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『正欲』感想—思ったよりもずっと、気持ちの良い話だった

朝井リョウの作家生活10周年記念作品、『正欲』。
性欲をもじった「正しい欲」と題された本について知ったのは、インスタのストーリーだった。

大学生の頃、同じ学部である発表に居合わせたということ以外ほとんど繋がりのない先輩。知り合いと呼べるかも微妙なほどの関係のその人は、ストーリーにたびたび本を載せる。

「気持ちの良い話じゃないし、気軽におすすめできる本じゃないけど、凄かった」といった趣旨の感想が載っていた気がする。
表面上でしか知らないその人の表面は、ビール好きで彼女持ち、大企業への就職を勝ち取り就活を早々に終えた上回生。これでもかというくらい「正解」の側にいるようにガワからは見えてしまう人。

挑発的にも感じられるタイトルとシンプルな表紙が記憶に残り、調べてみると出てきたのは、「水に性欲を抱く人たちの話」という文言。
至ってシンプルなのに飲み込むのに少し時間を要するようなその説明がわかりたくて、書店で手に取った。

いつも、初めての本を手に取る時、可能であれば一文目を見るようにしている。それでその本から手を離すかどうか決める。
『正欲』は、その一文目から、手元に置いてみたいと思うものだった。
正直あまりにグロテスクと感じるものだったりしたら自分の本棚に納めておきたくないかもと身構えてページを捲ったのだが、その最初に文章は拍子抜けするほど淡々と、海に流れ着いたボトルに入っていた秘密の手紙のように、分かりやすいのに底知れない背景が広がっているのを感じさせ、もっとこの文章を書いた人について知りたいと、その世界をわかりたいと思わせる文章だった。


けれどそんな出会いをしてから実際に物語を読み始めるまでは、いくばくかの時を通した。
大学に在学中買ったのに、新卒で入った会社を辞めてしばらく経ったある日、本棚の一番下の段に並ぶその背表紙と目が合うまで読み始めなかった。


以下、本編の内容に触れる。

朝井リョウ氏の作品を読むのは初めてで、まずカウントダウン形式であることの驚いた。推理小説のように、冒頭読む事件の発生日までの軌跡を、そこに絶対的に事態が収束してしまうまで何が起きるのかを辿るというスタイルにはワクワクさせられた。

また、群像劇のように視点が切り替わることや、一つ一つの視点が30ページ前後でまとまっていることもとても読みやすいと思った。3人の視点を順々に回る前半、年月がいつなのかというディテールがある程度確認できる仕組みになっていることにも満足を得られた。

でも、そのパターンに少し飽きがくる頃に、新たな人物の視点を得られることも「上手い」と思った。個人的には夏月や佐々木佳道の視点が好きだけれど、神戸八重子が一番、身近に「知ってる」と思えた。

寺井啓喜検事が一番「遠く」感じた。それは視点が切り替わる人々の中で一番、マジョリティ側の岸に立っている≒いようとする、またはそうだと信じる人間だからだろう。
夏月や佳道、大也ほどでなくとも、マジョリティ側とは言えないと自分で線を引いたことがあったり、引かれたと感じたことのある人間は、自然とそう感じるのではないかと思う。
けれどその寺井啓喜という人間が、「涙」を通して、安全な内陸ではなく岸と海との境界線上に自分も実は立っているのだと認識させられるシーンや、対岸と認識している人間と向き合わされるシーンがあったことはとても気持ちの良い部分であったと思う。
マジョリティ側に線を引かれたと感じたことのある人間は、そうだそう問いただしてみたかったのだと思えるようなやり取りが盛り込まれているから、この小説は間違いなく娯楽小説と言えるのだと思う。

余談だが、
「顔面の肉が、重力に負けていった」
という表現がおそらく本書で一番、印象に残っている。

けれど寺井の田吉に対する眼差しを見るに、彼は間違いなく「正義を実現する」ことを目指す人物なのだと思う。「社会正義」となると、その概念は4文字に収まり切るにはあまりの複雑な気がしてしまって、わからなくなるけれど。


「読んでいて気持ちよく感じた」シーンの第3位が上述の寺井検事のシーンだとすれば、第2位は大也の視点から八重子と自宅前で応酬するシーンだ。

大也は今「流行り」の「多様性の推進」についてもやもやと言語化の難しいような飲み込めなさをありありと口にして文句を言ってくれるし、八重子の言うことにもどれも頷かされる。対話の真骨頂ここに極まれり、と言いたくなるくらい、話終わった後の二人の心情も晴れやかに感じる。
この二人の歩みがこれから交差するかどうかは分からないけれど、あの住宅街での交差はそれぞれの人物の人生にとって意義あるものだったし、その視野を広げる影響を持つ言葉たちだった。
あの対峙があったかなかったかでは、世界で見えるもの、視界に収まるものが、少し異なるはずだ。

小説での描き方としても、書きたいことを書きたいだけ、つまり一人のモノローグを延々と続けてページを埋めてしまうのではなく、一呼吸ごとに周囲の環境を埋め込むことでその背景状況をメタファー的に取り込めているのも見事で、読んでいて心地が良かったし、読ませる書き方だなとも思った。

気持ち良さで言うなら、長編小説を読んでいて、最初は物語に入りこむまではゆっくりと感じるが、ページを繰るにつれ速度がだんだんと上がり、特に終盤では1ページずつを存分に味わっていても読者体験としての速度が没入感が増すのにつれて倍々に上がっていくのが非常に快感だ。

その意味でも八重子と大也の間での言葉の応酬は、体感時間がとても短く、気持ちが良かった。
八重子だけでなくほとんどの登場人物に言えることだが、一面的な描き方ではなく見る人や角度によってその映り方が変わる人間性をきちんと描いてくれたのもよかった。


では、(私という個人の中で)栄えある1位は。
夏月と佳道の、
「いなくならないからって、伝えてください」だ。

この二人がこの二人だったから、この物語は、私に取って「読後感の良い物語」として認識されてしまった。
もちろんそうならない余地もあるけれど、でも、この言葉がお互いに連絡も何も交わせない状態で互いへ向けて出るのだから、「よかったな」と思えるし、きっとその先も「大丈夫」なんじゃないかと希望を抱いてしまうし、「美しい」とか「羨ましい」とさえ感じてしまうのだ。

生きるのに必要な存在は、この二人にとっての互いのことじゃないかと、そんな一つの答え。

きっと、そんな何かを誰しもどこかで欲していて。
それが、人間に共通する「正欲」。



「正義を実現する」という欲をもつ寺井、
「世の中をより良く、正しい方向へ」と導きたい欲を正しいものとしながら、自分の性欲の正しさ/正しくなさを直視しきれずにいた八重子、
「自分の性欲は正しくない」と理解して日々を過ごす大也、
「正しく欲を抱ければいいのに」と願った佳道、
「世間の言う正しい欲ってなんだろう」と興味をもって問うた夏月。


いつも小説を読んでも登場人物の名前が覚えられないことが多いのに、この本はみんなの名前を難なく覚えることができた。

影のヒーロー、と言うより脇役の中で一番魅力が滲んでるのは、越川だと思う。きっと違った物語では主人公として、正しさとは何かを誰しもが応援したくなるような形で模索していく。

けれど、この話の主人公は、佐々木佳道ではないかと感じる。
逸脱した異物と多数派が切り捨てる彼を主に据えたこの物語が好きだ。
読んでいて、気持ちが良かったから。

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