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獣たちの夜で踊るのか

  押井守の話題に触れたので、押井守の話がしたい…。押井守の話をさせてくれ。
  諸兄諸姉らはご存知かと思うが、押井は学生時代の青春を学生運動に捧げた人物であり、あまりにも熱を上げすぎたのか最終的にはどこかの山小屋に監禁された経験を持つ人物である。押井はその経験をもとに、手掛けた作品には、学生運動や革命のテイストを節々に感じる場面がある。大抵それはユーモアとして消費されることが多いのだが、パトレイバー2 THE MOVIEのようにがっつり革命をテーマにすることがある。そんな押井の体験を十二分に反映させた作品が『獣たちの夜 BLOOD THE LAST VAMPIRE』だ。
  話は逸れるが、僕はイデオロギーの闘争に関心がある。大学時代、社会主義・共産主義を基とする西側諸国と資本主義・自由世界を基とする西側諸国の争いである冷戦について学ぶとが多かった。その時代に起こった抑止論や代理戦争、宇宙開発まで様々なことを学んだつもりである。それらを学んだ上で、我が国における闘争、安保闘争や三里塚闘争などはどう解釈するべきなのかを考えたことがある。それらを考える中で、押井が熱中した学生運動は避けて通ることはできない。闘争・運動に参加した人物たちは何を考え何を思い行動を起こすことにしたのか、端的に言うと、彼らが闘争を起こした行動原理を知りたいなと思い様々な書籍を手に取り、講義に参加したりした。
  右に述べた鬱屈した気持ちは学生時代限定の話ではなく、社会人となった今も抱えており、そんなことを考え抱えているものだから『獣たちの夜』に出会ったのは必然と言ってもいいかもしれない。この本は、押井が学生運動を通して体験したことや心情を余すところなく陳述しており、運動に参加していた際の高揚感やその運動を通してなにも買えることができなかった喪失感を赤裸々に語っている。これは吸血鬼を主題においた作品だが、本質は、押井守という人間の自伝、いや、学生運動に参加し世の中を変えることができると信じていた一モブの自伝と言っても差し支えはないだろう。例えば、作中でこんな一文がある。

  今夜こそ自分は投げるだろう、と零は考えていた。

押井守、「獣たちの夜 BLOOD THE LAST VAMPIRE」、2002年、17頁

  この一文は、主人公である零が歩道のコンクリートを粉砕し、投石の準備をしている際に陳述した一部である。彼は、暴力革命は否定しないとは言いつつも、暴力における蛮行さを忌避する人間である。その彼が周りの熱気にやられ、機動隊に投げるための石を準備している場面で放たれた一文が右のものであり、この石を投げることで何かを変える事ができるはずと信じていたのである。その結果どうなるのかは、読んでみてのお楽しみということで明言しないが、右に述べた一モブの心情というのは他の書籍で知ることは難しい。故に、この作品は吸血鬼小説というよりは、学生運動青春小説と位置づけてもいいかもしれない。
  無論、学生運動の陳述以外の吸血鬼に関する理屈付も面白い。僕たちが生きる世界の吸血鬼は、自然を超越した存在で表現されることが常だが、この『獣たちの夜』では、哲学・人間科学・生物学において何故吸血鬼が存在しているかの理屈付をしている。感覚的に言えば、SFに近いような理屈付だが、しれがかなり納得できる形で展開しているのがかなり面白い。その理屈を肯定するために約120Pを要しているのがめたくそ面白いのだが、しれは横においておこう。
  解説でも書いてるが、この作品絶望と希望で構成された作品である。押井守を模した零が、学生運動から自身の力を超越した存在に出会い、どういう絶望を感じどう希望を抱くことができたのか、是非あなたの目で確かめてほしい。

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