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阿呆の彷徨き|『阿房列車』

 最近、内田百閒の『阿房列車』をスロウなペースで読み勧めているのだが、これが強烈に面白い。
 此処で言う阿房というのは、読んで字の如くアホのことではなく、秦の始皇帝が建設した阿房宮に由来するらしい。よって『阿房列車』の内容は、列車の中でいきなりケツを丸出しにしたかと思えば、島根県の民謡「安来節」を絶叫しながら廊下を往来。挙句の果てには、隣席に鎮座している老人が身につけている金品を奪い取り、脱兎の如く窓からジャンプ。万歳三唱を叫びながら鉄橋の下に流れる川へ消えてゆく───という、アホにディストーションやファズという歪みをエフェクトしたような荒唐無稽な行動を記しているものではなく、内田百閒が体験した旅行を記した内容になっている。
 旅行記、といって良いのだろうか。旅行というのは、なんか行ってみたいなと考える旅行先に、いい感じの店に行って其の土地の酒を飲んでアッパラパーになって序に仕事もしますか、というような何かしらの用事があるからこそ存在する事ができる行動である。だが、この『阿房列車』の序文は「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。」なのだ。つまり、旅として成立しているかどうか怪しい旅行記なのである。
 今まで読んだ『阿房列車』の内容には、其の土地の美しい風景だとかいい感じに美味かった其の土地の食べ物に関する描写は出てこない。では何が出てくるのか。それは、内田の偏愛に満ち満ちた列車に対する執着が描写されている。一等、二等、三等、という座席の階級があるとすれば、三等席に乗るのは仕方がないとしても、中途半端な二等席には絶対に座りたくないと言っていたり、どうしても行きは一等に乗りたいので借金をしたり、席がないと窓口で宣告されたのにも関わらず駅長室に乗り込んでいく等々。どちらかと言うと、内田の我が儘とまごつくことが多くを占めているのだが、どうしても列車に乗りたいという気持ちが先行している具合が強烈に面白いのだ。
 どうしてこんなにも列車に乗りたいのか、用もないのに東京 ー 大阪間という当時としてはかなり長距離の列車に乗りたいのか。一応、時代背景を考慮すると、1950年という戦後の鉄道運行が回復傾向にあったという事があり、更に、廃止されていた東海道本線特急列車が運行再開したということもあるだろう。鉄道好きの内田がどうしても、借金をしてまで列車に乗りがった気持ちもなんとなく理解できる。それでも、あの東京駅構内でのまごまごした感じは何なのだろうかと笑わずにはいられない。もし、自分が遭遇することになったら「なに、あれ。めっちゃウケるんですけど」とか言ってしまいそうだ。
 そんなまごまごと我が儘、借金についての陳述が7割ぐらい過ぎ去った頃に列車は発進する。そう、7割過ぎてやっと列車が走り出すのだ。今は『区間阿房列車』という章を読んでいるのだが、「日光、江ノ島、函根には絶対に行ってやんねぇ。ムカつくから」ということに大変な文量を割いている。概ね恨み節なのだが、あまりの熱の篭もりように笑いが止まらない。熱い文章というのは多分このことを言うのだろう。そんな文章郡を読みながら列車の発進を今か今かと待ち続けるのは、とても面白い読書体験だ。


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