)。なんでこうなったかと言うと、シンガポールに行ったことのある人なら分かると思うが、街なかにはハイアットだシェラトンだヒルトンだ、と名だたるホテルがずらずら並んでいるので見慣れている。そして、家族でホテルのレストランに行って食事をしたり、待ち合わせをしたりすることはかなり頻繁にあったから、日本にいる同年代の少年よりホテル慣れは断然していたと思う。その時分からホテルってかっこいいな、と思っていたという理由もあったのかもしれない。

それで有名どころのホテルに志望を出しまくり、面接も数多く受けたのだが、ちょうどバブル崩壊後の時期だったし、自分も実際はそれほどしゃかりきに就活してなかったので(このあたりの詰めが甘いのはいつものことだ)、結局内定もらったのは1社だけ(ひどいなあ)。地元横浜にあるホテルだった。

日本のホテルでの勤務

日本の会社なので、就職後どの部署に回されるのかは会社次第(一応希望は聞かれたのかな?覚えていない)。宿泊課に配属され、一番下っ端のベルデスクに配属された。やはりホテルマンと言えば短絡的に宿泊部門に行きたいと思っていたのでこれは嬉しかった。

今から考えると、やはり大卒者は宿泊課に行く傾向があったようだ。専門学校に行っていた人と違って実務経験や知識がないし、バッサリ言うと、大卒なんだから幹部候補生、だからホテルの背骨である宿泊部門で働かせる、ということなのだろうか。

結局そこで3年働いた。全く知らない業界で、日本のカイシャならではの厳しい面もあったが、まあよく働き、よく学び、よく遊んだと思う。自分が勤めていたホテルは、一応世界に名だたるブランドだったが、実際は地元の中小企業が経営している、200室ほどの小さなホテル。いい意味で小回りが利き、風通しのいい会社だった。そして、誰かのために仕事をする、というのは素晴らしいことなんだ、ということを実感した。ホテルのフロントで働いていると、それがダイレクトに伝わって来る。当時は、海外旅行者の数は今とは考えられないくらい少なかったが、それでもブランド名と、横浜という土地柄、数は少なくともレギュラーの外国人客もいたので、英語を使えるという面白さもあった。尊敬できる同僚、上司もいたので励みになった。そんなわけで、この仕事を究めたい、という願望がだんだん湧いて来、ならば語学が必要だろう、そして一度海外で留学してみたい...と思い始めた。自分なりに勉強しなくては、ということで、自費で英会話学校に通ったり、英語の試験を受けたりしていた。

そうこうしていると、大きな転機が訪れた。

(つづく)

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