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自意識が介入する

 ありがたいことに、最近文章を書くと自意識が介入する事なく筆が進んでいる。あはぁん、こらおもしろいだとか、あはぁん、こら良いこと言ってますわみたいに、自身の意志とは離れた場所で自分の文章を眺めることが出来てかなり楽しい。あはぁん、この書き出しもよろしいでごわすはねぇ。こんなことを書くのは自意識マシマシである。
 自意識が介入している文章とは何か。例えば、本に関しての評論を書く際に、この本を読んだ俺はこんなにも頭が良いんだぜ?!みたいな、本に関して何も関係が無い自分語りが発生し、よくわからないカッコつけが発生する。そのカッコつけは本当に意味がないので避けたいのだが、気がついていないだけで何度かやっているような気がしてならない。アババッバ。
 して、自意識がない文章とはどういうものか。右でも少し触れたのだが、文章を書いている最中、または自身の文章を時間を置いて読み返した際に、あはぁん、こらおもしろいわ、と思うような文章が書けた際に、自意識と文章がかけ離れたものになるのではないだろうか。例えば、例え過ぎだな、なんじゃい例えばって。なぜ僕が例えを提示してうんたら言わなければならないのだ。ムッキー。ちなみに、これは自意識は含まれておりません。悪しからず。
 さておき、文章から自意識を生んたらするのであれば、飲酒から自意識を排除することができるのでは無いかと思う。
 奇しくも、文章を書く、飲酒を行う、どちらも同じ行為として捉えることができる。英語で言うと、DrinkとWrite、どちらも行為を表す動詞として捉えることが可能なのだ。したらば、その動を表す詞から、自意識を乖離させることは可能なのでは無いだろうか。It's Automattic 側にいるだけで  その目に見つめられるだけで。あはぁん。
 少し考えてみる、飲酒から自意識を乖離させるとは何事かと。一つすぐに思いつくことは、酩酊状態に突入すると記憶がぶっ飛び、自身の意志とは版下言動や行動、思弁にたどり着くことができる。これは自意識が介入しているとは言えないものであると思うのだが、自意識とともに記憶も彼方へ消え去ってしまうので自意識以前の問題ではないかと思う。マジ?
 では、自意識のない飲酒とはなにか。自意識のない文章を書いているときは、こいつ面白いなとか、自分を客観的に見た上で判断しているのだろう。その視点を飲酒をしている自分自身に当てればよいだけの話になってくる。であれば、今からしこたま酒を飲んでいる最中に「僕は今、他人の目にどう写っているのだろうか」と、考えればよいのだろうか。バカ!そんな話ではない。今、僕が話をしたいのは、酒を飲むという行為に対して自意識を切穴せることができるかどうかの話だ。ンはぁ、酒がうまい。
 こう、意味のわからない話をつらつらと書いている瞬間はものすごく酒が美味くなる。誰かに理解されるためではなく、また、自身の中で理解をし解剖するためではない感じがものすごく心地が良いのだ。ウフフ、自意識とか結構どうでも良くないか?ウフフのㇷ。
 と思う瞬間こそが、飲酒という行為の中で自意識を乖離させた瞬間ではないかと思う。自意識を乖離させた瞬間、先程まで悩みになっていた事柄が春眠のように沈んでゆく。自意識とも無意識とも捉えぬことが出来ぬ時間こそが、自意識のない飲酒と言えるのではないだろうか。あぁ、酒がうまい。

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